30歳を目前に、「何者でもない自分」に焦りを感じている。
好きなことに夢中になっているのに、たまに顔を出す自己肯定感が低い自分。それは一体、なぜなのだろうか。
世の中には自己肯定感に関する名著が溢れており、「何者」になる必要がないことも知っている。その方法論も目にしたこともある。
「理想はね〜そうだよね〜、理論的にもわかる。」とか思いながら、腑に落ちていない自分がいる。なぜなら、社会変化を起こす人々は、「何者」つまり「何かを成した状態の人」に至ったように見えるからだ。
「変化を起こした人は、何者かになっている。」そんな方程式が頭の中にある。けれど、これまで,tooの問うradioで話しているように外部評価を意識することは「好き」を歪める理由であることもわかってきた。それでも、わたしはまだ何かを成すことへのこだわりを捨てきれていないようだ。
心のどこかにちょびっとある「好きなことだけやって結果を求めない自分はぬるい」みたいな、自己を攻撃するよからぬ考えを捨てるべく、今回は「何者かになる」ことについて探求した。かなり、赤裸々に書いた文章で、読んでいる人の共感性羞恥を誘ってしまいそうな内容にヒヤヒヤしながら、公開する。
ひとつ、たどり着いた答えは、私の内側に潜む二つのハードルを乗り越えることだった。
「何者か」なんて話題は、大人になるとしづらくなる
今月末で29歳になる。
このまま何ごともなく無事に29歳を迎えられると、ついに、20代最後の歳を過ごすことになる。
ここ1年くらい「わたしは何ごとも成し遂げてない中で30歳になるのか…」という焦燥感が、横隔膜あたりに息を潜めていて、たまーに顔を出す。
わたしが20歳の頃に関わった、大人たちはとても頼りになる存在で、ナチュラルで、わたしのように「自分は何者か」など考えていないだろうという人たちだったように思う。
でももしかしたら、そんな感情は外には出せないだけで、内には抱えていたかもしれない。わたしも、こういう話を周囲にしたら、「え、そんなこと考えてたの?意外〜」と言われる。大人になるにつれて、「何者」の話は口に出しづらい事柄になっている様子だ。
「わたしは、何も成していない」という感覚は、対処しないとこれからも多分ずっと蔓延ったままかもしれない。
前回の「好きの問い直しから始まる脱構築」では、外側からの欲、つまり誰かから認めてほしい・評価されたいという感情が「好き」という能動的な欲望を歪めてしまうことを書いた。つまり、好きによって行動し、その行動自体を楽しむことが重要であるということだ。
そんなことを書きながら、わたし自身、たまには褒めてほしい!と急激に思うことがある。やっぱり頑張ったら、誰かに褒めてもらったり見てほしいものなのだ。一方で褒めてもらっても、「やー、全然ですよ…」となぜか受け取れないこともしばしば。
いやいや、わたしって、褒めてほしいんじゃなかったの…?この矛盾はなんなのか。
自分の好きだけに夢中になる、つまり誰からの評価を必要としない状態を心から望むことはできるのか。ましてや、「社会の変化」を作りたいと思った時には、自分のみでなく、周囲の変容を望むことは避けられない。そうした影響力を持つ状態は、わたしの目からは「何かを成している人」の状態に見える。
わたしたちは、なぜこれほどまでに「誰かからの評価」を必要とするようになってしまったのだろう。そして、この焦燥感の根源は、一体どこにあるのだろうか。
何者かになることの正体
わたしはなぜ、「何者でもない」ことを受け入れられないのか。
ここまで、変化の探求labでは「好きを大事にすること」を重要視している。自分の中の好きや夢中を突き詰めた「結果」として変化は起こるのだという考え方だ。
それは、結果や評価を求めないという状態であり、好きを突き詰めることにより「何かを成す」ことを手放すことである。ただただ、本当に結果じゃなく、行動のみなのだ。
「自分のしたことで何かを成す」ことを手放すためには、かなり勇気が必要だと思う。
そのためには、わたしが本当に求めている「何者か」の正体と、ちゃんと向き合わなければいけない。
まず、わたしの「何者かになる」を求める根本の欲求は、自分を肯定したい感覚に尽きる。今の自分に「頑張ってるやん」と思えたり、死ぬ時に「頑張ったなー」と思いたい。逆に頑張れていない自分を見つけたら、心の中で攻撃している。自分を律するということにもつながるのかもしれないけど、あんまりヘルシーではない。
すでにわたしは、好きなことを好きなようにさせてもらってるという自負がある。「好きなことやってるよねえ」とよく言われる。心から、とても幸せなことだなと思う。ありがたすぎる。けれど、たまに年齢を感じるタイミングや、誰かが世間に評価される姿を見た時に、「わたしは何者かになれていない」という悪い感情が近寄ってくるのだ。
それは、これまでの環境要因で刷り込まれた、「何者か」というテンプレートや幻影を追っているからではないだろうか。
30歳になったら、素敵な大人で余裕がある。
30歳になったら、結婚している。
30歳になったら、仕事で多くの人から評価される。
「何者か」というテンプレートは、わたしたちの「好き」や「欲望」を形作るものでもある。それは一概に悪いものではなく、あらゆることの原動力になったりもする。
好きなことをして、好きなように生きていても、「何者か」の呪縛から離れられていない。
それが引き起こされるのは、「他者」と比較している時である。
じゃあ、どのようにしたら、他者比較から解放されるのか。
つくる、そしてつながるという「何者か」からの解放
よく、「他者と比較しない」ということとセットで世の中に広まっている方法論として「今ここへの集中」が推奨されている。
マインドフルネスによる、自己肯定だ。わたし自身、瞑想を習慣的に行い、重要なことだと認識している。けれど、それを実践してもなお、苦しさがたまに顔を出す。しかも、余裕がなくて苦しい時期は、瞑想もしづらいし負のループだ。
そう考えた時に、「今ここに集中する」ことにも分類があるのではないかと気がついた。
それは、今ここに集中した結果、時間が経っても形として「残るもの」と、その瞬間だけで消える「残らないもの」という違いだ。
例えば、わたしはプロジェクトマネージャーやディレクターとして、進行や調整を担うことが多い。達成したいことに対して戦略を考え、チームで事柄を進める楽しさがある「好き」な仕事だ。
ただ、役割の性質上、形としては残りづらい。プロジェクトで成果が出た場合にも、「自分は何をしたのか」が目に見えて分かりづらいことから、ふとした時に「あれ?なんか謎の寂しさがあるぞ?これはみんなで成し遂げたことで、みんなにわたしも含まれる。間違いなくわたしがいることの意味はあったが、わたしである必要はあったのか?いやいや、せっかくご縁があり携わらせてもらったのに何を余計なことを思っているのか…」などとややこしい自問自答をすることがある。これが「残らないもの」に分類されるものである。
一方、「残るもの」を考えると、プロジェクトの中ではコピー開発、ライティング、簡単な制作など自分で手を動かす時。他にも、何かを探求した結果をこのように文字に残したり、コーヒー焙煎、製茶、最近は自分の手で家具も作り始めた。
それらは、わたしが手を動かしたからこそ作られたものであり、つくる時に集中するだけでなく、今も目の前にある。そこには寂しさはなく、いつでも「これはわたしが携わり生み出した」と確かめられる。
もちろん作り手のみが生み出したものなんてそうそうない、というか、あらゆるものは動植物含む他者と接続することによって生まれている。その考え方で言うと、わたしだけが生み出したものではないことは「残らないもの」と共通しているが、「自分が手を加えて形として残っている」ことが違う点である。
この「残る」「残らない」を比べて、行き着いたのは「つくる」ことの大切さである。単純に、実存するものがある方が自分や他者が認識しやすい。
『庭の話』という本では、アレントの『人間の条件』を引いて「制作(つくる)」の結果として「行為(社会とつながる)」ことを推奨している。それは単に自分の内面を満たすためだけに「もの」をつくるのではなく、その「もの」が、他者との新たな「つながり」を生み出すことこそ重要だということだ。
そう考えると、わたしの場合は不特定多数から評価されるような「何者か」にならずとも、自分の作ったもので、人と関わることで十分満足しているようだ。
幼少期から、手を動かしてものを作ることが好きだった。山に入っていろいろ採集し、花遊びをしたり、飾り物を作ったり、器を作ることもあった。そのときには、保育園の先生や両親など、周りの人に褒めてもらって嬉しい記憶がある。
今でも、作ったものを、周囲が理解して共感し、尊敬する人たちからフィードバックをもらったり褒めてもらえたりすることでかなり満たされている。
例えば、最近夢中になっているお茶も、自分が製茶したものを、周りの人に飲んでもらって「おいしい」と言ってもらったり、先生から「かわいいお茶だね」なんて評価してもらっただけでスキップするくらい嬉しい。
おそらく「もの」を通して対話できることで、自己の存在を他者も認識してくれているという満たされ感がある。もはや、他者が1人だったとしても、わたしは生きていけそうだ。この感覚は、他者比較が介入していない状態だといえる。
「残らない」仕事の中でも、小さくても自分の手で「残るもの」をつくることが自己救済につながっていくだろう。
つくって残して誰かと関わる。
自分の中だけで、「好きなこと」を完結することは難しいが、作ったものを通して、人と関わることによって「何者かになる」ということからちょっとづつ解放されるのではないか。
ただ、もうひとつ問題がある。
成果が出ないことへの焦燥感の問題
「好きなこと」とは別のものとして自分に課された「使命」というものがいろんな人の中にあるのではないだろうか。「責任」というものも近い存在かも知れない。
わたしの場合は、実家に山があることによる「管理放棄山林の課題解消」や、自分自身が実感している問題の「現代人の満たされなさへの対処」などが使命として実感しているものだ。
使命は、「好き」とは違って、使命をクリアするために課題を解消するという結果が必要である。その結果が出せていないと、結局自己肯定感の呪縛からは逃れられない。「成果に対する焦燥感」がもう一つの問題である。
「使命」については、ある種「何者かになる」必要はなく、「何かを成す」ことが重要視される。
ただ、課題が大きければ大きいほど、「何かを成す」ことへの時間は長尺になることが多いように思う。
わたしの管理放棄山林の話は、長尺なものの一つであり、結果が見えてくることにも時間がかかる。
生きている間に「成す」までに至れるかもわからない。
そのため、ひたすら着実に課題解決に向けて進んでいるかどうかが大切だ。
シンプルに、課題解決に向けて進んでいるかのチェックができる状態にしておくことで、成果に対する焦燥感をむやみやたらに持つことは少し減るかもしれない。
高い山を見て、自分が何合目まで来ているのかを確認できるのと、できないのとでは大きな差がある。
ここで、さらに厄介な話がある。
好きなことと使命は接続していることが多くの場合にあることだ。わたしも、使命に対する方法の中で好きなことをするという選択をしている。使命に対する結果を考えると、「誰か一人からいいねと言ってもらえていたら十分だ」なんて、言っていられない。
このことに気づいた時に、まずできると思ったのは「好きなこと」と「使命」は別物であるという認識を自分自身で反芻しながら理解することだ。
「好きなこと」については、つくって誰かと共有する。「使命」は、課題解決に歩みを進めていることの確認をする。この二つのハードルの乗り越え方の仮説を試してみて、「何者かからの解放」が自分の中で起きたらこの方法はわたしに合っていたと言えそうだ。
けれど、先述した通り「好きなこと」を「使命」と接続している限り、成果への焦りや好きの純粋性が損なわれることも多々あるだろうなということは想像ができる。
それはそれで、今焦りがなぜ出ているのかを見つめ、「焦りによって何か行動を変化させる?好きと使命どっちを大事にする時なのか?」と、自己肯定感というよりも行動に注目して振り返りができるとよさそうだ。この記事を書いているときに、これ以上の仮説は出てこず。「好きなこと」と「使命」の接続による焦燥感の課題については、ちょっと納得感が薄めの答えになってしまっているけれど、まずはこれで試してみようと思う。
変化と長く付き合うために
改めて、「何者でもない自分」という苦しみは、二つのハードルを乗り越える必要がある。
一つ目の苦しみは、好きなことをしているのに他者比較をしてしまうこと。
もう一つは、「使命に対して成果が出ない」時の何も成せていない辛さ。
それぞれに「何者か」からの解放の考え方はあるものの、この二つが接続されることはしばしばあり、それが、また焦燥感を引き出すという怖さもある。
希望を少し感じられるのは、「好き」を「使命」と接続した時の良い面である。
多分、「好き」と接続することで「使命」に長く付き合い続けられる。
「これをわたしは成す」と思っていることは、もしかしたら一生涯かかっても、なし得ない可能性もある。だって、明日死ぬかもしれないし。だからこそ、好きなことに夢中になって、それによって人とつながるというある種近視眼的なものの見方が使命に向き合うものの方法の中に組み込まれているのが大切だ。
先日、対話する図書館を運営する友人と山の中でPodcastを録った。その際にも「何者」の話をしたのだけれど、友人が話していた話を最後に紹介したい。
「生涯かけて世の中にある全ての本を読むことはできない。けれど、今読んでいる本を適した環境で、大切に読むことはできる。」
結局、変化を起こすために私たちができることは、目の前のことに向き合い、味わい尽くす。
目の前のことに精一杯向き合って頑張る。
それに尽きるのかもしれない。(やはり、これまで腑に落ちなかった「今ここ」論は間違っていなかったのだ)
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