70seedsを運営する,tooが探求している「変化の構造」についての連載、第二回。
今回は、甲子園をめぐる問題を入り口に、伝統的な慣習や構造をどう乗り越えるかということを考えてみる。

田中 美有
,too取締役、変化の探求lab長。徳島県の山奥で生まれ育ち、小さな頃から遊び場は野山。 自身では実家の山をフィールドに管理放棄山林の価値変容を起こす文化づくりの事業を行う。

「伝統」という言葉には、不思議な力があるように思う。

インターネット辞書をひくと、このようにある。

でんとう【伝統】
昔からうけ伝えて来た、有形・無形の風習・しきたり・傾向・様式。特に、その精神的な面。

私自身、昔から受け継がれてきたもののすばらしさに心を震えることが何度もあり、「伝統」に誠実に愛を持って向き合う人たちを知っている。その一方、その言葉ひとつで、ときに暴力や抑圧を「当たり前」として覆い隠してしまう性質を持っているのも事実である。

今夏、甲子園出場高校でのいじめ問題が注目を集めた。

甲子園をめざす高校野球の指導方法は、まさに「伝統の暴力性」を孕む状態なのでははないか。
上下関係を絶対とする縦社会、体罰やしごきの正当化。「厳しさに耐えたからこそ強くなれた」という語りは、ポジティブに次の世代へと受け継がれてきた。それは決して悪意によって受け継がれるものでなく、「当たり前に浸されている」という状態に近いのではないだろうか。

体罰やしごきを経験した人が「それで自分は成長した」と語るとき、そこには意味づけによる自己救済がある。

前回の記事でも言及したように、人は意味づけにより、負の歴史を乗り越えるという性質があるからだ。しかし同時に、それが次の世代に同じ環境を再生産してしまう構造にもなっている。

SNSで告発が拡散し、世論の批判が高まらなければ、問題は「よくあること」として水面下に沈められていたかもしれない。高野連が「同様の報告は過去にも数多くあった」と発表した事実は、まさに伝統がどれほど「当たり前」を強固にするかを示している。

私たちは、そんな「当たり前」から抜け出すことができるのだろうか。
Podcastで岡山と対話した内容を織り交ぜながら、考えたことを記してみる。


世代交代で当たり前は変わるのか

構造の変化を語るときにしばしば挙げられるのが「世代交代」である。
古い価値観をもつ世代から、新しい世代に変われば、悪き風習がなくなることは想像しやすい。

昨夏の甲子園で慶應義塾高校野球部が注目を集めたのも、まさにその事例だ。坊主頭や精神論から距離を取り、「野球を楽しむこと」で成果を出したことで、「これまでとは違う当たり前」が可視化された。

けれど、世代交代をすればみんながみんな、そうなるかというとそうではない…と分かったのが今夏の事例。同じ時代に生き、同じ年齢層に属する指導者であっても、しごきを続ける人とそうでない人がいる。

つまり、世代が変わっても前の世代の「当たり前」が、新しい世代の内面に温存される限り、伝統は持続してしまうということだ。

そう考えると、「当たり前を疑う力はどこから生まれるのか」がとても重要な問いに思う。

ある人は、自分が体罰に耐えた経験を「だからこそ今がある」と肯定の意味づけをし、またある人は、同じ経験を「二度と繰り返させたくない」と否定する。両者の違いはどこにあるのだろうか。

社会学者ブルデューは、こう述べている。
人は環境に繰り返しさらされることで「ハビトゥス」すなわち無意識のふるまいや判断の型を身につける。人はその型に沿って動くため、気づかぬうちに「当たり前」が体に刻み込まれてしまう。だからこそ、その「当たり前」から外れるには、別の文脈に触れる経験が不可欠なのだ。

それは、異なる環境に身を置くことかもしれないし、本や漫画、アニメなどの物語からの学びかもしれない。ときには、SNSでの告発のように、これまで見えなかったものが可視化されることもある。

そうなってくると、別の文脈にふれた時に「あれ?」と気づけること、つまり周囲の情報を自分ごととしてキャッチすることが必要だ。「当たり前」に目を凝らし、それを問い直せる環境・情報にふれ、自分にとって意味づけしていくためにはある程度の熱量・向き合う姿勢も重要だと考える。その時に出てくるのが「欲」の話である。
 

欲の種類

誰しもが何かを求めて生きている。だが、その欲がどこに向かうかによって、人を豊かにもすれば、歪ませもする。

スピノザは『エチカ』で、人の欲望を「受動的な情念」と「能動的な欲望」に分けている。前者は外部の評価や報酬に振り回されるもので、後者は自らの本性に根ざした欲望だ。

野球を愛する高校生を想像しながら、この話を例えてみる。
ただ純粋に、できることが増える喜びや、仲間とプレーする楽しさに夢中になるとき、その欲は「能動的な欲望」として、行為そのものに根ざしている。だが、同じ「野球」に向き合いながらも、欲が「名声」や「お金」へとすり替わってしまえば、行為は「受動的な情念」に支配され、手段となり、周囲も自分自身も傷つける力に変わってしまう。

「甲子園」という舞台そのものがそもそも、行為の外側の欲と強く結びつき、手段化してしまう構造があるように思う。例えば、周囲からの期待・変化への応答や進学、将来のキャリアにつなげるために甲子園を目指す。そのとき、野球を「好きでやる」という原点は見失われ、「甲子園に出ること・成果を上げること」のために暴力や理不尽ですら受容し「必要なものだ」と思いこむ。

つまり、欲そのものは生きるためのエネルギーであり、人を突き動かす力として必要だが、問題は、それが「行為そのもの」に向くのか、「行為の外」に向くのかだ。前者は人を豊かにし、後者は人を蝕む。

 

好きから出発するということ

では、どうすれば私たちは「欲」を行為そのものに結びつけていけるのだろうか。
鍵になるのは、先述した「能動的な欲望」つまり、「好き」から出発する、ということではないか。

この考え方は、「誰かがつくりあげた舞台を盲目的に追うより、自分の好きなことを貫く方が幸せなんじゃないか。」とradioで岡山が話していたことにも紐づく。

「さかなクン」の例がわかりやすい。「魚が好き」その一点を突き詰めることで、彼は行為そのものの欲を満たすだけじゃなく、外部評価を得た。そこには甲子園のような権威の後ろ盾はない。ただ「好き」が純粋な欲を支え、他者を惹きつける力になっている。

好きから出発することは、結果として社会的な評価に繋がるかもしれないし、繋がらないかもしれない。外側の評価のために行為をねじ曲げず、好きだから続ける。好きだから工夫する。その積み重ねが、結果としての変化を招く。

この話をしたときに、「いや〜それは理想だけど…。」と思わず口に出てしまうほど、行為そのものの好きを純粋に貫くのは難しいことだ。

社会は常に外側の欲を刺激してくる。名声や収入、肩書きといったわかりやすい報酬は、努力の基準になりやすいし、短期的には強い推進力にもなる。しかしそれだけを追い続けると、歪みが生じてしまう。
アレントは『人間の条件』で、行為(action)はつねに他者の前に現れ、他者のまなざしから切り離せないと述べている。外側の評価の影響を完全に避けることはやっぱり難しい。

だから、ときどき立ち止まって問いかけることから始められるんじゃないか。
私はほんとうに「好き」から始めているだろうか。
それとも、外側の欲に引っ張られているのだろうか——。

 


甲子園を入り口に考えたが、これは私たちの日常にも密接に関わる話である。

仕事でも学びでも、人はしばしば「見えやすいゴール」や「受け継がれた当たり前」に流され、自分をすり減らしてしまう。その方が努力しやすいもんなあ、と私自身ついついわかりやすい目標に引っ張られることが多くある。

そのとき立ち止まって、もう一度「好き」に立ち返ること。欲を外ではなく内に結びつけ直すこと。それこそが、伝統や当たり前に流されず、自分自身の変化を起こすための出発点になるのではないか。

けれども、立ち戻る先の「好き」という感情もまた、まったくの純粋さをもって存在するわけではない。誰かに褒められたり、承認されたり、逆に否定されたりするなかで、少しずつ「私の好き」がかたちづくられていくからだ。

結局は、他者や社会の影響を免れることなく、「好き」も伝統や環境の一部に含まれていく。

だからこそ、私たちにできるのは自分の「好き」を問い直すことなのだと思う。今していることは、心からの好きなのか、その好きはどこから来たのか、自分も他者も、傷つけることになっていないか。

のめり込んでいる時こそ、一つ一つの選択をふりかえり問い直せるような、そんな自分でありたいと思う。

 

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