「ものづくりの国」として、国内外から高い評価を受けてきた日本。
ですが、数多くの大手メーカーが生産拠点を人件費の安い外国へ移すことによって、数多くの「ものづくり」企業が姿を消してしまうなど、近年の状況は必ずしもそんな高い評価の通りとは限りません。
そんな逆風の中、実直な「ものづくり」を続けてきたとある企業があります。それがスラックス製造シェア日本一のエミネントスラックス。
人口およそ2万人強の長崎県松浦市に工場を構える同社には現在、同市人口の約1%におよぶ200名あまりの従業員が勤務しています。「超ローカル」な町工場から、国内の様々な百貨店で取り扱われ、品質も生産量も国内No.1と言われるスラックスが生み出されているのです。
スラックス1本をつくるための工程は123。1枚の生地から始まり、2階建ての工場を隅から隅まで移動していく様子は、さながらスラックスが旅をしているよう。
『HOPE for PEACE』展でのオリジナル製品出展から70seedsとの縁が生まれた同社。どうして日本西端の街で、世界に通用する技術が培われてきたのか、工場で展開される人間関係からものづくりの未来まで、地域と二人三脚で世界に挑む地元密着企業の知られざる成長の裏側を伺いました。
「パンツを穿かん男はおらん」元・炭鉱の町が育てたスラックス
‐そもそもなぜ、松浦でスラックス工場を創業することになったんですか。
前田:元々松浦は炭鉱の町だったんです。でも、43年ほど前に炭鉱が閉山してしまって、みんな働く場所がなくなってしまったんですよね。それで次の産業を探さなくては、と。
‐炭鉱とスラックスはだいぶ離れたイメージですが。
前田:炭鉱で働いていた人たちは、ほとんどが男性だったんですよ。
その男性たちが炭鉱の閉山でいなくなってしまった。一方で、スラックスのようなアパレルの工場で働く人はほとんど女性なんですね。
女性が働くところがあれば、男性も戻ってこれるだろう、というのが当時の創業者の考えでした。
‐なるほど、発想の切り口がユニークですね。
前田:あとは、「パンツを穿かん男はおらん」とも言ってましたね(笑)。
そんなことを構想していたとき、大阪にあった紡績工場が松浦に移転してくることになったんです。そこで元々小学校だった土地を使って立ち上げたのが、創業の経緯です。
‐現在も、実際に働いている方は地元の女性が多いんですか?
鶴:そうですね。親子や嫁姑とかで働いてくれていますよ。松浦市の人口が約24,000人なんですけど、うちの社員が220人、そのうち8割くらいが女性です。
‐すると松浦市の人口の…
鶴:1%くらい。隣の平戸市から働きに来ている人もいます。
‐まさに地域密着企業ですね。地域社会とのつながりが強いことは働く人にとってもいいことなんですか?
鶴:はい、やっぱり子育てしながら働くことだったり、女性が助け合いやすい環境があることはとてもいいところだと思っています。
私も入社して37、8年になりますが、青春時代から子育てまで会社とともに過ごしてきましたね。
松浦の街で暮らすことについても、仕事上の技術なんかにしても、経験者が周りにたくさんいて教えられるのは、松浦の街で成長してきたからだからこそじゃないかなと思います。
前田:エミネントは地元の企業誘致の第一号でもあって、市長も何かあるとエミネントを絡めてくれるんです。
それはとてもありがたいことで、常に「自分は育ててもらっている」という意識がありますね。社員からも、地域社会からも。
「仲間」の力が世界レベルの縫製工場を生んだ
‐地域と育ってきた40年の歴史にも、苦労はあったんじゃないかと思います。
前田:苦労ばっかりですよ(笑)。一番は雇用の面ですね。国内の人件費が上がって製造拠点がどんどん中国に移されていった時期は特に厳しかった。
うちの親会社も生産基地を中国に移すことになって、隣町の田平(現長崎県平戸市)にあった工場を閉鎖しなくてはいけなくなってしまったんです。
‐苦しい決断ですね。
前田:最大で740人くらい働いていたのが、現在は200名あまりですからね。
そういう合理化の印象もあって、不安定なイメージを親御さん世代に持たれてしまい、お子さんの就職を引き止める、ということもありました。
‐生々しい話ですね…。
鶴:その頃に従業員も減って。それでも一緒にやってきた仲間はとても大切な存在ですね。
当然、はやりすたりはあるし、現在も地元に残る子は決して多くはないですから。
でも、一度地元を出てこそ改めて気付く良さもありますよね。
前田:発注が減ってしまったときなんかは、工場の生産調整もありましたが、それでもみんなで踏ん張ってきたからこそ、今の技術があると思っています。
‐一緒に苦難を乗り越えたからこそ絆を深めていくことができたんですね。
前田:鶴さんは特にいろいろあったでしょ。
鶴:そうですね…。
‐どんなことがあったんですか?
鶴:チーフになって初めての年だったんですけど、家が空き巣被害にあって。給料袋ごとお金が盗られてしまったんです。
しかもそのとき家族を疑ってしまって大喧嘩に。結局外部犯だったんですけどね。
‐それはきつい…。
鶴:それで、次の日に会社で「泥棒に入られて生活できんばい」と話していたら、翌日にグループの人たちがお金を出し合って助けてくれたんです。
‐なんと!
鶴:リーダーとしての在り方に悩んでいて、どうやったらみんなが溶け込んでくれるか、ついてきてくれるかと、もがいていた頃だったので、本当に嬉しくて。
その時のことを絶対に忘れない、という気持ちで今もずっと働いています。みんなに恩返しをしていきたい、という思いです。
‐とてもいいお話ですね。
鶴:それに、やっぱりそういう気持ちが生産本数にも影響してくるんですよ。人間としての温かい気持ち。
私は今度は自分が手を差し伸べられる人間でありたいし、上司としてではなく、仲間としてやっていきたいですね。難しくはありますけどね。
前田:いいリーダーでしょ(笑)。
鶴:社長がいいからついていっているんですよ(笑)。親身になって話も聞いてくれるし、みんな社長に冗談も言えるような間柄です。
地域同士のつながりがものづくりの未来を左右する
‐最近アパレルの生産拠点がまた日本に回帰していると言われますが、様々な要因に振り回されるものづくりの将来をどう考えていますか。
前田:製造業の中でも、海外に振れるのが早かったのが繊維業界だったんです。
そんな中で日本で続けてきた企業は、技術レベルが上がっていると思います。うちも地元に密着してきたので、技術が安定していることが強みになっていますね。
‐ちなみに、エミネントの製品だと特にどんなところに技術力が現れていますか。
前田:例えば、スラックスには前ファスナーがありますよね?
‐はい。
前田:通常はまっすぐつくられているイメージだと思うんですが、うちでは微妙なカーブを描くことでよりスムーズに開閉ができるようにしているんです。すべてオリジナルですよ。
‐技術もそうですが、そもそもの着眼点が研究しつくされたならではですね。
前田:とにかく穿く人のことを考える、というのがポリシーですからね。
‐今回『HOPE for PEACE』展にはスラックスをアレンジしたバッグを出展していましたが、今後は自社製品を中心に展開していくんですか?
前田:現在は生産の6割が自社製品、4割が受託製造となっています。両方やるという方針はこれからも変わりません。
生産力はあるので、あとはどう営業していくかが課題ですね。
一社では売っていく力がまだ弱いので、いろんなブランドと手を結ぶ。
西の平戸市にジャケットをつくる工場、南の佐々町にシャツ工場があるので、地域の工場同士が近づいてコーディネートするようなことができれば、など考えています。
‐面白い構想ですね!そもそも長崎県北地域にアパレルの製造業がそんなに集まっていることも知りませんでした。
前田:あとは、最近、商流がオーダーに寄ってきているので、そこにどう対応していくかも課題です。
鶴:うちは大量につくる方が得意だけど、オーダーの工程ラインも持ってはいるので、そこは伸ばしていきたいですね。
前田:オーダーでいうと、新しい企業さんとの取り組みにも力を入れ始めてますよ。ファクトリエさんとは昨年からやっています。
爆発的に売れるわけではないですが、ストーリーを持って買ってくれるお客様に届くのがありがたいですね。
‐今後も、やはり地域に根差して成長していくんでしょうね。
前田:松浦にはサイドエアバッグの会社や鉄鋼の会社、石炭の火力発電所など、技術のある企業がいくつもあります。
この規模の街だからこそ、お互い刺激になり支え合えているのは間違いないですね。
鶴:その上で、市場に適したやり方で、どんどん変えてやっていかないといけないと思ってます。
これだけの技術を地域の各社がみんな持っているのはすごいこと。みすみすなくすわけにはいかないですよね。
前田:今やらないと。