東京以外、ほぼすべての自治体が抱える「人口減少」という悩み。
あの手この手で歯止めをかけようとするも、その多くが失敗に終わっていく中、息の長い取り組みで着実に成果を上げているある自治体があります。それが北海道の東川町です。
国道、鉄道、上水道という3つの「道」がない同町。1985年に「写真の町」を宣言、2014年には「写真文化首都」を掲げた地域の魅力を伝える取り組みは、30年という歳月をかけ住民に浸透。毎年全国から500校以上が参加する高校生の写真コンテスト「写真甲子園」は今年、映画化されるほどになりました。
そんな取り組みが功を奏し、今では若年人口が増え続けている東川町。その成功の裏側に迫るべく、「地域×デザイン 2017」に登壇した松岡市郎町長にインタビューしました。
トップだけではやめられない仕組みづくり
‐40年ぶりに人口が8000人を超えた、ということでも話題になった東川町ですが、現在の具体的なプロジェクトとしてはどんなことに取り組んでいるんですか?
1つは「写真の町」プロジェクトのひとつでもある「写真甲子園」です。もうすぐ25回目を迎え、今年は映画化も予定されています。
もう1つは「家具の町」としての発信で、家具・インテリアのミュージアムをつくる予定です。全部で1350点くらいあるんですが、有名な方の作品と、合わせて地場の家具も展示していこうと。
‐地場の家具製造にはどんな特長があるんですか?
中村好文さんなど著名な方がデザインを務めて、地場の木材と技術で製造するんです。たとえば、「君の椅子」というプロジェクト。
子どもには居場所をつくることが重要だ、という思想でつくられたものなんですが、親が子どもにあげて、もらった子どもが親になったとき、さらにその子どもにあげられる、という。
親子三代にわたって使ってもらえるような「本物」の家具を提供していくっていうことをやっています。
‐「家具の町」、「写真の町」として打ち出すことになったのには、何かきっかけがあったんですか?
もともと東川町は、町として120年くらいの歴史があって、その中で家具は50年くらいの歴史を持っているんですが、家具業界全体が不景気でイメージをどう高めるかが重要になったんです。
そこで、さきほど挙げた「親から子に」という考え方を軸に、民間中心で商品開発が進められました。「写真の町」は30年ほど前に行政と民間で協力して始めたプロジェクトですね。
‐地方で始まる「町おこし」系の取り組みって、一過性のプロジェクトで終わってしまうことが多い印象ですが、30年、50年と続くのは珍しいですよね。
継続することで町の価値が向上しているからですね。特に「写真の町」に関しては、継続するしかない仕組みがあるんですよ。
‐仕組みですか?
はい。ただのスローガンではなく、「写真の町条例」として、公式に制定してしまっていることです。
私は制定されて3人目の町長ですが、トップの意志だけではやめられないようになっている。この、条例として制定したことは、先人のすごいところだと思っています。
‐条例が撤廃、改正されないということは、住民の支持も得ているということですもんね。
そうですね、しかも現在は行政からお願いして協力してもらっているというよりは、自然になっているというか。
住民の皆さんが家の周りに花を植えると、それが「写真映えする町」の一部になるだとか、生活のひとつひとつが自然と「写真の町」を形づくることにつながるようになっているんです。
「写真文化首都」で東京から人を引き出す
‐「写真の町」プロジェクトは行政の呼びかけで展開した活動ですが、職員の取り組み方はどうだったんですか?やらされ感があったりですとか。
すごくいい変化につながったんですよ。職員が内だけじゃなく外の人とも触れ合うようになってきたことで、町そのものが元気になる、ひとりひとりが意識を変えていかないと成り立たない状況になっていったんですね。外の人との出会いが進化させたというか。
(画像:写真甲子園の様子)
‐見てわかるほどの変わりようだったと。
昔は税金が入ってくる、補助金ももらえる、それでやっていればよかったけれど今はそうじゃありませんよね。
情報が早いから、自らの発想や民間の発想を取り入れてどんどんチャレンジできる。今回も事業構想大学院とつながったり、こうして取材も受けることになったわけです。
‐いい循環に…。
つながってます。東川町は定住人口を増やそうというよりも、滞在してくれる人を増やす、それがいいつながりになる、町の元気につながるという考え方で運営しているんです。
職員の知恵だけではできなかったものを、外の人と結びついてやろうと。「地元に住まないよそもの」の力があるからこそできたと思っていますね。
‐「移住者を増やす」「観光客を増やす」という二本柱に力点が置かれがちな中、新しい「よそもの」とのかかわり方ですね。
東京から人を連れてくる、というだけではなくって、私たちが言うのは「引き出す」という発想です。うちは「写真文化首都」を名乗っていますが、スポーツや絵などなんでもいいんです。
東京にない「町の強み」をつくって、制度をうまく使いながら人を引き出す。「東京でなくてもいい」と発信していくんです。ありとあらゆるものが東京になくてはいけないなんてことはないわけですから。
‐確かに、「写真甲子園」で、全国から東川町に高校生が集まるようになったわけですしね。
そういうことが地方にとって変わるいい機会になるんですよ。言い方はあれだけど東京から人を奪おうと。
危機感があれば町は変わる、変わらざるを得ないはず
もうひとつ、今東川町では日本語の専門学校に力を入れているんですよ。アジアの学生を中心に募集して、日本語を習得して日本の大学に行ったり、就職したりできるように。
‐へぇー!それは今何名ほどになっているんですか。
海外から来る学生で200名ほどですね。国は台湾、中国、韓国、インドネシア、ベトナムなどです。
‐そんなに!彼らの滞在はどうしているんですか?
もともとあった学生向けの寮を増設しました。短期で来る学生もいるので、全部で年間7万泊になります。なので、町中の経済活性化にも非常に貢献してくれているんですよ。
それに、現在はアジアや欧米などから来た職員も働いてくれていて、留学生の相談員や町のイベントの中心を担ってくれたりもしています。
‐そうすると、町の雰囲気もだいぶ変わりそうです。
これからは国際交流の時代、普段着のお付き合いができるように、交流して当たり前の雰囲気をつくっていかないといけないんです。
「写真の町」をやっている目的のひとつに、「世界に開かれた町」というテーマもあります。
‐聞けば聞くほど、「攻め」のまちづくりを展開している印象なんですが、職員や住民を巻き込むことができている理由ってどこにあるんでしょう?
自分たちの生活のために、危機感を持っていたということにつきますね。それこそ我々以上に持っていた。
私なんかはあと数年で引退する世代ですが、若い職員なんかはその後何十年も、東川の職員としてやっていくわけです。だからうちの職員はどこの職員より外に出ている、刺激を受けていると自信を持って言えますし、事実そうです。
‐他の自治体の方からしたら「どうやったらうちでもそういう風にやれるんだ!?」と聞かれそうです。
状況が厳しくなれば、危機感を持つと思うんですよ。持たざるを得ない。うちはたまたま合併問題があって、「合併しない」という決断をしたところから始まっています。
空港が近いとか水がいいとか、素晴らしい財産があって、それで生き残れなかったらどこが生き残るんだと。やる気は自分たちの問題です。
‐住民の方々も同じように危機感に動かされているんですか?
危機感は危機感でも少し色が違っていて、「写真の町」事業をやっていく中で、人がいなくては成り立たないというのが大きいです。
ホスピタリティを持つ、来た人と融和する、という考え方が浸透していった。そして自発的に動いていただけるようになったんです。
‐簡単に聞こえますが、これも30年の継続あってこそですよね…。これからはどんなことに力を入れていくんですか?
とにかく、日本語学校をしっかりやっていくことと、映画を成功させることです。ここからはあれこれ広げるより、これまでの取り組みを省みながらどう発展させていくか。
直すところは直し、活かすところは活かし、「写真の町」事業をもっと発展させていきたいですね。
東川町の持つ3つの資産、「写真文化」「大雪山文化」「家具デザイン文化」。これに日本語文化を掛け合わせてどう価値を高めていくか、財源の問題もあるし、職員の数も限られていますからね。
東川町公式ホームページ
https://town.higashikawa.hokkaido.jp/
公式Facebookページ
https://www.facebook.com/higashikawa.hokkaido