今から70年前、広島・長崎に投下された原子爆弾。日本では、被爆者をはじめとした「投下された側」の立場から触れることが多いこの出来事ですが、「投下した側」の現在について知る機会はなかなかありません。

 

今回、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」、そして長崎に投下したB29「ボックス・カー」の両方に搭乗した乗組員ジェイコブ・ビーザーの孫で映像作家のアリ・ビーザーさんに寄稿をいただきました。彼は現在、日本に滞在し被爆者との交流を通じた情報発信に取り組んでいます。

 

「投下した側」の家系として育った彼が何を見てきたのか、なぜ今、被爆者を対象とした研究を進めているのか。そのヒストリーについて語っていただきました。

 

※本記事はアリさんがレポートする「ナショナル・ジオグラフィック」との連動企画です。

アリさんによる70seedsについての記事はこちら

 

 


 

 

原子爆弾「投下」の両側に生まれて

 

原子爆弾に関して3年間調査した後も、その作業の終わりが全く見えませんでした。内容があまりに重く、また私の仕事がとても重要なものだったので、自分が執筆したものでは原子爆弾からの生存者が報われないのではと感じていました。

 

私は日本を3度訪れました。2011年に3ヶ月、2012年に1ヶ月滞在しました。2013年には3ヶ月滞在し、世界一周をするピースボートの中で「折り鶴プロジェクト」と共に被爆者の声を世界中に届けました。

 

私の祖父はジェイコブ=ビーザーといいます。彼は広島と長崎に原子爆弾を投下した飛行機、その両方に搭乗していた世界で唯一の男です。

 

私は不思議な巡り合わせで、「原子爆弾を投下した側」「原子爆弾を投下された側」の双方と繋がりを持っています。私のもう一人の祖父エアロン=コーヘンは、広島の被爆者と友人で、私は幼い頃にその女性と会ったことがあります。

 

私は彼女の話を聞くために再び日本を訪れました。彼女の家族は私のことを友人だと認めてくれましたが、原子爆弾投下の真実を理解するためには、他の被爆者の話も聞かなければならないと言いました。

 

しかし、2013年の終わり、私は自ら始めた仕事を終らせる前に燃え尽きてしまいました。

 

 

ルワンダでつながった「被爆」のストーリー

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私は一旦仕事から離れ、1年間休養することを決めました。

 

そして、ルワンダにある「アガホゾ・シャロム・ユース村」の奨学金プログラムに申し込みました。ルワンダは日本とそう変わりないだろうと考えていました。その休養は、仕事を再び良い状態で始めるために必要で、それには原子爆弾の話題から離れる必要がありました。

 

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アガホゾ・シャロム・ユース村は、ホロコーストの後にイスラエルで造られた施設を参考にし、ルワンダのジェノサイド後にできたものです。ルワンダの子供たちのための「家」として造られ、学校や住居、メディアセンター、アートセンターも備えていました。アガホゾは現地の言葉で「涙の乾いた場所」、シャロムはヘブライ語で「平和」を意味します。私はそこの生徒に放課後のプログラムとして動画を教えることを頼まれました。

 

(ディディエルのMV) https://www.youtube.com/watch?v=0ysqcFMXMNk

 

 

 

私はルワンダにおいてデジタルストーリーテリングのために、新たな経験とスキルを身につけただけではありませんでした。1年の終盤に、それは思いもよらぬ形で原子爆弾の話につながったのです。

 

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キガリに居た時に、シュンスケというJICAに所属する青年と出会いました。レストランで日本語が聞こえた時は「こんな東アフリカのどまんなかで日本語を話しているのは誰だ!」と驚きました。当時の私はJICAについて何も知らなかったのです。何よりも私を驚かせたのは、シュンスケが広島育ちだったことです。彼は広島と長崎の「ピースウィーク」の主催者でした。キガリのピース・スタジアムに大きなテントが張られました。ルワンダ虐殺の生存者は直接、広島の被爆者はSkypeを通して集まった聴衆に向かって話しました。

 

祖父が乗った「エノラ・ゲイ」が引き寄せた縁

 

私が帰る頃には、「The Nuclear Family」の執筆を終わらせる準備ができていました。そして、日本でデジタルストーリーを作る予定でした。私はフルブライトとナショナル・ジオグラフィックが提供するデジタルストーリーテリングを制作するための助成金を得ることができました。

 

日本へ発つ数週間前に、広島平和記念資料館から連絡がありました。私は仕事の一部として、2013年の来日の際に資料館でのインターンシップに参加していたのです。彼らはアメリカの大学で展示会をするためにワシントンDCを訪れていました。

 

私はそこへとても近いところに住んでいたので、会いたいといってくれました。私はただ友人に会いに行くだけだと思っていましたが、彼らは被爆者が証言をするために同行していると言いました。被爆者の方は、ダレス国際空港に隣接しているスミソニアン国立航空宇宙博物館に展示されている、「エノラ・ゲイ」を見たいと言いました。エノラ・ゲイは広島に原子爆弾を投下した航空機です。私は同行してもよいのかと訪ねました、祖父が搭乗していた航空機を見たことがなかったのです。

 

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彼らが到着した時にあることに気付きました。彼はなんと、ルワンダで原子爆弾の話を聞かせてくれた被爆者の方だったのです。彼は資料館を訪れる人の中で、もっともこの場所に必要とされる人です。この運命的な出会いが、私が自分の仕事(原子爆弾の話を伝えること)を再び始めることについて、最後に背中を押してくれたのです。