2月4日、5日、15歳~29歳の若者を対象とした新しい学びの場「スクール・ナーランダ」が京都・西本願寺で開催されました。



複雑な今の時代を生きる若者たちが生き抜く「軸」をつくる、そのヒントに…という思いで開催されたこのイベント。科学、芸術、哲学、そして2,500年続く仏教―人類が積み重ねてきたいろんな叡智が結集。僧侶だけではなく、アート、音楽、科学など各分野で活躍する人物がゲスト講師として登場、横断的に学び、体験できる場になりました。



※開催の背景や思いについては、先日公開したインタビュー記事をご覧ください。



編集部が参加した2日目(2月5日)の講師をつとめたのは、映像人類学者の川瀬慈さん、ラッパー・音楽家の環(たまき)ROYさん、浄土真宗本願寺派僧侶の小池秀章さん。京都開催でのテーマ「わけへだてと共感」について、多様なゲスト陣ならではの視点から語られました。



見て、聴いて、味わって、対話して・・・充実した授業コンテンツで繰り広げられた「スクール・ナーランダ vol.1」、2日目の様子をお届けします!

遊び心あふれる本願寺ツアー

 

1日目の晴天から一変、生憎の雨から始まったスクール・ナーランダ2日目でしたが、そんな悪天候をものともせず、引き締まった表情で続々と集まった若者たちで会場はいっぱいに。

 

開始最初のコンテンツは、お坊さんによる本願寺ツアー。普段は一般公開されていない国宝・飛雲閣や書院などを見学させていただきました。建物のあらゆるところに施された面白い仕掛けも見どころ。参加者も間違い探しを楽しむように、好奇心いっぱいに隅々まで見学していました。なんとも遊び心に満ちあふれた、これもまさに先人の智慧。ちょっぴり敷居の高そうなイメージのあったお寺が身近に感じられた瞬間でした。

 

(写真:阿弥陀堂・御影堂の廊下や縁側のところどころにある、「埋め木」。木材の亀裂や穴を木片で修復・補強するときに使われるものです。西本願寺では、それが “富士山”、“象”、“瓢箪”など形は様々。大工さんの粋な遊び心いっぱいの埋め木が見れます。)

 

(写真:国宝「雁の間」から隣室の国宝「菊の間」の月が眺められます。菊の間との間の欄間には雁を透し彫りに。)

(写真:書院の東狭屋(ひがしさやのま)天井には様々な形の書物が散らされています。その中に、大事な書物をねずみにかじり取られないようにと睨みをきかせる「八方睨みの猫」が一匹隠れているのですが・・・。)

 

本願寺ツアーのあとは待ちに待った昼食!本願寺の「お斎(おとき)」として出される精進料理をいただきました。お肉やお魚が使われていないことはもちろん、鰹出汁も不使用というからびっくり。精進料理と聞いてイメージされる薄味ではなく、どれも上品かつしっかりとした味付けで、参加した若者たちも舌鼓を打ちます。

 

(写真:精進料理「お斎(おとき)」)

 

授業1:違いを認め合う研究を(映像人類学者・川瀬慈さん)

 

ここからは伝道院に移動し、いよいよ今回のメインイベントとも言える各分野の専門家たちによる講義が始まります!

 

(写真:西本願寺を背にし、門前町通りを歩いて約5分ほどの場所に構える伝道院)

 

最初に登壇したのは、映像人類学者の川瀬慈さん。浄土真宗のお寺に生まれるも、学生時代は音楽活動に打ち込む日々だったそう。大学では、ギターを背負ってアジア各地を旅し、伝統音楽の演奏家たちとジャムセッションを楽しみました。在学中にカナダに1年ほど留学し、勉強の傍らバンド活動に勤しんでいたところ、新しい気持ちが芽生えたと話します。

 

川瀬:カナダに行き、自身の目と耳で様々な人種、言語に触れ、初めて「多様性」を感じたんです。さらに先住民の文化に触れ大きな衝撃を受けました。このことが文化人類学を学ぶきっかけになったと思います。

 

その後、大学院に進学した川瀬さんは、そこでアフリカのエチオピアの研究をしていました。指導教官から提案された研究テーマは断り、川瀬さんのこれまでの軸となっていた、音楽に関わる研究がしたいと志願し出会ったのが、アフリカ特有の唄と踊りでゼファンという音楽。この音楽を演奏する音楽集団は手に職を持つ職人と同類である職能集団であると同時に、被差別集団であることを知り、衝撃を受けます。

 

川瀬:音楽集団の一つであるラリベロッチは、一軒一軒家の前を回り、歌だけでパフォーマンスを繰り広げお金や物をもらったりしていますが、実は、ハンセン病とのつながりがあるとエチオピアの人々には考えられていて。彼らは、歌をやめるとハンセン病を患ってしまう、モノやお金がほしいから歌っているのではなく、ハンセン病を患うのが怖いから歌ってもらっているという伝説を一方的に付与されているんです。彼らはその伝説と共存しながら音を奏でそれを生業としているんです。

 

特定の文化に身を置いてフィールドワークをする場合、映像が一番良いと考えた川瀬さんは、文化を映像に記録して保存することで研究を進めます。これを映画にする映像人類学者である川瀬さんが、人種や文化が全く異なる彼らとともに生活を共にするうえで大切にしていることがあります。それを和讃で紹介し、講義を締めくくりました。

 

「一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」

 

川瀬:浄土の池に咲く蓮の花、それぞれの色が個別に存在するのではなくて、お互いの花の色を引き立たせ合いながら、無数の光を放ち世界を照らす。民族や文化は数多くあるけれど、そこに優劣があるわけではなく、全体を個として考える。壁を作るのではなく取り払い、違いや良さを認め合って世界を照らすということを研究を通して目指していきたい。

 

授業2:違いを想像する、連想する(ラッパー・環ROYさん)

お寺でのイベントということもあるのか、まだ少し緊張した面持ちの参加者たち。そんな空気を解き解すように登壇したのは2番手、ラッパー・音楽家の環ROYさん。身体を動かしながらラップで自己紹介を始め、独特の雰囲気を作り出します。彼の語りは、これまでなんとなく聞いてきたラップ音楽と、改めて出会わせてくれるものでした。

 

環ROY:「喋る」とは違うんです。歌には「メロディー」がありますが、ラップにはメロディーがなくて「リズム」にフォーカスを当ててます。世界にキリスト教を広めようとした白人たちと、アメリカ大陸に奴隷として連れてこられたアフリカ人たちが出会います。西洋音楽のハーモニーやメロディーに、リズムにフォーカスを当てたアフリカ音楽がここで一緒になるんです。そこからジャズやブルースが生まれていく中で、楽器はないけど音楽はしたい、表現がしたいという人たちの強い思いの中からラップは生まれたんだと思っています。 こうやって異文化が触れ合うことにより新しいものが生まれます。

 

環ROYさんが大切にする、違うものを理解しようとする姿勢と、世界中に存在する様々な「違い」への好奇心と想像力。それらをベースに「わけへだて」について説明します。

 

環ROY:世界中、違う言語を喋るじゃないですか?そうすると国が出てきて、じゃあ国ってなんだろうなってなる。言葉が違う、場所が違う、集団が違う、環境が違う、文化が違う。じゃあ文化に物語を与えているのはなんだろうって考えたときに、宗教なんじゃないかなって。仏教、キリスト教、イスラム教、いろんな宗教が存在してて。信じるものはそれぞれ違っていますよね。結束力を高めるために、時には抑制的な力も働いてしまうんです。

講義の最後、「生きていることは伝達すること」と環ROYさんは話しました。それは言葉ではなく、表情や反応、ダンスでも伝達することができると。それは、最後に披露されたラップを通じて、参加者の頭と心に染みわたっていきます。

 

環ROY:泣きました。この世界に涙とともに生まれてた。憶えないけれどいつからか声を操っていました。こんにちは、おとうさん、おかあさん。先生に少しずつ言葉を教わった結果、こんな風にたくさん伝えたり共有することができてます。言葉は記号の次の記号。比喩が結びついて意味になるもの。不完全で関係性がいつでも必要。世界そのもの、泣き声は整理され言葉に変わる。声は言葉となって意味を纏う。意味は時と場を僕らに与え、時と場と物語を紡いでる。

 

授業3:浄土真宗を学ぶ=自分を見つめる(僧侶・小池秀章さん)

 

最後の登壇者は、浄土真宗本願寺派僧侶の小池秀章さん。昨年まで22年間、中学校・高校の教員として宗教を教えていたバックグラウンドを持っています。小池先生からのレクチャーは、これまで自分の生徒たちに教えてきた宗教の授業のように、初めて浄土真宗に触れる人にもわかりやすい内容で、そもそも浄土真宗とは何か?お寺で手を合わせることって?という問いに応えるものでした。

 

小池:普通の人は、例えば高校・大学受験の合格祈願とか、お寺にお願いごとをしに手を合わせますよね。でも、そういうお願いごとを一切聞いてくれないのが、浄土真宗です。じゃあなんなんだ?逆にそういう自分勝手なお願いばかりしている私たちに正しい道を歩むようにと仏さまの方から私たちに願いをかけてくれている。仏さまの前で手を合わせるというのは、仏さまの教えを聞きながら自分自身の姿を見つめること。大学受験失敗したし、私の人生終わりだ…でも終わりじゃないんだよ、通ったら通ったときの人生があるし、思うようにならなかったらならなかったで開けてくる世界があるんだというのを教えてくれるのが浄土真宗です。

 

なるほど、お寺で手を合わせるという行為にはそういう教えがあったのか…そんな発見の空気が会場を包みます。そして小池さんは、“縁起”というのはもともと仏教用語で、本来は別の大切の意味が込められている、と続けます。

 

小池:縁起がいい縁起がわるいというのは仏教用語からきていますが、本来の縁起の意味は“縁って起こっている”ということです。縁というのは、いろんなつながり、つまりいろんな関係のなかで起こっている。色んなつながりがあって、今の私がいるんですよということ。

 

私たちはまず父親や母親がいて存在します。でも、私がここにいるのは、男と女がいるからだけではだめで、お父さんとお母さんじゃないと私じゃない。そしておじいさんとおばあさん、さらにはひいおじいさん、ひいおあばあさんがいて今の私がいる。この8人全員名前分かる人いますか?いませんよね…3代遡っただけで名前も分からず、自分の命の過去、命のつながりが見えなくなっている。10代遡ったら1024人、27代遡ったら日本の人口に近い1億3000万人。そのくらい多くの方々がいて、今の私がいる。そして今現在、いろんな方のお世話になっていて、いろんなつながりのなかで、今の私がいる。このことを仏教では縁起と言います。

 

最後に、浄土真宗ならではの“わけへだてと共感”の在り方について語る小池さん。

 

小池:ある法語があります。「憎い人など一人もいない 憎いと思う私がいるだけ。」「いい人悪い人 私の都合でいい悪い。」自分中心にいい人、悪い人、自分の好きな人、嫌いな人わけへだてをして、傷つけたり傷つけられてたりしているのが私たちの在り方であり、現実世界なんです。ではどうしたらいいのか?

 

(真宗でいう)お浄土というのは、それぞれが光り輝く世界であり、そのさとりの世界を聞かせてもらえれば聞かせてもらうほど、自分は日常生活で自己中心的にものごとを見て、命をわけへだてして傷つけ合ってしまっている、だからこそその世界を目指していいかないといけないなぁ、というのが浄土真宗に恵まれる生き方。自己中心的なあり方を悲しみとして受けとめられるかどうかであって、自己中心的なところから離れられるわけじゃないけど、人を傷つけてしまっている、申し訳ないなと気付いた時に違った世界がひらけてくる。だからこそ、私たちはお浄土という世界を目指すことが大切なんです。

 

「わけへだてはあって当然」から見えること

 

講師の登壇後には、「スクール・ナーランダ」をプロデュースしたエピファニーワークス代表の林口砂里さんとのトークセッションが行われました。川瀬さんや環ROYさんのように、日常生活にわけへだてや違いが起きていて当然である世界、そして、僧侶である小池さんのように、さとりに入った人から見えている「わけへだて」の世界、この二つの世界を知れたのではないかと林口さんは話します。そのわけへだてが当然としてあるなかで、生きていくための「軸」づくりのヒントを各講師の方がそれぞれの視点から語ります。

 

川瀬:僕自身は長い時間をかけて共にいたというのが重要。共鳴、共感とか、どうしても言葉のいい響きのものが異文化交流を語るうえで出てきがちなんですけど、それ以前に理解を目指しても超えられないギャップがあって。そのギャップを埋めるのを急がない、ギャップに“たたずむ”、ギャップを見つめる期間が必要です。完全に理解しようとしてもできない相容れない世界があるので、時間をかけてやっていくことが大事だと思います。

 

環ROY:川瀬さんの“ギャップにたたずむ”って、すごく詩的でいいなぁって思っていて。僕の場合は、言語や文化は一緒なんだけどギャップは感じていて。そのギャップにいて、たたずんで、でも諦めたりとか期待したりとかも別にしない…で起こったことを歌詞にして…まぁ、伝わったらラッキーって感じでいるようにしていますね。

 

小池:好き嫌いとか良い悪いとかがなく、みんなわけへだてないんだという風に見えるのが仏さまですが、私たちはなかなかそうはなれない。だからこそ仏さまから見た世界を私たちが聞かせていただくんですね。それは私たちとは違う世界にいる人たちのことを想像すること、相手のことを思いやるということですごく大事なことですが、本当にわけへだてなく共感できるのは仏さまであって、私たちにそれは不可能。不可能なんだけれども、不可能だと理解しながら共感しようと頑張るんじゃないかぁと思います。

 

ここへ来ただけで大きなステップ

 

仏教を含め様々な分野の考えに触れ、朝から晩まで濃密な学びの場となった「スクール・ナーランダ」。授業中は熱心にメモを取り、グループディスカッションでは様々な意見が飛び交っていた様子に、参加者たちの、ここで学んだことを一生懸命に吸収しようという熱気が静かに伝わってきます。そんな参加者を目の前に、今回、講師を務めた先生方に参加の感想を聞いてみました。

 

川瀬:10代~20代の人たちがここにこれだけ集うというのがすごい。若い世代の人たちが宗教に対して心身対峙している、向き合っているのが伝わってきました。今日学んだことは、すぐに言語化できないかもしれないけどここに来るだけですごいじゃんって思います。

 

環ROY:直ぐに結果を求められがちになってる時代に僕たちって生きてますよね。すぐに何かしたら何かリターンとか損得…そんな圧力が強い時代じゃないですか。でもそんな時代に宗教みたいなふわっとした、無駄がないのかよくわからないみたいなことに興味を示す人がこれだけ集まったというのはすごいと思います。

 

小池:今まで教えてきた中学・高校の生徒は聞きたくないのに座ってる層が多いのに比べて、ここ集まった人たちは、興味を持ってくれてるから来てるので、とても熱心だと思いましたし、しっかり聞いてくださるなと感じました。

 

そして主役はあくまでも“若者”。様々な分野の講師のお話を受け、若者はどう感じたのでしょうか?本イベントの企画・運営に関わった学生スタッフたちはこんな感想を寄せてくれました。

 

とても良い刺激になりました。たとえば、1日目にゲスト講師として参加いただいた森本千絵さんは、学生スタッフからの提案でお招きしたんですが、普段見ているCMだけでは分からなかったような、ご縁があって色んな人とつながってきた作品だったという裏側の話を聞けてよかったです。

 

次の時代を生きる若者たちがともに考え、作り上げていく「スクール・ナーランダ」。2日間にわたり、京都で開催された第一回目は大盛況のうちに終わりました!

 

次回は、富山・高岡市で「スクール・ナーランダvol.2富山」が開催されます(申込受付終了)。今後の動向が気になる方は「スクール・ナーランダ」公式 Facebookページをチェックしてみてくださいね。