札幌の玄関口、JR札幌駅に直結しているセンチュリーロイヤルホテル(札幌市中央区)のロビーでは、夏休みに合わせてクビナガリュウやサッポロカイギュウの化石展が行われています。
このセンチュリーロイヤルホテル、この化石展以外にも北海道の札幌以外の市町村のパネル展示を行ったり、日本料理店で「だし講座」を開催したり、朝食に札幌の高校生が採蜜したはちみつを提供したりするなど、地元とのコラボレーションを通じたさまざまな企画に取り組んでいます。
その仕掛け人ともいえるのが、札幌出身で同ホテル営業企画室支配人の蝦名訓(えびな・さとし)さん。大学卒業後、ホテル業界一筋で25年近く歩んできた中から生まれた、ホテルマンならではの広報=盛り上げ役の仕事に迫ります。
アルバイト時代の経験が「ホテルっていいな」と思わせた
‐蝦名さんはもともとホテル業界への就職を考えていたんですか?
大学時代のアルバイトで、札幌のホテルでレストランや宴会場のウェイターをしていたんです。
それで、就職活動はホテル業界と百貨店業界に絞り込んで活動していました。人と接する仕事が好きだったんですね。
当時(蝦名さんは平成2年新卒で就職)はバブル時代の余韻が残る売り手市場で、希望していたホテル会社に入社しました。
‐アルバイト時代に、就職を決意させるような経験があったんですか?
はい、まさにそのバイト時代に嬉しかった出来事がありまして…。
当時アメリカ人の雪像制作チームが「さっぽろ雪まつり」に合わせて来日していて、何泊もされているのでお互い顔見知りになったんです。
そして、彼らが帰国するときに「フェアウェルパーティーをするから、あなたにも来てほしい」と誘われまして…このようなことは本当に稀らしく、「ホテルの仕事っていいな」と思った瞬間でしたね。
‐実際入社してみていかがでしたか?
私は当時どうしても行きたい札幌のホテルがあったんですが、配属先は東北でした(笑)。
その時はすごく落ち込みましたね、「何であのホテルに行けないんだ」って。
私が行きたかったホテルはシティホテル、配属されたのはビジネスホテルということで、客室の規模もサービスの種類も違うわけです。
‐新卒の配属って、なかなか希望通りいかないものですからね。
ただ、その中でビジネスホテルだから学べたことがありました。
‐それは?
それが夜勤シフトです。大規模なホテルは「ナイトマネージャー」と呼ばれる夜勤の支配人的な存在がいるのが普通なのですが、当時私がいたビジネスホテルは夜勤シフトの社員が、夜についてはホテル全般を見る体制だったんです。
その時に、全体を見る責任感やホテルの数字に直接触れることができたのは良い経験になりましたね。
‐逆境からも学ぶ場を見つけられるのは素敵ですね。ちなみに、配属希望が叶わず落ち込んだところから自分自身を奮い立たせたものは何だったんでしょうか?
先輩に負けられない、という部分でしょうか。フロントの先輩は、何百というお客様の顔を一瞬で覚えて、一度出かけられたお客様が帰って来た時、客室番号を言われる前にキーを用意しているんです。
私もフロントとしてこの域に達しないと、と思いました。その後、念願叶って札幌の憧れだったホテルに異動になったんですが、そのフロントでも良い経験をさせてもらいました。
‐といいますと?
最初いたビジネスホテルは部屋数が200ちょっと、異動してきたホテルは倍以上の500ちょっと…これだけ規模が違うと圧倒されてしまって、フロントとしてなかなか自信が持てなかったんです。
先輩たちは、フロントカウンターの一番前に立っているので、すぐに仕事が回ってきます。私は…ちょっと下がって立っているので仕事が来ない(笑)。
‐そうですよね(笑)。
それで先輩からの愛のムチととらえていたんですが「フロントにいても仕事がないから、ツアーのお客様の案内をしなさい」という仕事が回ってきました。
これは、何十人というツアーのお客様に、ロビーの空きスペースを利用して同時にキーの使い方や食事の場所などを説明するものなのですが、この仕事ができたおかげで私のフロントとしての居場所がやっと出来ました(笑)。これは本当に自信につながりました。
当時誰もやっていなかった「ホテルの広報」で居場所を築く
‐それから企画の方に異動になったんですか?
そうですね、もう15年くらいになりますかね。企画といっても、当時の仕事は宿泊・レストラン・ブライダルなどの各部門が売り上げ目標を達成するための支援をすることがメインでした。
そのためのツールや広告を作ることをしていて、今私がやっている広報という考え方はありませんでした。
‐そもそも広報部門がなかった、ということですか?
当時はインターネットもまだまだ普及しておらず、メディアの数も少なかったものですから、取材をお願いしなくても依頼がどんどん来ていた時代でした。
そのような時代ですから、私みたいな企画未経験者が突然異動してきても、先輩から相手にされるわけでもなく、これまでのツールを眺めている日々を送っていました。そんなある日…。
‐転機が訪れた?
ウエイトレスが企画室にやって来て「ホテルの庭園に野鳥が来ているようです」と報告してきたんです。暇だった私はすぐに見に行きました(笑)。
それで「この状況をホテル以外の人が知ったら面白いのでは」と思い、一時期宿泊営業の部署にいたときの伝手を頼って新聞社にアプローチしたところ、翌日大きく掲載してもらえたんです。
そのときですね、「ホテルでは誰もやっていない広報という仕事に取り組もう」と思ったのは。実はその野鳥のネタは毎年取り上げられるようになって、季節の風物詩になっているんです。
‐現在はセンチュリーロイヤルホテルの営業企画室支配人をされていますね。
2014(平成26)年4月からこちらにお世話になっています。以前の職場の先輩がいるというご縁もあり、40過ぎの転職という大きな不安を抱えながらやって来ました。
ただ、その時には企画・広報業務が確立していなかったので、その部分を担うという意味では大きなモチベーションになりましたね。
‐新天地ではどのような部分から手を付けたのですか?
前の職場で退職のあいさつ回りをしているときに「センチュリーロイヤルホテルに行くんですか?あの回転するレストラン(23階にあるスカイレストラン『ロンド』は360度回転し、少しずつ眺望が変わる)のホテルですよね」と多くの方に言われました。
『ロンド』以外について伝わっていないという現状がわかったので、「どういうホテルなのか」をわかるようにすることから始めました。
‐なるほど。
それと、私自身の小学校時代の強烈な思い出がルーツになっていることが、この仕事を始めてわかったんです。
‐というと?
当時の小学校は4年生から6年生まで持ち上がりで、担任もクラスのメンバーも一緒でした。その時の先生が個性を伸ばすことに長けた方で、ある日「地図を開いて想像上で旅をしてその旅行記をまとめる」という課題が出たんです。
その時に札幌からどのようにその街へ行くのか、その街の特徴や美味しいものが何なのかを図書館で調べました。
‐ユニークな課題ですね。
それと学校の広報委員会にも入っていて、ネタ探しもしていたんです。
それらの出来事を一気に思い出して……「知られていないことを知っていただく」という今の仕事は、ここが原風景なんだと思いました。
‐これからもたくさんの仕掛けがありそうですね。
はい(笑)。私が企画や広報をしている中で迷った時には、必ず創業者の言葉やホテルの理念を振り返ります。
このホテルであれば、「長靴でもどうぞ」というキャッチフレーズであったり、1973(昭和48)年の時点の建物なのに最新技術を使っているのでその後の建築基準改正にもすでに対応していたり……
先人たちの言葉や想いを振り返ることで、これからやろうとしていることがぶれていないかどうかを確認して粛々と進めていくというのが、私の仕事なんです。
【取材を終えて】
少年時代の原風景から、学生時代のアルバイト、そして社会人での経験。お話を伺っているうちに、それらすべてが今の蝦名さんのアイディアの源泉につながっていることに気が付きました。そして、それらの何かが欠けていたら「知られていないことを知っていただく」というホテルマンならではの広報に結びつかなかったように思います。メディアの多様化により、企業の発信方法もさまざまな形態に拡大しました。その中で蝦名さんがホテルという名のメディアを通して何をどのように発信していくのか、興味は尽きません。
【ライター・橋場了吾】
同志社大学法学部政治学科卒業後、札幌テレビ放送株式会社へ入社。STVラジオのディレクターを経て株式会社アールアンドアールを創立、SAPPORO MUSIC NAKED(現 REAL MUSIC NAKED)を開設。現在までに500組以上のミュージシャンにインタビューを実施。 北海道観光マスター資格保持者、ニュース・観光サイトやコンテンツマーケティングのライティングも行う。