東日本大震災以降、東京を離れて地方へ移住することがひとつのトレンドとして、メディアで取り上げられることが増えました。70seedsでもこれまでにいくつかの記事で紹介しています。
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そんな「移住」事例の1人に、「福岡移住計画」を主宰する須賀大介さんがいます。自身も4年前に福岡に移住してきた須賀さん、現在は新たに移住してくる人たちを支援する立場に。しかし、メディアで取り上げられるような「いい話」ばかりでは決してなかった、と語ります。
「新しい働き方」「地方暮らし」など、移住と仕事、そして生き方を取り巻く「ジレンマ」に迫るインタビューです。
震災で気づいた「脆さ」
‐「福岡移住計画」に取り組んでいる須賀さんですが、元々はどこでどんな仕事をしていたんですか?
「福岡移住計画」の主体でもある、スマートデザインアソシエーションという会社をやっていて、今年で14期目になります。
元々は東京の代々木上原で企業のウェブ制作と運用をメインでやっていたんですが、7年目頃に「作ったウェブサイトを見てくれているユーザーの顔が見えない」というところにもやっとしたものを感じていたんです。
‐いわゆる「手触り感」みたいなことですか?
そうですね。それでその頃、下北沢のお寺を借りてファーマーズマーケットを開いたんです。農家さんが自分の畑で採れたものを自分で伝えて売れる場をつくろうと。
‐それはどんなきっかけで?
ちょうど子どもが生まれて、何を食べさせるか気にするようになったんです。で、スーパーに並んでいる商品を見たときに、誰がどんな思いでつくっているかが見えない。
それを、どんなプロセスでつくられているか、食育の視点でも伝えていきたいなと。そういった活動もあって、このくらいから地方に目が行くようになりましたね。自分も茨城に農家の祖父母がいますし。
‐それは、ウェブの仕事だったからこそ生まれた気づきのようにも見えます。それから少し経って震災を経験するわけですよね。
はい、ちょうど起業して10年目、子どもが2歳の時でした。
(写真:福岡での子育ての様子)
‐それはどんな転機になったんでしょう?
東京一極集中の働き方をずっとやってきて、このままこのサイクルの中で生きていくのが「脆い」ことに気づいたんです。
‐「脆い」?
その時点で、自分の社会との接点、関わり方がIT、コンピューターを通すことしかない。食べ物もお金で買う以外の選択肢がない。
また地震が東京に来るかもしれない、という中で自分たちの生活がすごく脆いものの上にあるんじゃないかと。それで地方にさらに目が行くようになったんです。
‐そういう考えから実際に移住を進めていったんですね。
いや、最初から遠方に移住しようと思っていたわけではなくて。最初は山梨や長野など、行き来できる範囲で地方の暮らしを見ていたんです。
そうしているうちにその豊かさに触れ、子供の表情も違うことに気づき、地方にベースを置いた方がいいんじゃないか、という価値観が妻との間でも膨らんだんです。
‐福岡を選んだのは?
最初に来たときは冬で天気も悪くて、正直夫婦喧嘩にもなるくらいだったんです。でも、もう一度春に来たとき、景色がすごく感動的で。
それに、電車で子供が泣いたときに地元の人たちが声をかけてくれるとか、福岡の暖かさ、街の中で子供が一人の人間として扱われていることを感じて。
東京では子どもが泣いたら1駅で降りないといけないとか、気を遣うことが多い分、その差に「ここで子育てをできたらいいよね」となりました。
スタッフ半減からの「新しい働き方」づくり、そして原点回帰
‐会社も10年が経っていたわけですが、そこはどうしたんですか?
会社のスタッフには、震災で気づいた現状の脆さやそれまでの働き方について「会社の規模を維持していくために働くことで無理をしていた、このまま10年20年続けていくのは無理だ」と伝えました。
そのうえで「代表がいなくても継続できる仕組みをつくっていこう」という方針を打ち出しました。
‐それはどんなやり方なんですか?
R不動産の「フリーエージェント制」を参考したやり方で、プロジェクトベースで集まって仕事をしていくような、アソシエーション型という原点に戻ろうとしたんです。
給与も出た利益をチームと会社で折半して投資方法をチームで決められるとか。それに伴って会社の会計を透明にしたりとか、自分の給与をスタッフよりも下げたりだとか。
‐4年前、まだリモートワークが一般的でない時代としては思い切った決断ですね。
そうですね。給与体系に関しては、常に固定された給与を払うことで、お互いの「雇う/雇われる」という関係性に固執してしまうことも違うなという思いがありました。
結果、その時会社のスタッフは半分くらい辞めましたよ。代表がいないことへの不安、「ありえない」という気持ちが大きかったんでしょうね。
‐半分も!
正直、全員辞めちゃうんじゃないかと思ってたので、半分残ってくれたことも驚きでしたね。拒否反応を示す人もいれば、新しい働き方に興味を示す人もいて。
子供がいる人は特に難しいだろうし、「人でなし」とも言われました。
それでも何とか新しい働き方をつくっていこうと考えてくれた人もいました。スタッフの中でも震災を機に価値観が変わったということだと思います。
‐ちなみに、「原点に戻る」ということでしたが、当初はアソシエーション型の働き方をしていたんですか?
元々はそう志向して水平型の組織をつくろうと言っていたんです。
でもそう言いつつ、実際にはトップ営業で仕事をとっていたんですよね。
そうすると自分の仕事と思えない、やらされ感がでてしまう。そうではない、言行一致できる組織をつくろうと。
そうすると、僕が福岡でもがいている間にスタッフは自分のファンをつくろうとがんばってくれた。
そのときのスタッフの中から3社くらい独立しています。
‐それは須賀さんにとってはいいことなんですか?よくないことなんですか?
いいことですね。独立していった会社と一緒に仕事をしたりもしています。それこそが、アソシエーションという原点回帰になったんです。
誤算だらけだった移住ストーリー
(写真:今宿に構えたシェアオフィス、「SALT」から。)
‐ここまで聞くと、良いスタートを切れたような印象です。
でも、いざ移住すると誤算だらけだったんですよ。
‐誤算というと?
そもそも初めて都市から地方へ移住する、ということでいろんな妄想があったわけですよね。
いわゆるBRUTUS的な「田舎暮らし」のイメージだったり、「自然の中の平屋で~」みたいな家を探していたけど、そんな物件は実際にはなかったりとか。
‐たしかに世間一般でもそういうイメージは強いですよね。
それに、最初の頃は仕事の面も誤算続きでしたね。腕には自信があったので、営業をかけていけば、東京にいた頃と同じように仕事ができるだろうと思っていたんです。
でも、福岡では人と人とのつながりから仕事が生まれるのが当たり前で、コミュニティに接続していないと仕事を生み出せない、という壁に突き当たって経営的にも厳しくなっていきました。
‐それはしんどいですね…。
プライベートでも、妻がちょうど第二子を妊娠して。実家(茨城と群馬)とも離れて、2人だけで子育てをしていくのが思った以上に大変だし、経理も担当してくれていたので、経営状況に対してもショックを受けていました。1年くらいそのしんどい時期が続きましたね。
‐移住して、暮らしは変わりましたか?
最初の半年は環境が劇的に変わって、毎日海を見に行ったりして。食べ物もうまいし、「天国か」と思うほどでした。
ただ、半年が過ぎるとやはり現実が身に染みるようになるんです。
一転して、「本当に大丈夫か、家族を守れるのか」という苦悩が毎晩続いて夜も眠れないくらい。
家族を幸せにしようと思ったのに苦しめてしまっていましたね。
‐どうやってその状況から抜け出すことができたんですか?
なにより、コミュニティに入っていったことですね。まずシェアオフィスに入ったんですが、そこはメンバーの手で内装をやったりもしていて、建築系の人たちといつか一緒に仕事ができるといいね、なんて話しながら。
そうこうしながらR不動産の方に助けていただいたり糸島の地元の方の手助けもあったりして、福岡でも仕事ができるようになっていきました。
‐まさにつながりの中から仕事が生まれていったわけですね。
はい。それから、コミュニティという視点から、福岡で仕事をするうえで新たに気づかされたことがあって。
‐それは?
「福岡のために何ができるか」を考えるということです。飲みに行ったりしても、地元の人たちは皆「福岡をどう面白くするか」を語り合ってるんですよ。
それで自分に何ができるか、って考えると、漠然とですけど、自分も苦労した家探しなんかをサポートしていくことかな、と。
そのときに「京都移住計画」が立ち上がったことを知って。下北沢で「僕らの移住計画」というイベントを一緒にやったのを皮切りに「福岡移住計画」を立ち上げたんです。
「福岡移住計画」は持続的な居場所づくり
‐移住支援と言うと、自治体も力を入れている分野だと思うんですが、従来の支援とは何が違うんですか?
これまでの自治体の移住促進は「数をふやしていくこと」、自分たちならもっと血の通ったことができるんじゃないか、ということです。
ただ住む場所を提供するのではなくて、接続できるコミュニティをつくる、仕事をつくる、つまり「居場所」をつくることです。
‐「居場所」ですか。
はい。ただの「場所」ではなくて。ちょうど2年前から糸島のスーパーマーケットだった場所をコンバージョンして運用しています。
初代のオーナーが京都からの移住者だったんですが、彼らがそこを買い取って住居をつけて半分を倉庫に、2代目が倉庫をカフェにして。
そのあと僕らが引き継いで、実験としてコミュニティが生まれる場にしようと。それが今の「RISE UP KEYA」ですね。そのあとに今宿の海辺に「SALT」をオープンしました。
(写真:RISEUP KEYA)
‐どちらも福岡の中心部からは少し離れていますよね。
最初は「そんな場所につくって人がくるのか?」と言われていましたよ(笑)。福岡はコンパクトなのではたらくのも暮らすのも街場に集中していたので。
でも、そうじゃなくて、魅力的なコンテンツがあれば僻地でも人は集まるんじゃないかと思ったんです。
実際に、1年経ってみるといろんなことが起き始めていて、この動きに注目してくれた西鉄(西日本鉄道)が「HOOD天神」というスペースを共同事業として立ち上げに参加してくれたりだとか。
(写真:HOOD天神)
‐最初の2年の苦労がついに実を結んできたんですね。
ようやく、少しずつですね。2年目の冬、地元の方々との仕事でうまく貢献できなくて妻と絶望していた頃があったんですが、そこで現実を見つめることができて。
中途半端に「持続可能な暮し」とか「地域に貢献する」とか考えていたことに気づいたんですよね。それが一番の転機というか、経験になりました。
‐「福岡移住計画」も、自分が体験したことだからこそ、今提供できているのだと感じます。
当時は支援団体も民間の情報もなくて、幸せそうな「移住ストーリー」が自治体の冊子に載っているくらいでしたからね。
自分も、周りの移住者も、お互いに話していく中で培ってきたものが源泉にあると思っています。
味わい深いこの世界を、一緒に味わう仲間を増やしたい
‐今「移住」がブームになっていますが、自身の経験も踏まえて「移住」したい人に必要なことって何だと思いますか?
できるだけ多くの土地に足を運んだり、住みたい土地があるなら季節に行ったりいろんな人に会って話を聞くとか、どういう風にその土地で地域にかかわって、もしくはかかわらないでやっていくか、ある程度整理をした方がいいと思います。
あとは覚悟ですね。思い通りにいかないことでも、自分たちに起きたことをいかに柔軟に乗り越えていくか、いろんなことが起きるんですよ、間違いなく。
‐リアルですね。自身が「移住成功者」として取り上げられることについてはどう思っていますか?
まったく成功だとは思っていません(笑)。むしろ失敗をだれよりも多く経験した分、今は「一緒につくっていきましょう」という感覚ですね。
震災以降、まったく新しい土地に住み着いたり、実家に戻ったりした人が答えを出せる期間かというと、まだまだ。
メディアでは両極端に煽られてしまっているので、もっとニュートラルな移住のリアルを伝えていくのが僕たちにできることだなと。
‐そんな須賀さんが移住を通して得たことは何ですか?
同じ価値観の人たちとつながり合って仕事をしたり暮らしていけることですね。震災後は東京も価値観が変わったりしているけど、地方とはやっぱりずれがある。
その中で新しい仕事や働き方をつくっていくのは、痛みを伴うけど一歩ずつもがきながら手に入れるプロセスはかけがえのないものです。ちょっとずつ前進していて、そこには充実感があるので。
‐当然、理想通りにはいかないことも多いわけですよね。それもまた必要なプロセスだと。
元々思い描いていたものと現実は正反対だったり、自分の行動と地域の価値観が合わなかったり、それをはねのけようとして一生懸命動いているので、東京と同じくらい忙しかったりもします。
でも、そんな中で地域の価値観や知恵を知っていったり、子育ての環境も劇的に変わったりだとか、地方だからこそ享受できている、お金で買えない豊かさがたくさんあるんですよ。それはすごく生々しくてリアルなものです。
‐とても胸を打ちます。
だから、移住してよかったと、いろんなことがあったけど思っています。できるだけみんなで、味わい深いこの世界を一緒に味わっていきたいんです。
そのためにも、事業や人をつなぐことをどんどんやっていきたいと思っています。
須賀さんは現在、多拠点をつなぐ「新しい働きかた」のフィールド「+WANDER」(プラスワンダー)を手掛けています。どこかへ移住するだけでなく、「複数の拠点を持つ」という働きかた、関心のある方はぜひアクセスしてみてください!