72年前の8月広島で起きた、大きすぎる衝撃とともに語られる「あの日」。
でも、被害にあった人々の「その後」に目が向けられることはあまりありません。
実は今と変わらない「日常」を、有名な戦争写真のモデルになったおばあさんの語りとともに描く連載の第12回をお送りします。今回は、前々回から続く河内さんの実の兄の物語から、敗戦の色が濃くなっていく日本での食糧物資調達に関する物語を紹介します。
※前回の話はコチラ→【連載⑪】戦争の記憶図書館―目の見えない綺麗な男
※最初から読みたい方はコチラ→ 【連載①】戦争の記憶図書館-プロローグ
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【登場人物】
私:しの
河内:河内光子さん
恵:しのの祖母
坂本:広島ピースボランティアさん
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かぼちゃ泥棒とおばあさん
「行け!」
夜になると小隊長が言うんです。
「どこ行くん」
「かぼちゃ盗みに行くんよ」
そうせんと隊に戻してくれんけえ。
敗戦の色が濃くなっていく日本。戦地への食糧物資の輸送の多くは途絶えていました。
恵:あの頃は現地調達じゃからね。
広島に原爆が落ちた頃、河内さんのお兄さんは高知県へ配属されていました。本土決戦が近づいていた当時の日本では、上陸してくるアメリカ軍を水際で食い止める作戦も国内の各所で展開されていて、お兄さんもまたその作戦を充てがわれた一人でした。昼間は穴を掘って、いざという時はその中へ爆弾と一緒に隠れ上陸してきたアメリカ兵の戦車が穴の上に来たらそのスイッチを押すのです。
川内:自分の体も吹き飛ぶけど、その爆発で敵の戦車をやっつけるんです。
幼稚なことよね。と付け加える河内さん。しかし当時の日本はこれを本気で行なっていたのでした。
そして夜、兵隊は泥棒になります。民家の畑などに入って作物を取って帰ることも命令でした。かぼちゃ一つ持って帰れないと上官に殴られるのです。
「ほいでもすぐ捕まった。おばさんに。ほいたら顔見て
「あんたはこういうことをする子じゃないんじゃ」
いうて連れて帰ってご飯を食べさしてくれたって。
嬉しかった!!!!!!
泣く泣く食べたいうて。」
お兄さんもつらかったのでしょう、同じ日本人同士が奪い合いをするのですから。故郷で時分の帰りを待っている母親の顔も重なったに違いありません。おばさんはその姿を見て言います。
「あんたはええ子みたいなけえ。広島へ新型爆弾が落ちたいうて聞かされたけえ帰りたい言いよるが、もし家族が死んどっちゃったら戻ってこい。あんたに似合うような娘がうちにおるけえ、婿にするけえ。」言うちゃったいうて。
物もない時代にシャツやなんかいっぱいくれとっちゃって、それを着て帰ってきたん。でも結局行かなかって、結婚してから兄嫁連れてお礼に行ったそうな。お兄さんが広島に帰って何年経ったのか、おばさんは健在でした。久しぶりに見る優しい兵隊との再開をおばさんは心から喜びました。
「あんた律儀な。うちの娘も年頃じゃけえ婿もろうたけえ堪えてくれ」
おばさんの娘もすでに既婚の身となっていました。
「いや、私の方こそ助けてもらって」
お兄さんは彼のできる限りの”しっかりお礼”をしてきたと言っていました。
石炭箱の上の暴力
河内さんのお兄さんは歌が好きでした。休みの日には、移り住んだ先の大阪の港町の石炭箱の上に立って歌を歌うのです。手をあげて蘇州夜曲歌っては集まった人たちを喜ばせていました。
川内:この日も手を叩いて「上手いどー!」ってやりだしたんです。でもある沖流し(大阪港に船が着いたら板を渡して荷物を向こう岸に運ぶ人)しよった人がだっとる(だれとる)いうて。それがそこの班長じゃったらしい。
みんなが兄の歌に喜んで「やれー!」って手を叩いていうけえ、もう一曲歌おう思うた時にいきなりその人が石炭箱を蹴飛ばして殴って蹴って、そこで兄は気絶したんですと。バケツの水をかけられて目がさめると「おう、死なんかったのう」いうようなことがあってね。
わしはもう一生忘れんって、大阪に探しに行ったけど結局見つからんかったですよ。
「おったら警察に言おう思うたんじゃ」
兄は喧嘩に弱かったから。うちの主人みたいなんじゃったらまた違ったんでしょうがね。
今生きとったら90近くになります。
兄の死
お兄さんの最後を聞きました。
河内:土佐の高知から帰ってきて、暇さえあれば焼け跡を掘り返してましたから。それで残留放射能をもらったんでしょう。白血病で死にました。
焼け跡には原爆が落ちた後も残留放射能が多く残っていたためにその日直接被曝しなくても、その後焼け跡に帰ってきた人や家族を探しにきた人が多く被曝し、原爆症に苦しめられました。
河内:死ぬるぐらい惜しいことはないですね。
弟は焼かれてる?
弟の安否を気遣って探している時でした。目撃情報を頼りに焼け跡に戻ると積み重ねられた死体の山から火が立ち上っています。
弟は、と尋ねると
「今焼きよる」
言われました。
「死んだんですか」
恐々と尋ねるとそっけない一言が帰ってきました。
「そりゃそうよ」
悲嘆にくれたひと時を過ごしましたが、それはなんと人違いだったのです。しばらくして生きている弟と再会を果たしました。
顔もわからなくなった遺体が無数にある中、そのような見間違いは少なくなかったと言います。
→続く【第13回】71年間の傷跡
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