2015年12月12日に封切りとなり、各所で大きな反響を呼んでいる映画「母と暮せば」。原爆投下から3年後の長崎を舞台に、吉永小百合さんと二宮和也さん演じる親子の関係を描いたこの作品。いわゆる「戦争もの」の映画とは少し違った空気感で、丹念に戦後3年の「生活」が描かれた、ファンタジー作品となっています。



「男はつらいよ」シリーズや「武士の一分」などの名作を手がけてきた山田洋次監督にとって、初のファンタジー・ジャンルとなるこの作品、どのような思いで製作にあたったのか。そして、日常を描き出すことを通じてメッセージを送り届ける山田監督の手法や、現代の若い世代に向けての言葉まで、お話を伺いました。


岡山 史興
70Seeds編集長。「できごとのじぶんごと化」をミッションに、世の中のさまざまな「編集」に取り組んでいます。

描いたのは「突然いなくなってしまう」という出来事

‐「母と暮せば」は「母と子の物語である」と語られていますが、吉永小百合さん演じる母親の姿を描く上で、特にこだわった点を教えて下さい。

肉親が突然いなくなるとはどういうことかということです。

親子であろうと夫婦だろうと兄弟であろうと、肉親が何かの理由で突然いなくなる、死んでしまう。そんなとき、遺された人は大混乱を起こすはずです。

病気がだんだん悪くなってきて、最後は覚悟してお別れするのと違って、何の心の準備もしていなくて突然いなくなるということは、遺された家族にとってどれだけ辛いことか、そこが1番のポイントです。

この映画は息子が死んで3年後、このお母さんを描く上で、その3年の間にどれだけ辛い思いをしたか、ということが想像できなきゃいけないんです。

‐そういった想像はどのように進めたのでしょうか。

参考になったのは野田正彰さんという人の書いた「喪の途上にて」という本です。

この本は日航ジャンボ機の事故を取り扱ったもので、この時の事故では500人近い人たちが突然死んでしまった。

その遺された人たちは一種の精神病になるわけだけれど、心理学者がその人たちを追跡調査して、その病状がどのように現れるのか、その病気を治すためにどんな治療が必要かを書いた本です。

特に日航ジャンボ機事故は平和なときに突然起きてしまったわけだから、周りの人がどうしていいかわからない。

癒されるべき遺族の気持ちが癒されないということがあったと言われています。

(吉永小百合さん演じる母親の)伸子が過ごした3年間について、どんな風に苦しんだのか。

「息子が死んでしまって悲しい」だけじゃなく、その突然の別れが彼女の精神をどのように蝕んだのかを考えるには、野田さんの本が非常にヒントになりました。

それが大事なことの一つです。「突然いなくなってしまった」ということが。

‐まさにその「突然」だったのが・・・

そう、突然人がいなくなってしまったのが、原爆だった。

映画を作り上げた後に学生、高校生たちにこの映画を見せて映画の感想を聞く機会があって、驚いたことがありました。

戦後70年間を生きてきた僕たちが、あたりまえのこととして身につけてきた戦争についての常識がある。

 

それらの常識は日本人は皆知っているものだと漠然と思っていたんだけれども、実際若い人たちに聞くと、意外と知らないということです。

それは、70年前の地獄のような戦争について、この国はいかにちゃんと伝えていないかということでしょう。

教科書や様々な伝達手段の中で、伝えていないどころか、伝えることを意識的にやめてしまっているとさえ感じることもある。

もうそんな(過去の)ことはいいから、未来のことを考えよう、というのが今の政治の考え方だけれど、それが過去のことを振り返らなくてもいいということなら、それは間違いだろう。

それだと今のドイツなどは納得しないだろうと思います。

ナチス時代に行った様々な残虐なことで多くの人を苦しめたということについて、未来永劫忘れちゃいけないというのが、今のドイツの考え方だからね。

日本人も同じ罪を犯しているわけだから、そのことは教えなきゃいけないし、伝えなきゃいけないんだけど、それをちゃんとやっていないから、若い世代に戦争がしっかり伝わっていないのだと思います。

日本とアメリカが戦争してどちらが勝ったかと聞かれて答えられない若者がいるとよく冗談で言われるけれど、それは戦争が他人事になってしまったという証拠。

70年なんてついこの前のことなのに、まるで遠い昔のように、よその国のことのように思っている。これは非常に怖いことだと思います。

 

 

山田監督が描く「日常」と「共感」

母と暮せば_WEBメイン

‐今回の作品では「戦争」が前面に出るのではなく、戦後いくつもあったであろう「日常」が丹念に描かれている印象を受けました。

それが僕の作品の作り方であり、そういう形で僕は映画を作っていくということなんだろうと思う。

どんな小さな部分にでも、人間が暮らしている中の長い歴史があり、全人類的な広がりが伝わって来る。

宇宙から地球を見下ろしていれば、人間のことが分かるわけではない気がするけれど、小さなことを丁寧に見れば、昔のことから未来のことまで、日本人全体のことが、あるいは人類全体のことが分かるんじゃないかな。

例えば、劇中に出てくる原爆投下のシーンもB29側から映したものだけど、そのように高い空から見下ろすのも、一つの手段だったりする。

今回の作品では、その正反対の形をとってみたんです。(二宮和也さん演じる)浩二が最後に見た映像は、多分インク瓶だった、ということに、何十万の人を殺すことのできる原爆の恐ろしさを集約できるんじゃないか、と。

‐そういった日常性について、婚約者のことが忘れられないという浩二のキャラクターなど、現代の世代が観て共感しやすい要素も、そのひとつの効果なのかと思いました。「若者に届ける」ことを意図したのでしょうか。

誰かを納得させようと思って作ったわけでないです。

本当に、人間はこういう風に考えたりするんだなというのを一所懸命想像しながら、映画を作っていく。

そして、出来上がったものが結果として僕らに跳ね返ってくるものだろうと。

もちろん僕らも面白いものは作りたいけれど、面白いものを作るのは大変なことなんです。

こうすれば面白くなるというものではなくて、人間とはこうじゃありませんかということを描くことが大切だと思います。

‐その結果、見ている人がどういう反応をするか、というのも受け手の判断次第ということですか?

そうです。例えば、同じものを見てもおかしくて笑っちゃう人もいれば、悲しくて涙を流す人もいる。

つまり、自分の作った料理をどう美味しく食べてもらえるかというのと同じなんです。

‐そういえば、今回は初のファンタジー作品ということもあってか、笑いと悲しみの切り替わりが非常に印象的でした。このようなつくりは狙ってのものなのでしょうか?

それは「笑うとは何か」という面倒くさいことになっていくけれど、「なるほど、そうだな」と、満足した時に人間は笑うんです。

もちろんダジャレでも人間は笑ったりもするけれど、ダジャレで起きる笑いは僕が考えている笑いとはちょっと違うんです。

映画の場合、共感というか身につまされる思いになった時、人間はちょっと嬉しくなって笑う。

「本当にそうだね」と言って笑い合うというか。だから、作り手と観客だね。共感してもらわないとしょうがない。

‐作り手と観客が共感するところに笑いが生まれる、ということですか?

その通りです。(寄席などで)名人がでてきて黙って丁寧にお辞儀すると、それだけでもう笑いたくなるっていうのかな。

そういうことなんです。その人はきっと、人間について私たちが納得するような話をしてくれるだろうという、そんな想像を仕掛けているんだね。

 

 

型破りな人が活躍できる世の中に

‐個人的に、今回の映画で特に印象に残ったのが、「上海のおじさん」という登場人物でした。彼の楽天的な振るまいとその裏に見え隠れする悲しさに、「長崎の人」らしさや特異な空気感を強く感じました。この人物は、物語上どのような意味を持っているのでしょうか。

物語を作る上では、登場人物の組み合わせの中で、上海のおじさんのような人が必要なんです。

3人が弦楽器だったら1人は管楽器が入ったほうが良いだろうというような。

伸子と町子と浩二だけでは物語は単調になってしまうから、そういった中にバランスを破るような音を奏でる人を入れた方が良いのです。

今の世の中は過度にコントロールされています。秩序がちゃんとあって、乱すってことができなくなっている。

敗戦後というのは、それまでの様々な秩序、たとえば市民生活もそうだし、政府そのものがごちゃごちゃになっている時代だった。

そういうときには、従来の秩序の中にいない人たち、つまり解放された自由の人たち、いわば「寅さん」みたいな人たちが活躍できるんです。

だから、混乱した時期には、ああいう人がたくさんいた。僕自身の少年時代の体験からも思い出すことができます。

行動力があって、肩書きや地位に縛られないような人物が、ああいう時代には実力を発揮するんです。

普通ではまかり通らないようなことを、強引に実現して獲得していくみたいな。

上海のおじさんは、混乱した時代に活躍する人物の典型だったと思います。

もっとも、平和になるとそういった人たちはうっとおしくなるんだけどね。

‐そういった世の中の状況は、今と通じるところがあるように思います。今後、戦後にいたような型破りな人たちが、今の世の中で活躍していくのでしょうか?

そうならなきゃいけない状況だと思っています。型破りな人たちの存在を、みんながちゃんと評価するということが大事です。

僕たちが若い頃は、もっともっと若者が生意気だったし、もっともっと言いたいことを言っていました。

親や役所が言っていたことを片っ端からひっくり返していました。それが若者だと思っています。

そういう意味で今の日本人は、おとなしいし、従順な羊のようになってしまっていると思います。

‐若者よもっと噛み付いてこい、と?

そうです。もっと若者は生意気でいいんだと思います。若者は大人しくいうことを聞けっていうのが、今のこの国の政治のやり方になってしまっている。

どんどん意見を言ってくれ、その意見を聞いて私たちは国を治めていくんだ、と今の政治家が考えているとは思えないのです。

だから若者も大人しくなってしまう。そういう意味では、SEALDsなどは希望ですね。

それが若者ではないだろうかと思います。

‐最後に今を生きる2-30代へのメッセージをお願いします。

抽象的な言い方になってしまうけれど、世の中を疑ってほしい。今の新聞や雑誌を通して報道されることには嘘が多いと思う。

そんな嘘を見破ってほしい。真実とは何かを探る能力を持って欲しいのです。

“蛇のように疑い、深くあれ”という言葉の通り、素直にいうことを聞いちゃだめだっていうことですね。騙されるな、と。