「甲子柿(かっしがき)」って知っていますか?

岩手県釜石市の内陸に位置する甲子地区。そこには古くから伝わる加工法で作られた、希少価値も栄養価も高い「甲子柿」という柿がある。

地域の外にはほとんど出回ることのない幻の柿。そんな甲子柿を、もっと多くの人に知ってもらおうとブランディング・PRに取り組んでいるのが松浦朋子さんだ。東京の会社で地方に関わる働き方をしていた松浦さんは、人の魅力に惹かれて釜石に移住することを決意。釜石ローカルベンチャーという、釜石市の地域おこし協力隊の枠で昨年から活動し始めた。

「甲子柿」という地域の産業に取り組む松浦さんの、地域との関わり方を取材した。

柏木彩織
三陸地方に惚れた東京都出身の大学生。 「東京にいながら、離れていても地方と関わる」をテーマに勉強中。 全国各地で毎月11日に開かれる東北酒場、「きっかけ食堂」のメンバーとしても活動しています。

渋柿を燻すと甘くなる?残したい地域の文化

甲子柿と出会ったのは、去年の11月。紅葉がピークを迎えた頃の釜石のとある商店で、地元の人が「あったあった、まだ残ってた」と持って来てくれた。まるでトマトのように赤く、柔らかい。かじってみると、タネがなくゼリーのようにとろっとろ。これが甲子柿だった。

とても甘い甲子柿、実は渋柿からできている。「柿室」という密閉した空間で燻して渋みを抜いたものが甲子柿なのだ。囲炉裏に偶然、渋柿を置いておいたら、その煙で甘くなったのが元々の始まりなんだとか。

釜石の特産物である甲子柿は、地域の外にはほとんど出回らない。10月半ばから11月初旬にかけてしか出来たてを手に入れることができない上、その消費期限の短さから地元以外で取り扱われることはほとんどないからだ。長い間、地元の住民だけしか存在を知らないものだった。

松浦さんは現在、そんな甲子柿をもっとたくさんの人に知ってもらおうと活動している。釜石に移住する前は、メディア業界で働いたのち、東京の会社で地方と関わる仕事に従事。そこで釜石市に関わるうちに、釜石でいきいきと活動する若い世代に惹かれ、起業型地域おこし協力隊の制度「釜石ローカルベンチャーコミュニティ」を使って移住をすることを決意した。

渋柿の渋をとる方法は他にもあるのに、釜石ではわざわざ1週間もかけて燻製にする。他の地域にはない昔から続く文化はおもしろいし、残していきたいなと思ったんだよね

もともとは甲子柿に取り組むつもりで釜石に移住したわけではないという松浦さん。自分の事業を起こすために燻製に注目していたときに、周りの仲間たちの「燻製と言えば甲子柿だよ」という声に押されて「まずは甲子柿の現場を見てみよう」と、収穫の手伝いから始めたのだった。

現場で見えてきた、本当の課題

柿の収穫や、甲子柿のブランディングを手伝い始めた松浦さんが目の当たりにしたのは、甲子柿が抱える、外に広める以前の大きな問題だった。

それは、甲子柿という産業が、ひとつの産業として成り立っている訳ではないということ。甲子柿を生産する農家さんは、兼業や副業で甲子柿を育てていて、それだけで食べていけるわけではないそうだ。さらに高齢化に伴い、以前は80軒以上あった甲子柿農家も現在では20軒以下に減り、10年後には、今ある農家さんの数もさらに半分になる。

「なんとかせにゃあかんなあ」

このままでは甲子柿が終わってしまう。その現実を知ったとき、松浦さんの心が動いた。

「最初は『甲子柿の商品を作っても売れない』という課題があると思っていたから、都内のマルシェに出て甲子柿の加工品を販売したり、外に向かってPRしていたのね。だけど、もっと深い問題は生産の部分だったんだよね」

本気だからこそ「共通言語」を見つけたい

いくら商品開発やPRをしていても、甲子柿自体がなくなってしまったら元も子もない。その地域で、現場に入って活動することで見えてきた気づきだった。そこから、どうすれば生産者がいなくならないのかを考える日々。

「いくら『生産者が足りない』と声をあげても、誰かがやり始めなければ若い人は農業をやらないよ」

そう考えた松浦さんが始めたのは、自身が生産から関わること。40代の若い地元の生産者さんと一緒に柿畑を借り、岩手大学の岩手アグリフロンティアスクールに入って農業のことを勉強し始めた。

「やっぱり私『よそ者』だしさ。周りの甲子柿生産者さんたちと同じ温度感で話がしにくいんだよね。。販売やイベントをするだけでも、本気で『甲子柿に一緒に取り組む』なら、共通言語を持たないといけないっていうのはすごく感じてる。『生産者じゃないのに、お前に何がわかるんや』なんて言葉も聞いたことがあるしね」

松浦さんが借りた柿畑は、長い間放置され、手入れされていなかった場所。畑の古い柿の木を再生させるところから取り組んでいる。甲子柿の生産を通して環境保全も視野に入れて取り組んでいきたいと話す。

「甲子柿を使ったグリーンツーリズムやまちあるきマップはある。でも、それらを生かしていくためにも、まずは柿としていいものを作ったり、生産者が食べていける値段で売れるようにしていく必要がある。そうしないと柿をやる人は増えていかないから」

甲子柿の産業には、昔から多くの人が関わっているにもかかわらず、国からの助成金がなくなって事業が縮小していき、できなくなった取り組みもあったそうだ。そんな事例を見ているからこそ、松浦さんは地域の内外に発信している。

「甲子柿自体が、自立して歩き出さなきゃダメなんだよ」

甲子柿という地域産業に向き合う松浦さんの姿は、本気だった。

地域への関わり方に正解はあるのか

「釜石ローカルベンチャー制度」の任期は3年。現在、松浦さんが釜石にやってきてから1年半が経ち、残りの任期はあと半分だ。しかし、取り組んでいる活動は任期の先を見て行なっていると松浦さんは言う。

「『任期が終わった後はどうしますか』って、最近よく聞かれる。でも私は、3年前は六本木で働いていたのに、今はこの縁もゆかりもなかった釜石に移住しているわけで、3年後どうしているかなんてわからない。ただ、ここまで柿に関わっているから、甲子柿を続けていける地域の仕組みは残したいかな」

あっという間に過ぎ去った1年半を振り返り、松浦さんが発したのは「3年は、地域で一から事業を起こすのには短すぎる」という言葉。そこには、松浦さん自身も経験した「よそ者」としての理由があった。

「外から来た信頼関係も何もない人が『柿をやるので畑を貸してください!』って言ったとしても、地域の人が警戒するのは当たり前。だから、まずは人間関係を作るところから始めなければいけなかった。柿の生産者さんたちと仲良くなって、ようやく関係性ができて来たなと思う頃には、あっという間に1年が過ぎていたよね」

最後に、東京でも地域に関わる仕事ができていたにもかかわらず、移住の選択をした理由を聞いた。

「地方への関わり方は、それぞれの好みでいい。移住することが全てではないし、東京にいるからこそできることもある。それが物足りなければ地方に住めばいい。私は、外から関わるだけじゃ物足りなくなったから地域の中に入って、さらには畑を借りるくらい現場に入りたくなった。そういう振り切る性格なんだよね」

そう言って笑う松浦さんが「ただね」と付け加えた。

「外から関わるだけじゃ、たどり着けなかった『課題感』があったとは思う。こっちに来たからこそ、わかったことがたくさんあるよ」

松浦さんの関わり方は、外から地域に携わる経験と、移住をして現場に入る経験から得た、彼女なりの答えだ。東京で見つけた関わりが、松浦さんを釜石へと呼び、現場に入って初めて痛感した地域の課題感が柿の生産へと突き動かした。

関わり方はさまざまでいい。そう話す松浦さんが選んだ関わり方は、都市部から地方に移住をして、甲子柿の生産からPRまで携わること。ただ、そこに事業としての勝機を見出したからではない。この選択の背景にあるのは、深く、本気で地域に入り、関わろうとした松浦さんの姿だ。

「関係人口」や「応援人口」といった言葉が生まれるほどに、現代における人々と地域との関わり方は多様で自由。関わり方はどうであれ、そこで見えた地域の課題に本気で取り組むこと。それが松浦さんが甲子柿を通してやろうとしていることなのかもしれない。現場でリアルな課題感を感じ、新たな一歩を踏み出した松浦さん。そんな彼女だからこそできる地域づくりは、幻の柿と呼ばれている地域産業を守るはずだ。