古くから日本画や文化財を彩ってきた顔料の「胡粉(ごふん)」。現在では「胡粉ネイル」としてマニキュアにもなっているのです。においがなく、消毒用アルコールなどで落とせるとあって、ネイルをしたくてもできなかった人を中心に人気を博しています。

 

そんなヒット商品を世に送り出したのは、江戸時代から続く日本最古の絵具商店・上羽絵惣(うえばえそう)。十代目である石田結実さんは、多額の借金を抱えた同社を継ぎ、胡粉ネイルという起死回生の一手を発案した立役者です。

 

今回は彩のプロフェッショナルとして活躍する石田さんに、胡粉ネイル誕生までの道のり、そしてひとつひとつの色に託す熱い想いを語っていただきました。

 


 

突然のバトンタッチ、3億の借金…「なにくそ根性」で力を発揮

‐まずは改めて、上羽絵惣さんの歴史をお伺いできますか?

創業は1751年(宝暦元年)、絵の具を作ってお客様に提供しています。そのころは、この近所に二十数件の絵の具屋さんがあったらしいですね。江戸時代には機械も写真もないので、手で描いていくしかない。今よりも顔料が必要とされていた時代です。でも明治維新になると着物の柄を描く人は仕事がなくなって、だんだん絵の具もいらなくなり、昭和に入るとうちのみが残ったんです。ですので、上羽絵惣は日本最古の絵の具商と言っていただいている。小さいですが、細く長く続けられたのがうちの歴史ですね。

‐生き残ってこられた理由はどんな点にあるのでしょうか。

一商人ですから、家訓や社訓はないですよ。やっぱり商人は、お客様に喜んでいただける商品を提供するからこそ、誇りを持って業をやれる。それをずっとやってきただけのことだと思うんです。その「やってきただけ」が難しいのですが、いつもお客さんに信用されるものを提供してきたから、ここまで来られたのかなと。それに、残ることに徹したから残れているのかなとも思います。軸からぶれずに続けられた証拠なんじゃないかと。

‐九代目はお父様ですよね。もともと継ぐつもりだったんですか?

いいえ、父はバブルの後も自転車操業的なことばかりやっていたんです。意見したら「俺の言うこと聞いときゃええねん」と言われて、私は「やめた」と思ったんですね。当時は愛着もなかったですし、九代目という任務を背負う父を動かす気力もありませんでした。自分の人生をしっかり持ちたい、父の奴隷にはなりたくないという気持ちもあって、家を出たんです。

‐それからどうしたんですか?

それからは青果市場の会社で働きましたが、すごく辛かったですよ。朝の4時起きですし、母子家庭で子どももまだ小学生でしたから。でも子どもは私に心配かけたらあかんって考えてくれたりもして、マイナスばかりではなかったです。

ただ、売り上げも下がっていく一方でしたし、借金返済ってすごくストレスですよね。父はある日脳内出血で倒れて、見つかったときはもう半身不随。だんだん言葉も出なくなって、耳もどこまで聞こえているかという感じに。

‐予想外のかたちでバトンを受け継ぐことになったのですね。

前向きに考えると、それも私のパワーになったと思います。なにか成らざるをえない位置に立たされるほうが、力を発揮できるかなと。ただ当時3億の借金があって、経済もずっと低迷しているし、やっていけるかなという危機感はすごくありましたね。

でも、やめてしまったら絵の具職人さんとその家族はどうなるのと思って。職人さんは商品を作る以外のことは不器用なもので、この就職難の時代に放り出してどうなるんだろうと。それにうちの絵の具は京都の文化財にも使われているので、この家業をやめると日本の伝統を閉ざすことにもなってしまう。職人さんの家族という、子どもを守る親のような責任と、与えられている業をなすことの責任。この二つを感じて、「なにくそ、やめてはいけない」という想いになりましたね。

‐それで胡粉ネイルで起死回生を。

ありがたいことに胡粉ネイルはとんとん拍子に上って、数カ月でテレビ番組に取り上げられたんです。うちのストーリーもきれいに撮ってくださって、父に見せたら泣いていました。言葉はしゃべれなくても分かったんだと思います。それでしばらくして、父は他界しましたね。

 

興味のなかったネイル。突然降りてきたひらめきとは

‐どのようにして胡粉ネイルに行き着いたんですか。

女性は毎日お化粧やお洋服で、自分を彩っていますよね。男性も同じで、服に疎くてもまた違うこだわりを持っているんですよ。「ゴルフの道具は絶対これやねん」とか、「旅行先の景色に癒しや刺激をもらってる」とか。皆さんどこかで色に興味を持っているんです。それで「私のお客さんは画家だけじゃない、世界中の人全てがアーティストなんや」ということがキラキラと降ってきて、ときめきでしたね。

‐視野が一気に広がったわけですね。

当時、ネイルアートに興味はなかったんです。でも友達が「妊娠して、ネイルが大好きやったのにできひんねん」と話していて。やっぱり妊婦さんは敏感になりますし、その気持ちも分かると思いました。

ちょうどそのころ、ラジオから「ホタテ塗料で女子高生がネイル」という話が流れてきて。工業高校で作った塗料を爪に塗ったら、においがないから良いということでした。「においがないってすごいことなんや」と気づきましたし、「胡粉の原料ってホタテの貝殻だ」と大ヒントに巡り合ったんです。その後、たまたまテレビで「ネイルで爪が傷んでしまった」とか、「皮膚が弱くて除光液が使えない」とか聞いて、「爪に優しくて除光液以外で落とせたら、もっと広がるかも」と思いついたんです。そこに胡粉を入れるひらめきまでは早かったですよ。

‐いい偶然が重なったんですね。

願いや想いを持ってアンテナを張っていれば、ちゃんとキャッチできるんだと思ってます。自分がどれだけ心を託して願ってるか、というところは大事ですね。そうしてひらめきにたどり着いて、交渉や試作に約1年かかり、2010年1月に胡粉ネイルがデビューしました。

‐デビューまで1年というのは、かなり早いような気がしますが。

メーカーの皆さんが何度も試作してくださったおかげです。デビューのときも、色ものは私が納得できるほど定着力が良くなかったので、透明色だけだったんですよ。でも、においがしなくて爪をきれいにすることと、胡粉が入っていることはぶれてない。まずは最小ロットの6000本を1年間で売ろうと思っていましたが、メディアに取り上げられたり、京都商工会議所の知恵ビジネスプランコンテストに認定されたりしたので、4カ月ぐらいで完売しました。今ではメディア戦略についてもよく聞かれます。初めは何もないと言っていましたが、改めて何がウケたか思い返すと、この商品にはすごいストーリー性があるんです。誰もが思わなかった、でも寄り添ってもおかしくないストーリーが私のテーマですね。

グッドデザイン賞も獲得されていましたが、ラベルもストーリー性が高いですよね。

これも狙っていたわけではないですが、このラベルは文明開化のときに六代目がつけたものです。文明開化というのは、女性が新しい方向性を持てた、一つのピリオドのある時期。そして今、女性が活躍する時代になって、また新たな黎明期だと思うんです。したくてもできなかった女性も楽しめる。仕事でできなくても、アフターファイブに楽しめる。その新たなネイルに、このラベルをつけることでストーリーができたんですよ。作ったかのようなストーリーですが、でも本当にそう思ってこのラベルをつけました。結果的にはそういう商品になってくれたから。

‐理想的なかたちで出せたわけですね。反対に、新商品を出すにあたって周りから反対の声は。

当時は本当に低迷期だったので、社内はみんな藁をもつかむ気持ちでした。だから胡粉ネイルのことを聞いて、どこかには「えーっ、大丈夫?」なんて気持ちもあったかもしれないですけど、大きな声で反対されたことはなかったです。ただ、同業者さんは男性ばかり。ちょうどネイルにアクリル絵の具が使われるようになったころでしたから、「流行に参入しようとしてんねんな」とも言われたんです。でも、「そうじゃないねん。今あるネイルに寄るんじゃなくて、相反するもんなんや」という自信はありましたね。

 

彩のプロフェッショナルとして、1人でも多くの人に喜びを

‐購入された方からは、どんな声が挙がっていますか。

初めは「こんなに簡単に取れていいんですか」という声も少しありました。ですが、「ワンデイで楽しむから胡粉ネイルが好きなの」という方や「簡単に取れるから好き」と言ってくださる方は多いですね。やはり、したくてもできない人から広まっている部分もあるので。

あとは、マニキュア独特のにおいが苦手な年配の方、妊婦さんや子どものことを考える世代の方が多いです。お子さんにも使えるので、親子3代で使ってくださっている方も。それに早く乾くから、働く女性にもいい。ゆっくり乾かす時間がなくても、薄づきのものならお化粧直しのときに使えますし、においで迷惑かけることもないです。いろんな層の方に使っていただけることがとても嬉しいです。

‐小林麻央さんもブログで胡粉ネイルを紹介されていましたよね。

すごくありがたかったです。今、全国40か所ほどの院内サロンに置いてもらってます。看護師さんが見つけてくださって、「これやったら使えるんじゃないの」と広めていただいて。私も患者さんと話したのですが、胡粉ネイルを使うようになって痛んだ爪を隠すこともなくなったと。それに「『女性であることを忘れちゃあかんな』と思わせてくれた、精神的に元気にしてくれてありがとうございます」と言ってくださった。そうして1人でも多くの方に元気になってもらえたのは、すごくパワーをもらっています。

 ネイルアート市場が伸びる一方で、したくてもできない方がいらっしゃる。ネイルという彩を楽しめない方にこそ使ってもらえる商品にしたい、というのがきっかけにあるので。化粧品屋になりたかったわけじゃなくて、「1人でも多くの方に彩を楽しんでもらう」というのが軸でした。実際、そうして元気になる方がたくさんいますし、まだ世界中にもいると思うから、発信する道を見つけたいですね。私はあくまで、彩のプロフェッショナルとして人に喜んでもらうことを業としたいんですよ。

 

子どもに名前をつけるように、色に想いを託す

‐色に対する想いが強いのは、やはりお仕事柄?

ずっと絵の具を見て育っているから、色に興味があったんでしょうね。始めたのは家を出てからですが、文部科学省認定色彩検定を一級まで取って、絵画教室に行き、ドレスセラピーも勉強しました。衣装も自己表現で、自分にマッチしたものをまとうといい波長になるんですよ。パーソナルカラーも学びましたし、伝統色彩士協会にも行きました。染料系のことも勉強しましたね。染料からの色名は華やかなものが多いので、伝統色名の中では染料色名の方が多いです。

胡粉ネイルでは、昔からの色名のほかに私がつけた色名も3分の1ぐらいあります。『金雲母撫子(きららなでしこ)』とか『水茜(みずあかね)』、『水桃(みずもも)』もそうです。色名もすごく大事にしていて、「言霊と一緒に色を感じられるから、さらに感動があるんだよ」とみんなに伝えています。そこの軸はぶれないように、色名とストーリーコンセプトは私が立てています

‐石田さんがネーミングされてるんですね。どれも雅で素敵です。

ある先生に言わせれば、「色名なんて子どもに名前つけるようなもんやから、言ったもん勝ちや」と。人の名前でも、辞書に載っている名前の子もいるし、載っていない名前の子もいますよね。子どもに想いを託して名前をつけますが、色名も同じ感覚です。

例えば「ディープレッド」とか「深い赤」とかは、単なるカテゴリーみたいで面白くない。感情、感性を伝えたいので。それぞれの色には、「いってらっしゃい」っていう気持ちで名前をつけています。サイトではそういった名前の由来や意味も載せているので、ぜひ興味を持ってもらいたいですね。色の感覚を呼び起こしてくださると、きっと新しい感性が芽生えるはずです。

 

願いや想いを抱いて、軸からぶれずに歩み続ける

‐現代のあらゆる女性のための胡粉ネイルですが、起業やビジネスを志す女性も増えているなか、活躍するにはどのような点が大事だと思いますか。

やはり本当の願い、想いが大事です。難しいことは考えなくていいし、単純でいい。自分がその軸からぶれないでいられるかどうかです。言葉だと簡単ですけど、実際にできるかは難しいかもしれないですね。願い、想いがあれば、それはアンテナが出ている状態。軸からぶれなければ、アンテナの位置も明確になってくる。なにかキャッチすれば、それが願いや想いを応援してくれますよ。ぜひわくわくしながら探してほしいですね。

‐今後の夢や、チャレンジしたいことはなんですか。

色で情を伝えるようなアイテムやプロモーションを目指したい。「情」のつく言葉は色で表せると気づいたんですよ。心に思い描く「情景」には色がついているじゃないですか。それに「茜さす……」なんて和歌でも、「茜」という色に対してすごく熱い気持ちが入っているんですよ。色に「感情」を託しているんです。灰色の人生とか、ブルーな気分とか。クールダウンしたいなと思ったら、寒色を身に着けてみたりしますし、赤い部屋と青い部屋とでは体温が変わります。色のエネルギーって全てのことに関係するんですね。

あと、伝えたいのは思いやり。自分の「情」を知ることによって、人の心も察することができると思います。色の力を通して思いやりにも気づけるようになればいいなと。

‐石田さんご自身が特にお好きな色や、思い入れのある色は?

七色のレインボーです(笑)。「全ての色を愛しています」とも言っていますね。その七色で全ての色がつくられるので、どれも必要だし、ひとつでも欠ければ必ず変になる。自然の色を素直に愛したいですし、壊さないよう努力できるのが人間だと思います。胡粉ネイルの材料も自然由来のものなので、それを全て愛して取り込めたら体にも良いですよ。

胡粉ネイルに関わる前に、黒ばかり着ている時代があったんです。でもそうしていると、しんどくなってきて。それは隠れたい気持ちや、どこかで意固地になっている自分があったから。そんな感情も、色によってお話できると思います。

‐自分をどう見せたいか、誰でも多少は意識していますよね。

おしゃれはもちろん自分のためでもあって、刺激になったり自信を持てたりします。さらに、あるお茶屋のおかみさんが言うには、「着物を着るのがおもてなしの一つです」と。帯や小物を選んで、来てくれた人を着物でお迎えすることによって喜んでもらえるんです。そんな感覚で毎日の服を、一人でも多くの人に喜んでもらえるように選ぶのも、人間の醍醐味じゃないかなと思ったんですよ。脳がこれだけ発達したぶん、自分をどう見せるか考えるのも大切なこと。そういうのも「情」なんじゃないかなと思いますね。

‐まさに、ひとりひとりがアーティストですね。

色への想いはこれからも絶対ぶれないですね。それにもちろん、この上羽絵惣は絵の具を作り続けます。絵の具屋として260年続けてこられたので、この先も軸からぶれずに信頼されるものを作りたいです。

 


 

「『他人を変えてやろう』ではなく、自分がどうあるかが大事」。石田さんの根底には、そんな想いがありました。自然の色を愛し、情を大切にする人だからこそ、まっすぐな想いを持ち続けられるのかもしれません。

 

どんな自分になりたいかを考えるのは、同時にどんな色を選ぶか考えることではないでしょうか。彩のプロフェッショナルのおかげで、今日もまた一人、色をまとう楽しみを取り戻せた人がいるはずです。