庄司 智昭
編集者 / ライター|東京と秋田の2拠点生活|inquireに所属|関心領域:ローカル、テクノロジー、メンタルヘルス|「おきてがみ( note.mu/okitegamilocal )」というローカルマガジンを始めました

満員電車が嫌いである。新宿や渋谷などの人がごった返している場所も。故郷が秋田県の田舎にあるため、地方での静かな生活に戻りたいと思うことがある。しかし、このような議論をするときに必ず話題に上がるのは「仕事がない」問題だ。

 

メディアでよく見る移住者は、エンジニアやデザイナーなど手に職を持つ方が多く、インターネット環境さえあれば暮らせる人が多いように思う。多くの人間にとっては働いている企業を辞めてまで、地方の生活に飛び込むことは勇気のいる決断だろう。

 

IT企業のサテライトオフィス設置といった地方創生の文脈で注目を集める徳島県神山町。この地では、移住者による多くの動きが生まれている。専門的なスキルを持つ人もいるが、一度就職して挫折した人や新しい環境で何かをつかみたい人など、移住してくる人の経歴はさまざまという。

 

「私も都会で悩む子と同じ“普通側”の人間」と話してくれたのは、神山しずくプロジェクトで商品プロモーションに携わる渡邉朋美さん。新卒で大手証券会社に入社し、営業として働いていた経歴の持ち主だ。なぜ神山町への移住を決断したのか、これまでの過程と葛藤を聞いた。

 


(写真:しずくプロジェクトで職人さんが杉から手作業で作る製品。拭き漆を施しもので、漆の塗布と乾燥の工程を5回繰り返しているそうだ。塗り込んだ漆のつやがすごい)

 


 

 

大好きな先輩たちが次々と体を壊していった

 

静岡生まれの渡邉さん。ステレオタイプのように東京の暮らしに憧れ、大学進学で上京した。証券会社入社後は神奈川県の小田原支店に配属されたが、週末は毎週のように東京で遊んでいたという。当時の様子を「東京にしがみついていた」と表現する。

 

営業の仕事は、すごく大変だった。仕事が大変な分、一体感があり先輩も優しかったが、大好きな先輩たちが次々と体の調子を崩していくのを目の当たりにした。

 

「体調を崩しているのに会社をなぜ辞めないか、仕事のやり方を変えようとしないのか素朴な疑問がありました。聞いてみると家族がいるとか、生活水準を変えたくないという答えが返ってきて……。今考えると、すごく失礼な質問ですよね(笑)。気持ちは分からなくないけど、私はこの環境に染まらないようにしようと思っていました」

 

とは言いつつも会社を辞める勇気がなかった渡邉さんは、異動の希望を出して3年間続けた営業を離れることになる。異動先は沖縄。これが1つの転機となった。

 

沖縄で出会ったのは、家族親戚が周りにいて同僚も友人、人間関係の濃さとも共存している姿。何よりみんな毎日を楽しんでいた。平日はガリガリ仕事、金曜の夜になった途端に仕事は忘れる。そんな「無理やりな、オンとオフの3年間は何だったのだろう」と思わされたという。

 

(写真:渡邉朋美さん。神山町内にある「SHIZQ Gallery Shop」にて)

 

東日本大震災以降、大企業で働く知人が地方に次々と移住するのをFacebookで見たこともインパクトが大きかった。東京への憧れが薄れたことに気付いた瞬間だった。

 

 

居場所を与えてくれた神山の人々

 

沖縄への転勤から2年後、東京での営業職に戻らなければいけなくなったタイミングで5年間務めた証券会社の退職を決意、神山町を訪れることにした。当時の神山町は「ワーク・イン・レジデンス*)」やサテライトオフィスなどがメディアで取り上げられていたことに加えて、知人が職業訓練「神山塾」に参加することがきっかけだった。

 

*)ワーク・イン・レジデンス:町に将来必要な働き手を、逆指名するという考え方。

 

滞在初日、“神山のお父さん”と呼ばれている岩丸潔さんの家で、神山塾1期生の送別会が行われていた。思ったよりも同世代が多く、渡邉さんはそのパワーに圧倒されたという。自分が数年間も悩み続けた世界に、たくさんの同世代が足を踏み出していた。

 

「知り合いがいない中でも、神山の人々は仲間に入れてくれました。『あなた見たことないね』『今日来ました』『あら大変。どこに泊まるの』『岩丸家です』『そっか、楽しんでね』みたいな会話をしながら、初日に山菜の天ぷらを揚げていましたね(笑)」

 

神山の温かい空気に魅力を感じた渡邉さんだが、神山塾生でも手に職があるわけでもなかった。縁あり徳島県内の別地域でゲストハウス建設を手伝ったが、紆余曲折あり短期間で離れることになる。本気でコミットしないと田舎で仕事は作れないと学んだという。

 

悩んでいた時に「いつでも来たらええんちゃう」と逃げ場所を与えてくれたのが、岩丸さんだった。違う地域にいても、神山の人が気に掛けてくれたのがうれしかった。

 

(写真:岩丸家では、移住者の方などを交えた飲み会が定期的に開催されている)

 

「移住している人って、今はトレンドみたいな部分もあるから、勇気があって、カッコいいみたいな映り方をします。でも私は“普通側”の人間なんです。都会での生き方に悩んでいる友人や、転職してもモヤモヤしている友人と変わらないんですよね。

 

都会で感じていた違和感をどうにか解消したくて、生き方を模索してきました。その中で神山町の人々は、4日間しか滞在していなかった私を、思っていたよりも気に掛けてくれていて……。神山町に戻ったときにも、『おかえり』と言ってもらったんです。どうしようか悩んでいた中で、居場所を与えてくれたのが本当にありがたかったですね」

 

 

 

そこから神山町に拠点を移した渡邉さん、しずくプロジェクトに携わることになる。

 

 

 

未来を見据えて生まれた木の器

 

しずくプロジェクトでは、神山町にある「杉」を加工した製品を企画・販売している。木目が荒く、柔らかい杉は扱うのが難しく、食器などの曲線加工に向かないのが常識という。徳島県内のロクロ職人の熟練した技術で、1つ1つが手作業で作られている。

 

始まりは、キネストコープ代表でデザイナーの廣瀬圭治さんが神山町に移住したことだった。廣瀬さんが移住して気づいたのは、緑豊かだと思っていた山のほとんどが人工林であること。使い道が少なく密林のままで、地面に光が届かないため、下草が生えず、土が固くなり、雨は地表を一気に流れる状況だったのだ。山の保水力が弱まり、神山町を流れる川の水は30年前の3分の1になったという。

 

廣瀬さんはデザイナーの視点から、杉の新たな活用法を模索してきた。2014年から杉の木目や色模様を生かしたタンブラーやプレートの販売を始めている。「ゼロ価値」となってしまっている杉が、再び注目を集める動きをデザインしたいと考えたのだ。

 

(写真:しずくプロジェクトのタンブラー。赤と白色のツートンが特徴。)

 

2016年には、神山町林業活性化協議会という林業従事者が集まる会議に廣瀬さんがアドバイザーとして呼ばれ、神山杉をブランディングする取り組みが始まっている。最初に製作した神山杉のポスターの中で、渡邉さんはロゴの筆文字を書くことを任された。

 

毛筆は子どものころに大好きだった習い事だったが、いかに手本に合わせて上手く書くかではなく、“神山杉を表現する”という手本のない課題と向き合わなければならない。自分でゼロから新しく表現することは戸惑ったが、そこに喜びと自身の役割を感じられたという。

 

「10年、20年後は分からないけど、しずくプロジェクトでやりたいことが沢山あります。そこまで本気にさせてくれたのは神山町の土壌であり、関わるメンバーです。

 

ゼロから何かを作ることができる人は一握り、大切なのは自分事にできるかだと思います。周りは専門性を持つ人たちばかりで、最初は私だけ何もないことが不安でした。でも続けていくうちに、しずくプロジェクトを初めて知る人と同じ目線に立ち、みんなの本気の想いを伝えることに役割を感じられました。自分事化できた瞬間だったと思います。

 

しずくプロジェクトの考え方はどこまでも正論で、だからこそ目標を実現するための難しさがあります。その難しさを受け入れる覚悟が代表の廣瀬にはあって、これまでブレないやり方を貫き通してきました。だから私は商品プロモーションを担当する人間として、同じ想いを持ってくれる人をゆっくりでもいいから育てていきたいです」

 

しずくプロジェクトが目指すのは、地場産業として成り立たせることである。「田舎でしかできない、“カッコいい”ビジネスモデルの1つになれたらいい」と渡邉さんは話す。地道な活動の成果もあり、今では職人の後継者が見つかり、職人を育成する工場も2017年8月をめどに完成する予定だ。

 

 

(写真:渡邉さんが書いたロゴが入ったポスター)

 

 

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