72年前の8月広島で起きた、大きすぎる衝撃とともに語られる「あの日」。
でも、被害にあった人々の「その後」に目が向けられることはあまりありません。
実は今と変わらない「日常」を、有名な戦争写真のモデルになったおばあさんの語りとともに描く連載の第9回をお送りします。
※前回の話はコチラ→【第8回】荒ぶる、広島のやんちゃ男
※最初から読みたい方はコチラ→ 【連載①】戦争の記憶図書館-プロローグ
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【登場人物】
私:しの
河内:河内光子さん
恵:しのの祖母
坂本:ピースボランティアさん
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今の年齢について
二杯目の番茶をすすりながら、まさかこの年齢まで生きると思いませんでした。と河内さん。
祖母の恵も細い目をより細めて
「まさかねぇ」
と相槌を返しました。
河内:私身内で一番長生きしとるんですよ、アホじゃけ長生きできるんじゃね。
恵:そんなことないんよ、語り継ぐ使命があるんよ。
河内:もうしんどい〜。
まるで山上りの最中でギブアップを訴える少女のような河内さんの声の調子にまた一同どっと笑います。
「なんでまだ生きとるんですかね」
全く悪気もなく番茶に向かって問いかける河内さんの横顔に向かって
「伝える使命があるんですよ」
とピースボランティアの坂本さんが答えました。
「私も最近そう思う」
祖母も同意。
ふと何か思い出したように2人を向きなおる河内さん。
河内:この前山本小学校で一年生の女の子が来たんですよ。
広島市内からは北に位置する小学校の名前です。広島市内では平和学習というカリキュラムが組み込まれている学校が多く、年に一回から数回、こうして平和公園を訪れたり原爆体験者の証言を聞いたり、それに関する映像を視聴したりする機会があるのです。私も小学校のころ平和学習の授業で身内の被爆体験を聞こうというテーマが授業の宿題になり、その日家に帰って初めて自分の祖父母の被爆体験を聞いた記憶があります。
河内:「おばあちゃん」
いうけえ
「はい」
いうたら
「おばあちゃんねえ、どして死なんかったん」
いうんですよ。そしたらそのお母さんらしき人が
「あんたそんなこと聞いちゃいけんよ失礼な!」
って一生懸命私に詫びたんですけどね、私一つも嫌な思いしませんでした。
可愛いねえと思って。純粋なからね。
ぽやっと柔らかい笑顔が河内さんの顔に戻っていました。
父親と弟子
河内:父は気丈な人でした。大工をやっとって弟子がいましたからね。
たまにハガキに漫画みとうに書いて自分がギター弾いとるようなところが届くんですよ。父か兄に向けて。私には一通もきませんでした、小学生だったから。
器用でしたね、まさとあんちゃん言うたけど。ハイバラマサトいうて。
婚約しとったけど、婚約解消して戦争に行きました。
土橋でいとこのお姉ちゃんとあんみついうのを生まれて初めて食べさしてもらって、店出たら
「みっちゃんよー!!!キヨちゃんよー!!!」
ておらぶ(叫ぶ)んです。
誰かねえ言うたら私らの前をゆっくり走るトラックにようけ兵隊さんが乗っとって、その中の一人がおーい!おーい!いうんです。
「あら、まさとあんちゃんじゃ!どしたん!」
「今からの、あっちの方行って他所行くんよ。」
そのトラックは宇品に行って軍用船に乗って南の方へ行くんでしょう。
「生きて帰ってよー!!!」
「ほうじゃのう!!!」
いうことがありました。
「生きて帰ってよって言ってよかったんじゃ」
私は当時の憲兵に聞かれたら取り締まられたのでは?と思いとっさに質問しましたが、どうやらその時の場面では良かったのでしょう。
ほいでも帰ってきませんでした。
帰ったら一番に親方のところに来ますからね。
誰も帰ってきませんでした。
三好の弟子の人は三好のほうへ逃げちゃった。
私:お父さんはその後どのぐらい生きちゃったんですか
坂本さんは土方をしていた河内さんの父親を気にかけていました。
河内:昔ね、能美のオキムラいうところで戦争する被覆をする工場をやっとった夫婦がおって、その夫婦がおじさんを診させてほしいっていうことで一ヶ月ほどお世話になりました。朝晩朝晩ジャガイモを擦って、それを練ったのを塗って火傷したところにべちゃっとつけて。
坂本:それがよかったんですか。
河内:よかったんです。
恵:私もそれを見とるんよ。大八車を借りて帰るのにお化けのような避難者と遭遇したわけよ。ほしたら庭先できゅうりやジャガイモを擦っとって。昔の人は薬草やなんかよう知っとってじゃないですか。
祖母も当時のことを、芋をすりおろす手つきを交えながら思い出していました。
→続く 【第10回】兄は二度海に沈む(4月公開予定)
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