2025年の夏。戦後80年という節目がやってきた。

私たち,tooが運営している、戦後70年の年に立ち上げたウェブメディア「70seeds」。あれから10年が経ち、社会も大きく変わった。世界では、まさに今戦火に脅かされる人々がいる状況だ。そんな社会背景の変化、そして自分達自身の変化により、当時と今とでは見つめているものが変わっているように思う。

その節目に、私たちは変化の探求ラボをはじめた。
社会の仕組みを変えたい、こういう未来に向かいたいと思った時に、どんな方法で変化を生み出せるのかを実践知・理論知を合わせて考えていく場。今後70seedsでは、変化を探求する過程を開示していく。

今回は,too代表の岡山とともに、「平和」をテーマに変化の構造を考える。
長崎出身の岡山にとって、原爆投下や被爆者の存在は、日常の中にあった。修士論文では「被爆証言の継承」をテーマにしており、まずはこの論文の中身から思考を巡らせた。

被爆者の証言は、出来事をそのまま伝える段階から始まり、やがて「核廃絶」や「ノーモア」といった明確なメッセージを帯びるようになっていく。その変容の中に、変化の構造が見えてくる——。

田中 美有
,too取締役、変化の探求lab長。徳島県の山奥で生まれ育ち、小さな頃から遊び場は野山。 自身では実家の山をフィールドに管理放棄山林の価値変容を起こす文化づくりの事業を行う。

体験から伝達へ。役割を持つことで体験が個人をはみ出す

被爆者の証言は、原爆投下直後から、現在に至るまで変容が起こっている。
証言の中身が時の経過とともに変わっているのだ。

まず、原爆直後の証言は、「そのとき何があったのか」を事実として淡々と伝える段階から始まる。

『長崎原爆体験記』の冒頭に書かれた「記念物の一つとして、原爆体験記があってもよいのではなかろうかというのが長崎人のながい間の願望であった。(日本の原爆記録①)」という編集者の言葉にもあるように、当時の「原爆体験記」はあくまでも原爆体験の「記録」として作られたものであるがゆえにそこに恣意的なメッセージ等が込められることも少なかったのである。

しかし年月が経つと、その言葉は変化していく。「核廃絶」「ノーモア」といった明確なメッセージを伴う証言へと移り変わる。

証言が「メッセージ」へと変質していった背景にあるものとして最も大きいのは、1955年以降盛り上がった原水爆禁止世界大会に始まる原水禁運動やそれを筆頭とした反核平和運動の世界的な高まりにあることは間違いないと言えるだろう。1955 年の原水爆禁止世界大会において被爆者が体験の証言をおこなったことにより、全世界に対して実際に使われた核兵器の「結果」が知られるようになり、反核平和のシンボルとしての「HIBAKUSHA」もまた一定の地位を獲得することとなった。

この変化は、単なる言葉の置き換えではない。「体験そのものに対する意味づけが変わる」過程だと岡山は言う。

その意味づけは、個人の内面のみで起こるものではない。誰かにとって意味を持った瞬間、体験はメッセージへと転化する

岡山は「相手がいるからこそ成り立つ」と語る。個人に閉じていた出来事が、他者と共有されることで社会的なものになる。体験は受け取られることで、新しい形を与えられる。

ただし、メッセージ化には功罪がある。

強いスローガンは人を動かす力を持つ一方で、平和という言葉が形骸化し、証言が役割や政治的立場に押し込められる危うさもはらむ。意味づけの変化は、個人と社会の間で行き来する中で、その力とリスクをも同時に育てていく。

 

個人の感情から始まる意味のスパイラル

被爆証言を語るという行為は、単なる記録や伝達ではない。
そこには、その人の生き方や日々の行動を支える力が宿っている。

証言活動を続ける被爆者の姿に強い生命力を感じる、と岡山は言う。高齢になり、身体の不調を抱えながらも全国を回り続ける。その原動力は「自分には語る役割がある」という確かな認識だ。使命感や今の社会への危機感が、その行動を後押ししている。

岡山は、この広がり方を「口火を切る人」から始まるスパイラルとして説明する。

最初に語り始めるきっかけは、あくまで個人の感情だ。
「もう二度と同じ悲劇を繰り返させたくない」「胸に抱えた体験を吐き出したい」「自分の経験を誰かのために役立てたい」
そうした心の奥底から湧き上がる衝動が、口を開かせる。

その語りは、聞き手に受け止められ、社会の中で意味を持つようになる。
そして、「自分にも役割があるはずだ」と思う人が現れる。
こうしてフォロワーが生まれ、語りの輪が広がる。
新しい世代の「口火を切る人」が次々と立ち上がり、その連鎖が一つのシーンを形成していくのだ。

この流れは、被爆証言だけに限らず、社会の中で変化を生み出す多くの活動にも通じる。
役割を認識した人の存在が他者の行動を促し、その行動がまた別の人の役割認識を呼び起こす。

私はこの話を聞きながら、変化の探求ラボで扱ってきた「変化の構造」との共通する点があると考えた。
変化はいつも、個人の感情から始まる。喪失や衝撃といった体験を、自己救済のために意味づけし直すことで、自らを再統合し、次の行動へとつなげる。(※1)
被爆証言の継承も、同じ構造の上に成り立っているのではないか。

 

意識する/しない、その間にある平和

私たちは今、歴史が単なる年表の1ページとして扱われるのか、それとも未来に引き継がれる価値観の土台として生き続けるのか、その分岐点に立っている。


戦後80年という時間の流れは、直接の語り部が急速に減っていくことを意味する。
これからは、体験をしていない私たち世代が、自らの言葉と視点でその意味を紡ぎ直していくしかない。

岡山は、昔話の多くが教訓を内包して受け継がれてきたことに触れながら、原爆の記憶も同じように価値観形成の基盤として残るかどうかは社会の選択にかかっていると語る。桃太郎や浦島太郎といった物語も、元をたどれば何らかの実体験や地域の出来事から生まれたものだ。
それらが時を経て、「困っている人を助ける」「力を合わせる」といった教訓や価値観を内包した形で語り継がれてきた。

原爆の記憶もまた、そこにどのような意味を見出し、共有するかが重要になる。

では、その「意味」をどうつくるのか。

岡山は「意思を介在させない行動が、良い方向にも悪い方向にも働く可能性がある」と言う。
無意識のうちに平和を支える行為をしている場合もあれば、逆に無意識のまま差別や分断に加担してしまう場合もある。

大事なのは、社会全体の価値観をどう育てていくかという視点だ。

原爆が投下された8月6日、9日、そして終戦を迎えた15日を、ただの「日常」として過ごすのも、意識して迎えるのも、どちらも自由だ。
しかし、その選択を自覚しているかどうかが、これからの継承のあり方、つまり社会の状態を左右する。
意識することで広がる価値観もあれば、無意識のまま守られる平和もある。


その中でも、「意識をする」ことが社会の中で変化を生み出すことにつながるのではないかと私は考える。
それが、ハンナ・アーレントの信じた「意志」というものではないだろうか。(※2,3)

 

被爆証言の継承をめぐる対話を通して、改めて見えてきたのは、継承の構造が「個人の感情」から始まり、「役割の認識」を経て、「社会の価値観」へと広がっていくということだ。そしてこの構造は、被爆証言に限らず、社会の中で変化を生み出し、広げていくあらゆる場面に共通している。

戦後80年。直接の体験者がいなくなる時代は、意味を外から与えられる時代ではなくなる。一人ひとりが自分の感情を見つめ、意味をつくり出す——そんな主体的な営みが、平和の継承にも、社会の変化にも不可欠になっていく。
この小さな営みの積み重ねが、未来の価値観をかたちづくっていくのだと、強く感じた。

 


参考文献
※1 川島大輔 (2018). 「死別における意味」の意味
※2 ハンナ・アーレント「人間の条件」
※3 國分功一郎「中動態の世界」