ニューヨークを拠点に活動する女性アーティスト、「ココマスダ」を知っていますか?


第63回日経広告賞大賞を受賞した、伊藤忠商事の「ひとりの商人」シリーズの肖像画を描いた人物、というとピンとくる方もいるかもしれません。



最近では日本を飛び出して海外で活躍するアーティストやクリエイター、ビジネスパーソンも珍しくなくなりましたが、19歳のときに渡米してからずっとアメリカで活動しているココさんは、そのはしりともいえる存在です。



そんなアーティストとしての活動を続けてきたココさんですが、9.11テロを境に米国人の夫との断絶が生まれ、3年前には経営者だった父親の急死を受けて突然会社を引き継ぐことになり、アーティストとしてのキャリアをストップ。さらには米国で育ててきた子供とも離れ離れになる時期が多くなる状況が生まれました。



そんな中、どのようにして「自分の生き方」を貫いてきたのか、そしてたくさんの苦悩から生まれた「日米の架け橋」というあり方とは。「ココマスダ」の知られざる人生が初めて語られます。

岡山 史興
70Seeds編集長。「できごとのじぶんごと化」をミッションに、世の中のさまざまな「編集」に取り組んでいます。

「誰にも見える」人間を描いた国連のポスターと大統領選挙

‐ほぼ海外でのみ仕事をしているココさんですが、アメリカにはどんな経緯で渡ったんですか?

高校を卒業して芸大を受験したんですけど落ちてしまって。そしたら父が「女は浪人するもんじゃない」と、私をアメリカはバーモント州の大学付属の英語学校に送り込んだんです。

‐なかなかエッジの効いたお父さんですね。

元々子どもをインターナショナルに育てたいという意識があって、その2年前には兄も同じ大学に留学させていたんです。

兄はアメリカが合わなくて卒業したらすぐに日本に帰ってしまいましたけど、私は語学学校を終えた後、ニューヨークに移りました。

‐そこからアメリカでのキャリアがスタートしたわけですが、どんなお仕事をしてきたんですか?

パーソンズ・スクール・オブ・デザインを卒業以来、グラフィックデザイナー、そしてイラストレーターとしてキャリアを積んできました。

国連の国際女性会議のポスターデザインを2回やらせていただいて、今春には6年後に控える国際労働機関(ILO)の100年祭ポスターを手掛けました。

ちなみに、国連系の仕事って結構特殊なんですよ。

‐というと?

国連関係者には様々な人種がいるので、みんなに作品が気に入られないといけないんです。

国連に限らず、ニューヨークで仕事をする場合、日本では考えなくていいことも日常的に考えます。

たとえば、どこの国籍の人にも見えるような人物を描くことが多いとか。

‐いくつかの人種っぽい人を並べる、などではなくてですか?

そうですね、私はシンプルでパワフルな構図が好きなので、並べるよりも混ぜる方が多いです。

肌は褐色だと何人にも見える、髪の毛は茶色。仕事によっては、男にも女にも見えるようにしてくれ、という注文もあるんです。

‐確かに日本だとそこまで意識することはほとんどありませんね。「肌色」という概念があるくらいだし。

そう、そしてその多様性がある意味で明確に表れているのが、今度の大統領選なんです。

‐どういうことですか?

トランプ氏への支持に顕著なんですが、「白人が白人、クリスチャンがクリスチャンでありたい」空気が高まってついに表出してきているんです。

白人たちは、 現代社会で逆差別を受けてきた、自分たちのパワーが弱くなってきている、と感じているし「自分たちは我慢してきた」という意識を強く持っています。

‐過去、黒人の人権運動が高まった際に、大学の入学枠に人種の優遇措置を取り入れた「アファーマティブ・アクション」に反発が起きたようなものですか。

現在はさらに人種が多様化してさらに複雑化していますね。アイビーリーグもアジア系の学生が多数を占めるようになっています。

ハイスクールも、 程度の高い公立学校では生徒の過半数がアジア人です。

 

9.11テロが招いた元夫の変貌と「不寛容」

だから、アメリカにいると、どうして他の人種や宗教を否定しなければいけないんだろう、と思う事が多いですよ。「人は人」でいいのに、と。

‐意外です。自由と寛容の国、というイメージが強かったので。

ニューヨークなどの大都会においてですが、普段は人種や宗教に関して配慮ができるんです。余計なことには踏み込まない。

でも、自分の権利が脅かされることについてはとても敏感ですね。黒人と白人は今でも混じり合っていないのが事実です。

‐そうなんですね。

実は私は元夫と離婚をしているんですけど、その引き金になったのが9.11テロの時に元夫が過激な愛国者になってしまったことなんです。

大きな国旗を別荘に掲げ、それまで許せていたことも許せない人になってしまって、やめてほしいと感じたんですね。そこにずれが生まれてしまった。

‐例えばどんなことにずれを感じたんでしょうか。

当時「テロをする国」という目が向けられたアフガニスタンや中東の国々に対する敵意や不寛容ですね。

私にはそういった国々への愛もあるから、彼の発言や感覚との食い違いが埋められないものになってしまった。

‐テロの被害国としてはある種避けられない反応だったのかもしれない、ということはありませんか?

被害者というより、当時の彼や同じような感覚を持ったアメリカの人々は、「偉大なステイツがこんな目に遭うなんて許せない」という意識で連帯していたように思います。

それは、裏返すと小さな国を馬鹿にすることで、日本に対するまなざしもそうだと感じてしまったんですよね。

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‐それは確かに人生を共にする相手としては苦しいところがありますね。

アメリカでそんな機運が高まっているという話をしましたが、もちろんすべての人がそうであるわけではないです。

ただ、9.11テロのあと、WTCビル跡地に建てられた「フリーダムタワー」を「負けないアメリカ」の象徴として捉えている人たちが多いのも事実。

私は、アメリカンパワーの象徴ではなく、「みんなが仲良く」の象徴であってほしいと思っています。

 

父の急死と突然の会社経営

‐ココさんは昨年まで2年半ほど、アーティスト活動を休業していたそうですね。

はい。日本で貿易関係の会社を2社経営していた父が急死して、急遽その1社の経営を引き継ぐことになったので。 数本のイラストの仕事は引き受けましたが。

‐それまで経営の経験は…?

20代の後半から5年間、小さなデザインスタジオをやっていただけです。

‐よく引き受けましたね。

私も決意して帰国したわけではなかったんです。でも、会社に行って心配そうな社員の顔を見たら、思わず「大丈夫、心配しないで」と言っちゃったんです。

母は「フォレックス(社名)はパパの夢だったからつぶさないで」と言うし、娘も「It’s cool!」と後押ししてくれたので、決意できました。

‐初めてのことだらけで大変だったんじゃないですか?

その分野の業務は全くわかりませんでしたから。父の親友だったコンサルの方が、それこそ日本語メールの書き方から何から手取り足取り教えてくださいました。

(取引先である)フィリピンの大会社の社長向け接待のやり方なども教えてくださって、本当に感謝しています。部下であった若い所長からも色々学びました。

‐特に大変だったことや悔しい思いをしたことはありましたか?

金融庁とのやりとりが大変でした。最初のモニタリングで、先方が自分とは一切目を合わさないで男性の弁護士とだけ話したんです。

これがこの国の男尊女卑なのか、と驚きました。でも、頭にくることなく客観的に見ることができたのはある意味で部外者だったからだと思うんです 。

‐経営者として軌道に乗り始めるのにどれくらいかかりましたか?

1年も経った頃には、コンサルの方に相談せずに決断が下せるようになりました。知識はビジネス書を片っ端から読んで猛勉強して。

会社が見えてくると、スタッフが裏でズルしていることもだんだんわかってきました。

最初は気がついても経験の浅い引け目があって叱れなかったんですが、1年後には自信を持って言えるようになりました。

‐現在こうしてアーティストに復帰しましたが、会社はその後…。

昨年末、競合他社に売却する形で経営から離れることにしました。従業員の雇用を保証する形で引き取ってもらい、事業はそのまま続けてもらっています。

‐それは良かったですね。ちなみにアーティストとしてのそのキャリアを中断してしまった後悔はなかったんですか?

今でこそ少し後悔していますが(笑)当時はありませんでした。尊敬する父の夢を叶えたいという気持ちが大きかったですし、やらないでする後悔よりチャレンジの方を選んだ、というか。

2年半の間、6人の社員とその家族を養ったんだという自負はありますし、たくさんのことを学べました。

自分の夢を追って生きたい、でも自由奔放になれない、そんな性格だからこそ決意したのもあるんでしょうね。

 

ココ式子育て論-育ってきた環境が違うから、同じ物差しでは測れない

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‐今自身の育ちの話が出ましたが、日米を往復しながらの子育てはどんなものだったんでしょう。想像がつかないところが大きいです。

本当に大変でした。毎日バタバタでドロドロ。できるだけ早めに自立できる子どもに育ててきたつもりですが。

‐学校は日本人学校ではないですよね?

はい、できるだけ 人種が偏っていない学校を選んで進学させています。

すると、最初はマイノリティの友人が多かったんですが、今は白人の友人も多いし、分け隔てなく友人づきあいができるようになったようです。

‐日本の学校とアメリカの学校で大きく違うところってどんなことがあるんですか?

保守的な規則が少ないことと、「なぜ」を考えさせる、というのはあると思います。

たとえば、娘の高校では授業中でもスマホを出してもいいんです。

生徒達がどうせ隠して使うスマホを授業に役立てるという方針で、それで本も読むんです。

成績が下がったら、原因は何だと思う?と対話して、きちんと考えるようにします。

結果、成績は上がったし、娘も対話しているので納得するんです。日本だったら「規則だから」で済ませてしまいがちですよね。

‐それはわかりやすい違いですね。

あと、私が言う日本人的な価値観については、受け入れるときと受け入れないときがあります。

‐そういうときはどうするんですか?

「自分で考えて自分で決めて」というのが効果的です。「ママはこう考えるけど、あなたの人生だからあとはあなたが決めて」と言うと、「こうしなさい」と指示するより聞いてくれます。

‐なるほど、自立度が高い育ち方をしていますね。

親の言うことにただ従う子は親以上になれない、と読んだことがあって、なるほど、と思いましたし、時間はかかりましたが、娘には娘なりのやり方があるんだ、と思えるようになりました。

たとえば「姿勢よく勉強しなさい」「勉強するときは音楽かけるな」は絶対にやってくれないんですが、でも成績はいいので、結局そういうことは大して重要なことではなかったんだろう、とか(笑)。

‐ちなみに、お子さんは差別に遭ったりということはなかったんですか。

娘は娘なりに私よりたくさんの苦労をしていると思っています。ネットいじめ(cyber bullying)にも遭いましたし。でも、それも乗り越えた。

今はインスタを戦略的に使って自己ブランディングできるくらいに楽しんでますよ。

‐インスタの使い方は気になります(笑)。

例えば、投稿する内容ひとつとっても、「この投稿ではダウンタウン系の人からしか評価されない」「この投稿ならもっと広く見てもらえる」とか。

‐その若さにしてその感覚はすごいですね。

結局、自分と娘では育ってきた環境が全く違うから、同じ物差しでは測れないんですよね。

‐最後に、これからのことについて教えてください。

私の原点はやはりニューヨークだということが、日米を往復する生活の中ではっきりとわかってきたことは大きいと思っています。

アメリカと日本両方に故郷を持つ私だからこそできる「架け橋」になるべく種まきをしているところです。私の人生が誰かの役に立てばいいなと、そう思っています。

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