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新聞好きの「カンちゃん」、記者になる【特別寄稿】 被爆者の人生と出会う③

原爆の被害に遭った被爆者を「人生」の視点で紹介する、「the pigeon voices」との連動企画。
最終回となる今回は、8月9日に合わせ、長崎で被爆者となった吉田一人さんの「人生」を掲載します。

吉田一人さんは長崎県雲仙市(旧小浜町)出身。大学進学を機に上京してからは東京で暮らしてきました。40年にわたって通信社の記者として活躍し、奥様と共に息子三人を立派に育て上げ、二人の孫にも恵まれています。

一方被爆者として、核兵器廃絶の運動や被爆体験を証言するなどの活動を50年以上にわたり続けてきました。

吉田さんのこれまで歩んできた人生、半世紀も積極的に被爆者の活動をしてきたパワーはどこから来るのか、奥様も交えてお聞きしました。

 

新聞記事を切り抜き、箱に放り込むのが習慣

 

―吉田さんの被爆体験が綴られた『カンちゃんの夏休み』*を読みました。 中学生のカンちゃん(吉田さんの愛称)の姿を思わず想像してしまう、とても素敵な本ですね。

 

吉田 編集者・ライターをやっている長男がつくってくれました。私の体験を、子どもたちにも読めるように短くまとめてくれたんです。新聞やラジオで取り上げられたので反響もあって、好評でした。

 

―親子二人でおつくりになった本だと思いました。吉田さんご自身も、ニュース配信をする通信社で記者をしていたそうですが。

 

吉田 労働組合や平和団体の機関紙が共同してつくった機関紙連合通信社という小さな通信社で仕事をしていました。60歳まで、40年間ほど勤めました。

 

―連載コラム「順風逆風」を23年にわたり担当していたとか。連載ペースは週一回!ネタに困ったことはなかったですか?

 

吉田 社に図書室がないのでコラムの資料も自分で集めました。辞書類、資料集を中心に、文庫本などなるべく手ごろなものを。テーマとネタは、新聞からや仲間との雑談などから浮かび上がってくる。「お、それ面白れぇ」「これ、いけるかも」っていう感度が大切。そして、新聞記事の切り抜きを箱に放り込んでおいて、それをかき回すとネタが出てきます。

 

―ネタの種の入った宝箱ですね。

 

吉田 切り抜きは大ざっぱなテーマ別に袋に入れておきますが、あまり細かいテーマにすると、かえって探し難くなったりします。

 

―被爆体験を証言する際、原爆の爆発した高さをスカイツリーの高さで例えて示しているそうですが、アイディアはご自分で?

 

吉田 原爆の爆発高度は広島が約580m、長崎が503mといわれているけれど、空を見上げても見当がつかなかった。それが、スカイツリーが登場したとき「あ、これで見える!」って、スカイツリーの写真に爆発高度を書き込んだパネルをつくったの。展望回廊が高度450m、その上のゲイン塔(アンテナ塔)付け根あたりが長崎の爆発高度、真ん中あたりが広島。こうして見ると、低いね。

*吉田みちお著、2005年刊。人づてに広がったり、吉田さんが証言をする際に配布したりするなど、現在までに約5千部が配布された。

 

新聞好きの少年、東京で就職

 

 

 

―新聞が大好きで、現在も5紙ほど読んでるとか。

 

吉田 新聞にはなぜか子どものころから関心があって、小学校1、2年のときから毎日小学生新聞を購読してた。そのころ小学1、2年生で新聞をとってた子どもは小浜では僕だけだったと思う。

 

―どんな記事に興味が?

 

吉田 人気作家・海野十三の空想科学小説「火星兵団」を連載していたんだけど、低学年の僕には難しかったな。戦況も結構報道していたので、よく読んでいた。

吉田夫人 海野十三は売れっ子だったわね。

 

―大学で上京して、その後通信社に?

 

吉田 夜間の法学部に入学したんだけど、そのうち退学しちゃって。連合通信社で印刷や配達をするアルバイトしていたから、そのまま勤められるなら良いんじゃないかと思って。

 

―せっかく入学したのに。でも、幼いころから新聞に憧れていたようですから、良かったですね。

 

吉田 通信社っていうのは新聞はつくらないの。でもまあ新聞関係だから、そのうち新聞に手がかりができるかもしれないという微かな望みと、興味もあったから。

 

戦争と大火で実家の商売は廃業、ふるさとへの思い

 

 

 

―上京して60年以上が経ちますが、小浜に帰ろうと思ったことはなかったですか?

 

吉田 東京に来たときには大学卒業したら帰るつもりだったよ。でも、仕事を始めてからは帰ろうと思ったことはあまりないな。

 

―家業は? 

 

吉田 父は、小浜温泉*の繁華街でお菓子屋をやってたのね。それが終戦の前年ごろ、カステラを焼く鉄板、煎餅焼きの鉄製器具などは軍艦や兵器の材料として全部供出させられたわけ。お菓子屋ができなくなってからは、小さな八百屋を始めた。父は慣れない仕事を一所懸命やったけど、あれで食えてたのかな(笑)

 

―戦争で生業が立ち行かなくなったのですか。お菓子屋はいつ再開したんですか?

 

吉田 お菓子屋を再開する前、終戦の翌々年に小浜温泉の繁華街は大火事になって焼けちゃって、中心街は別のところに移ってしまうの。今でも帰ると、そのときの傷跡がまだ回復してないって思う。だから、たまに帰省すると正直言ってさびしくなるね。もちろん懐かしくもあるけど。

 

―家業が残ってたら、小浜へ帰ってお菓子屋さんになっていたかもしれませんか?

 

吉田 それはなかったでしょうね(笑)おやじがお菓子屋になれとは一切言わなかった。

*小浜の温泉。雲仙国立公園の西麓に位置し、橘湾に臨む風光明媚な温泉地。高温で湯量が豊富な温泉で、古くは1600年代から湯治場として親しまれてきた。

 

吉田さんの被爆体験を、家族はどう受け止めたのか

 

―話は戻りますが、『カンちゃんの夏休み』をつくる前にご自身の被爆体験を息子さんに話さなかったのは何故ですか?

 

吉田 ぼくが被爆者であるってことは子どもたちが幼いころから話しているし、隠すってことは全くないわけ。まとめて話す機会がなかっただけで、話そうとは思ってた。

吉田夫人 子どもたちが幼いころ漫画『はだしのゲン』が大ヒットして、三男は夢中で読んでました。ゲンの服装を真似したいって、同じ服を買ってくれとか、ゲンに入れ込んで。そういう意味でも、原爆についての知識はゲンを通して子どもなりに持ったんじゃないかと思う。

 

―吉田さんが被爆者だということはご家族の中では自然に受け止めていったということでしょうか。

 

吉田夫人 家族に何か原爆による影響があっても必ず乗り越えて行かれるっていう、まったく意味のない自信があったの。夫と一緒にいれば大丈夫っていう、変な楽観的な気持ちで。それと、三人の息子を育てるっていうのは大変な騒ぎだったんで、原爆による不幸に立ち向かうとかそういうことじゃなくて過ごしてきたんです。

 

―息子さんが、いわば吉田さんの継承者、被爆二世として活動されていますね。

 

吉田 長男は、東京の被爆二世の会*の事務局長として実務の中心になっているようだし、よくやってくれてるなと感謝しています。

*2013年に結成された「おりづるの子」。

 

被爆者の役に立とう、若くて元気な自分がやると決意

 

―公私ともに、まさに人生をかけて原爆や被爆、平和の問題に向き合ってきて、苦しくはないですか?

 

吉田 苦しいことはない。1957年に原爆医療法ができて「被爆者」の範囲が定められるんだけど、それまで、原爆の翌日には長崎市を出たし大した怪我もしてないから、自分が被爆者だという意識はなかった。ただ、被爆直前の長崎駅での出来事への負い目、罪意識があって。その償い、思いが、これまで被爆者として生きてきた支えというか、杖というか(笑)

 

―負い目があったから、一所懸命被爆者を支え、原爆の被害に対して国に責任を果たすことを求める活動してきたのでしょうか?

 

吉田 私が被爆者手帳をとったのは26歳。被爆者運動の中心は40、50歳代。被爆者になったからには、被爆者のために役に立ちたい、若くて元気だから、やるっきゃないと思ったの(笑)その思いは今まで変わらない。

 

―吉田さん自身も被爆者でありながら、被爆者の役に立ちたいと?

 

吉田 被爆者って何か、広島・長崎の原爆被害ってなんだろうって、ずっと考えている。まだ自分が被爆者になりきれたっていう自信はないんだよね。もちろん、被爆者手帳を持っているから「被爆者」なんだけど、死ぬまで、被爆者になる過程だね。たぶん死ぬまでに、被爆者になりきれましたっていう自信なんか出てこないと思う。

 

 

【吉田さんの被爆体験証言はこちらから】

the pigeon voices   被爆者ひとりひとりの人生と出会う。
01【side:証言】吉田一人〈よしだ・かずと〉さん(83歳)

http://thepigeonvoices.tumblr.com/post/114809583520/01side証言吉田一人よしだかずとさん83歳

 

2015年3月8日

聞き手;渡辺、岡山、斉藤

文;渡辺

写真;福本