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沖縄にわかりやすい「敵」はいないーテレビ的映像から離れて描くドキュメンタリー「風かたか」

先日、TOYO MX「ニュース女子」(※)の在沖縄米軍基地問題に関する報道をめぐって、内容が人権侵害に当たるのではないか、との批判とそれに対する反論が起きる、という騒動がありました。(※経緯参考:BUZZ Feed Japan3月14日記事

 

第二次世界大戦末期に沖縄で起きた出来事は、多くの人が大なり小なり「知って」いることでしょう。ただし、それはあくまでも「歴史の一幕」としてであるのも事実。実際に当時その場に居合わせた人、そしてその実体験を直接聞いたことがある人はきっと限られていて、「知る機会」はこれからますます少なくなっていきます。

 

そして、今沖縄で起きていることについて目を向けられることはさらに少ない、と語るのは、最新作『標的の島 風(かじ)かたか』が公開されたばかりの、映画監督三上智恵さん。一面的な見方でわかりやすい「敵」をつくるテレビ的な表現から離れ、丹念に「沖縄」を描く中から伝えたいこととは。そして「東京中心の文化的価値観」と国防とをつなぐ視点に迫ります。

 


 

必要なのは「みんなの利益」を乗り越えること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―今回の『標的の島 風かたか』では、沖縄の基地問題について、今起きていることが様々な角度から捉えられていました。

 

基地問題についてこれまで中心になっていたテーマって、東京を中心にして発想する国の利益と沖縄の利益が一致しないっていうことなんです。なんとなく国としてガードマンが必要だ、それは国境に、周辺においておけばいい。自分勝手だけど、「みんなの利益」という考え方で沖縄の人たちは不利益を被ってきた、と。

 

でも今回の映画で描きたかったのは、そうではないんです。今アメリカと日本が一体となって進めている、「第一列島線で中国を止める」という考え方は必ずしも日本を守るものではない、ということ。これを正面から伝える人がいないんです。

 

―それは、どういうことなんでしょう。

 

防衛のために安保が必要、軍隊を置くことが必要という前提が崩れてしまっている、ということです。映画の中でも言及されていますが、2006年の時点で中国本土から南西諸島を攻撃できるようになっている、つまり極東地域における安全保障体制が変わってきているんだけれども、そこを日本の大衆は知らないし、考えることもない。だから、基地問題の本質は、「沖縄の負担を減らしてくれ」ではないんです。「日本はもう守られない」ということ、そしてそれがリアルに見えているのが沖縄なんです。

 

―たしかに、第二次世界大戦のときにも、沖縄は「防波堤」の役割を与えられました。

 

そこが問題です。70年前の沖縄は「防波堤」の役割を果たしたか?私は果たしていないと思っています。「沖縄県民斯く戦えり」を知っていますか?

 

―いいえ。

 

当時の太田海軍中将が、沖縄県民はこんなに闘った、犠牲が大きかった、と打電して自決したというエピソードです。(沖縄の人々が)身を挺して国のために死んでくれた、ということを本土へ伝えてくれたわけです。でも、防波堤で時間稼ぎを強いられ20万人が死んで行く間に日本は有効な手が打てたか。結局原爆や本土への空襲に沖縄の日本軍の施設が使われた。沖縄が防波堤にすらならなかったことを認めないといけない。どこかを防波堤にして中央が助かる、という発想を潰さないといけないんです。

 

―一方で「国」という単位を考えたとき、どこかが何かを負担しなくてはいけない、という議論は、国防に限らず必ず起きるテーマでもあります。

 

中国怖いからいいんじゃない?文句言ってる沖縄の人たちがわがままなんじゃない?という自分勝手な沖縄バッシングが起きていますよね。70年前の沖縄が防波堤にさえならなかったことをもとに、「みんなの利益のために誰かが我慢しないといけないよね」という議論を乗り越えないといけないんです。本当にそうか?っていう。前提が崩れていることに気づかないと。

 

「わかりやすい敵」はいない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―劇中、反対運動の方々と機動隊・警察の方々がぶつかり合うシーンで、ある意味でどちらも「被害者」なのではないか、本来対立すべきでない人たちが、対立せざるを得ない状況に追い込まれてしまっているのではないか、と考えさせられました。

 

通常の報道のされ方だと、反対している人たちの主張はわかりやすくて肩入れしやすいですよね。一方で、全国から駆り出されて対応に当たらされている機動隊がかわいそうという視点もあるわけです。そして、この対立をつくり出している存在がいるんじゃないか、という想像が働く。

 

―まさにそのように感じました。

 

なんとなく「巨悪」がいるように感じる。でも、そうじゃない。それよりももっと恐ろしいのはそれに関心を持たない有権者の存在なんです。国防のあり方を考えもしないで投票にも行かない人たち。電気を使いながら原発に興味も持たなかった人たちは、消極的ではあるけれど、現状を支持してしまっているということ。大阪府警が「土人」という言葉を使わざるを得ないほど追い込まれている、若者たちを人の人権を奪うような嫌な仕事の道具に使っていく。この構図を作り出してしまっているのは誰なのか、突き詰めるとそれは有権者ですよ。それを考えないといけない。

 

―だからどちらにも感情移入できるようなつくりになっているんですね。

 

私は昔テレビ局にいて報道番組をつくってたんですよ。テレビは二項対立ではないものなのに、賛成と反対の両側を描くという手法に逃げる。構図を単純化しがちなんですね。だから視聴者は、基地問題に関して(土地を提供して)お金もらっている人、(移転・建設に)反対している人の2つしかいないと思ってしまう。そしてそれは、沖縄の中だけの問題だと思われてしまうことにつながる。

 

でも、そういうつくりはもうしたくない。安易な「溜飲を下げるための人物」を登場させることはしないようにしようとしているんです。

 

―確かに、よくあるドキュメンタリー番組のような「わかりやすさ」とは遠かったように思います。

 

映画を観ていただいた方からも、よく「誰が悪いのかわからなかった」と言われるんですよ。でも、そのモヤモヤを持って帰りなさい、と。5人いたら5人とも答えは違うと思うんです。誰なんだろう?と思うことからしか構図を見抜く目は生まれてこない。わかりやすい「誰か」を出すのは違うぞ、と。

 

―想像力。

 

そうです。防衛に関してはこんな視点もあります。防衛に携わる人々は沖縄の島々、「琉球弧」をマクロの視点で見たときの防波堤としてしか見えていないわけです。冷戦時はソビエトからの、そのあとは中国の脅威に対して防波堤になる島々が必要だという視点です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはアメリカだけではなくて、本土の人もそう。「みんなの安全が守られるために」いいじゃんと思うのは、その島で生きている人たちの活き活きとした生活、文化を想像できていないということ。東京が文化の中心で洗練されてると思うのは大間違い、(劇中でも登場した)全部即興で歌っていく石垣の歌のようなものの、精神的な奥深さを知らないということなんです。

 

 

「準備ができている人」の背中を押す

 

―三上さんは、自分が映画をつくる意義ってどこにあると考えていますか?

 

「準備ができている人」の背中を押すことと、硬直化した「価値観を壊す」ことですね。人間、自分の価値観がぶち壊されていくとき抵抗もするけど、「目から鱗」という言葉もあるように、瓦解するのは快感で、壊されて次のところに行くことが喜びにもなるんです。私の映画の中ではそういう仕掛けをたくさん入れているつもりです。

 

―準備ができている人とは?

 

映画を観に来る人。テレビにいたからこんなことを思うんですけど、ほとんど無料でしかも瞬時に見られるテレビは数字を獲るつくりにしなくちゃいけない。私は、「沖縄の人が困っているから~」っていうことじゃなくて、「日本の問題として考えないと大変なことになりますよ」っていうことを伝えたかったけれど、こういう怖い話はテレビには向かない。数字にならないでしょ。

 

―さっきの「わかりやすさ」の話ですね。

 

映画は限られた人にしか伝わらないからテレビ局にとどまるべきだ、と言われたこともあります。でも映画館に来る人は、既に行動を起こしているんですよね。とくに自主上映会なんかは、誰かが立ち上がって連帯して作られた場です。どんな社会問題も、構造は全部同じですよ。蹂躙された人たちが行き着く戦い方は。

 

―受動的に情報を得られるテレビと、能動的に足を運ばないといけない映画が違う、というのはよくわかりました。

 

さらに言うと、映画だけじゃなくて、あとちょっと背中を押してくれたら動ける、殻を破ってくれるっていうものを、人は求めていると思うんですね。絵画、旅行、映画だとか。殻を破ってほしいっていう、元々求めている気持ちがあるからそのことに関するドキュメンタリーを選ぶとか。そういう「あとちょっと」の準備ができている人たちの背中を押していくことの方が、行動につながるんです。映画の自主上映会に来てくれた人が辺野古に来てくれたりだとか。

 

―今、情報を届ける手段としては、テレビや映画のほかにインターネットもあります。映画とインターネットがつながっていくようなことは考えていますか?

 

普天間封鎖のときもSNSで人が来たんですよね。よく言われる、「ほとんどは運動団体が呼びかけて動員された」というものではなかった。あとは、これまでは放送できるのは放送局だけだったのが、誰でもできるようになって、ツイキャスがあることで暴力がやむなんてこともあるんです。本当は撮影していなくても、「世間の目」を意識させることがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―そういった側面もあるわけですね。

 

たとえば、私はすごく嫌われますが(笑)、「三上がいる」となったらみんな警戒するんですよ。カメラ回してますからね。映画は速報性がないしドキュメンタリーが公開される頃には出来事がやんでいたりする、そういう意味では弱いメディアです。でも、継続して伝えていくことが必要なのもまた正しくて

 

―積み重ねが影響力につながっているわけですからね。

 

たとえば10年前に自主上映はこんなになかったんですよ。テレビへの不信感も相まって、昔から比べるととても増えました。手軽に撮れるようになった時代、私のような存在が起きていることの一部分を切り取って、世の中にもう一度投げかけていく、ということができることなんだろうと思っています。でも、戦い疲れちゃった部分もありますけどね。結局止められなかったですし。

 

 

島を戦場にしないために

 

―『風かたか』の次、三上さんはこれからどんなことに取り組んでいくんでしょうか。

 

まず、「次何をするか」っていう質問には違和感があるんですよね。映画監督として生きていこうと思っているわけではないんです、いまだに。私は、生きてきたことへの責任を取りたいと思っているだけなので。その原点は沖縄戦です。いくら被害がひどかったといっても次の戦争を止めることができなかったら意味がないわけです。

 

―70年前の被害の意味づけですか。

 

そう、彼らを犬死ににしないための方法を編み出さないといけない。そして、日本が戦争に向かっている中で止められるのは沖縄しかないということだと思っています。それができなかったら、死者を二度殺すようなものですよ。繰り返さない、というささやかで当たり前なことができていない。

 

―その目的にとって「映画」が必ずしも必要なものではないと。

 

「島を戦場にしないために」とか、「なんとか止められるんじゃないか」と思ってやっているので、次回作を何にするかと考えることには違和感があるんです。止めたい、止めないといけない。でないと報道の人間として生きてきたすべてが無になってしまう

 

―止める、ということが三上さんのミッション。

 

基地を止めたいんじゃないですよ。日本がありとあらゆるものを失おうとしていることを止めたい。そのために一番戦っているのが沖縄なんです。それがわかるようにはっきりとやっていく。次の作品をつくることが、タイムラグを含めて有効であればつくるし、つくる用意はあります。

 

 

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岡山史興

70seeds初代編集長

1984年、長崎県生まれ。ストーリーをデザインしています。 2017年8月、Twitterはじめました→https://twitter.com/230okym