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「農家を出て海外学生と過ごした青春時代」 【特別寄稿】 被爆者の人生と出会う①

広島・長崎の原爆投下日に合わせた、「被爆者の人生と出会う」をテーマにしたブログ「the pigeon voices」との連動記事を展開します。

第1回は広島で被爆した井上さんの「人生」を紹介します。

 

井上惣左衛門さんは、孫やひ孫6人のおじいちゃんです。趣味は水彩画やゴルフ。お話していると好奇心旺盛な目がキラリと輝くのが印象的です。

18歳まで新潟県佐渡ヶ島に生まれ育ち、20歳で被爆したときは熊本市の旧制第五高等学校(五高)の学生でした。65歳を過ぎて被爆者手帳を取得し、以降、体験を語り継いでいます。

 

自らの強い希望で五高に進学した井上さんですが、ときは戦時中。時勢に呑まれず自分の道を模索し進んでいくというのは、当時としては特別なことでした。

井上さんが被爆という生涯のトラウマを背負った時期でもあり、一方で成長と充実を感じた大変思い入れのある時間だという学生時代のことを伺いました。

 

 

原爆、核の問題は誰でも知る必要がある

 

―間もなく90歳ですね。いろいろな死をみてきたと思いますが、自分の死を想像すると怖いですか?

 

井上 恐ろしいか?そりゃ恐ろしいけど、恐れるばかりじゃないよ。生きていく上でしなきゃならんことが毎日のようにあるから、そういったことに一所懸命対応する。たとえば今日、あなたが私にこうしてアプローチするとは夢にも思わなかった(笑)

 

―核の問題だけは語り残したいとおっしゃっていましたが、被爆体験をお孫さんにも話しましたか?

 

井上    広島で放射線をあびたというのが、僕の一番のトラウマになっていることは間違いない。その体験は全部話してある。それに、証言集『杉並のヒロシマ・ナガサキ』の中の私が書いた「ヒロシマ」っていう部分をコピーして渡してある。「おじいちゃん、こんなことがあったんだ~」なんて言ってるよ。同じコピーは佐渡ヶ島の家の隣近所にも配ってあって。

 

―ご実家の隣近所にもですか。

 

井上    僕は一杯飲みながらはっきり言うからね。みんなびっくりして聞いているよ。だからと言って、佐渡ヶ島の人間に核兵器廃絶なんて言ってもね(笑)でも、知らないよりは知ってた方が良い、知っておく必要があると思って話しているのです。

 

 

バックグラウンド:自由な気風の家に育つ

 

―気になっていたんですが、立派なお名前ですよね。「惣左衛門」というのは家に代々受け継がれてきた名前でしょう?

 

井上    そう(笑)僕は地主の一人息子で、祖父も惣左衛門。母の兄も惣左衛門で、広島の高等師範学校へ進学してすぐに病死したの。そこで急きょ、末娘の私の母が婿を迎えて家を継ぎ、私が生まれ、当然名前は惣左衛門。父の名は英一といい、音楽の教師でした。

 

―地主というのは具体的にはどんな仕事を?

 

井上    小作人に土地を貸して、米を作ってもらい、年末には年貢米を納めてもらう。祖父の時代には、その米を専用の米蔵に保管して、相場を見ながら売りさばいていたよ。戦前の封建制度の典型的な姿でしたね。

 

―後継ぎとして期待されたでしょうね。

 

井上 私の家は、婿入りした父の代になって、何か希望することがあれば外に出て行ってどんどんやりなさいという雰囲気でしたよ。私も小作人たちのみじめな生活に矛盾を感じていたし、軍国主義の時代に中学生だった私は、将来、軍人になることに強い抵抗を感じていましたね。

 

 

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学生生活1:よく遊び、よく学ぶ

 

―それで、高等学校へ行こうと?少数の選抜された生徒しか入学できない、当時の高等教育機関ですよね。

 

井上    「軍人にはなりたくない。自由な立場で学問・研究の道に進みたい」と思ってね。それと、たまたま姉の下宿先の息子さんが新潟高等学校(旧制)の学生だった。その人が夏休みを利用して私の家に遊びに来て、島内の小旅行やキャッチボールなどをして数日間一緒に過ごしたことがあったんだけど、白絣の夏着に袴、雪の結晶をかたどった校章の付いた白線帽を被り、下駄を履いた姿が格好良くて。

 

―その姿に憧れた、ということですか?

 

井上    その学生の何とも自由な雰囲気を見て、「世の中が戦争で窮屈な状況になっているというのに、ここにはまだ自由な世界があるのだ。よし!俺も高等学校へ進もう」と心中燃えるものがあったということですね。

 

―ですが、昭和20年には学内の軍需工場に動員されていたと手記に書かれていますね。一方で、入学当初や戦後の学生生活はどうでしたか?

 

井上    ものすごく勉強したよ。寮が10時に消灯した後は廊下に出て、その明かりで、ドイツ語を覚えたり。田舎者の僕は人の2倍くらい勉強しないと追いつけないから。向こうの方を見るとぽつんぽつん同じような奴がいるんだよ。勉強だけでなく、楽しいこともいっぱいあった。遊ぶのも豪快にやったよ。だから、高等学校の生活には非常に思い入れがある。

 

 

学生生活2:台北、旅順など各地からの学友と出会い、共に過ごす

 

―ところで、熊本は明治半ばごろまで九州の中心だった場所ですよね。当時、佐渡ヶ島から熊本へというのは、距離の面でも文化的な意味でも、外国へ行くみたいなものでしょうね?

 

井上    だから行ったの。私は佐渡ヶ島という閉鎖的な環境に生まれ育って、陰と陽でいうと陰、かつ消極的だと自分では思っていたのです。だから、青春時代の三年間を過ごすんだったら、進取の気性に富んだ九州に行きたいと思うようになった。でも、佐渡島からあんな遠い所まで行くについては相当なお金もかかる。それを黙って出してくれた両親に、本当に感謝している。

 

―同級生は九州の人ばかりでしたか?

 

井上    6割ぐらいが九州の人間。

 

―残りの4割は関西?

 

井上    そうね。岩手、山形、それから東京から大勢来ていましたね。台湾の台北、韓国の京城、中国の青島、満州の旅順からも来ていた。佐渡ヶ島にいては交友を持てなかった連中と三年間だけでも交友を持てたというのが、私にとってどれだけプラスになってるか。

 

―孫・ひ孫さんをはじめ若い人たちには、どんどん羽ばたいて、いろんな経験をしてほしいですね。

 

井上    僕は核の問題以外について、ああすべきだ、こうすべきだってことを言わない。自分で好きな道をまっすぐ行けば良いんだから。

 

【井上さんの被爆体験証言はこちらから】

the pigeon voices   被爆者ひとりひとりの人生と出会う。
02 【side:証言】井上惣左衛門〈いのうえ・そうざえもん〉さん(89歳)

聞き手・文;渡辺あき

写真;taro fukumoto