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「軍の街」だった六本木 ー 昼との共生目指す不夜城の今

70seeds編集部がある六本木。
目抜き通りには東京ミッドタウンや六本木ヒルズ、高級ブティックが立ち並ぶ一方で、一歩入った路地裏には古い民家や小さなお店が軒を連ねています。そんな繁華街だけでない六本木の姿には、「戦後」が隠されていました。そんな六本木の「戦後」について、六本木商店街振興組合の堀井さんにお話を聞きました。

 


堀井健一:六本木商店街振興組合 理事

 

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▲お話を伺った堀井さん

 

 

六本木の「商店街」はどこにあるの?

 

 

‐六本木に商店街があったの?と驚かれる方も多いと思います。

 

僕らはアーケードもないのでみんながイメージする商店街とは違うけれど、2つの活動を中心にしています。1つ目は、まちの活性化やまちのブランドの保持。2つ目は、安心・安全のまちづくりや清掃活動。

 

‐商店街はいつ設立されたのでしょうか?

 

昭和40年(1965年)に、176店舗の人が集まって六本木商店会が設立しました。昭和39年に東京オリンピックがあったので、その影響で、この辺も道路が大きくなったり高速道路が出来たり日比谷線も出来たりでインフラが整備されて、その翌年が40年でしたから、みんな明るい年ですよね。そういう高度成長の真っ只中なときに、地元の人で集まって、しっかりした団体をつくっていこうと、先輩方が声を出して作ったのが始まりでした。現在の「六本木商店街振興組合」になってから今年で20年ですね。

 

‐東京オリンピックを控えて多くのインフラが整ったのですね。昔の六本木という街の範囲は今とは違うものだったのでしょうか?

 

六本木の名前の由来となった、旧六本木町ってすごく限られていた辺りで、ロアビルから東京ミッドタウンの辺りまでの、外苑東通り沿いだけだったんです。

 

‐では、六本木ヒルズなどは六本木に入らなかったんですね!

 

そうです。外苑東通り沿いのその辺りだけでしたから。昭和41年の町名整理で、六本木という名前を残して欲しいと陳情書を出したことで、六本木という名前は残り、一丁目から七丁目までの範囲を指すようになりました。あのときに、商店街の方々が陳情書を出してなかったら、六本木ではなく、北麻布とかになっていたでしょう。

 

 

外苑東通りを中心に発展していく街

 

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‐戦前の六本木はどういった姿だったのでしょうか?

 

そうですね、戦前から、外苑東通りを中心に、一階で商売を営んでその上の階に居を構えるような個人商店が多数ありました。例えば、うなぎ屋さんや帽子屋さん、八百屋さん。戦後ももちろんそういう部分がありました。ただ、戦後になって変わった部分もあります。

 

‐外苑東通りがキーとなっているのですね。

 

そうです。外苑東通りは昔から人の往来が多かったので、その通り沿いから個人商店が出来て、発展していきました。

 

 

軍の街だったからこそ、今の六本木になれた。

 

 

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‐戦後になって変わったこととは?

 

駐留軍が駐留したことですね。駐留軍は今の東京ミッドタウンのところを使っていたんです。

実は、今の東京ミッドタウンって以前は歩兵第一連隊の敷地だったんです。だから、戦後は連合軍駐留軍が使っていました。その後は、防衛庁の敷地となりました。防衛庁が市ヶ谷に移転してから、東京ミッドタウンが開業したんです。

 

‐東京ミッドタウンの前身は防衛庁、その前は駐留軍が使っていたとは。驚きました。

 

ええ、多くの人は驚かれます(笑)。

東京ミッドタウンは軍の敷地だったわけです。近くには、国立新美術館がありますけど、あそこも軍の施設だった。今はどちらも、まとまった土地があったので、再開発されていますけれど、国立新美術館も、戦前は歩兵第三連隊の敷地でした。戦後は東大の研究所になり、その研究所が千葉県柏市に移転したから、国立新美術館へと生まれ変わったんです。

 

つまり、六本木って、もともとは、軍の街なんです。

 

‐軍の街だったとは、とても意外でした。

 

第一連隊と第三連隊の土地を、その後駐留軍が使用し、そして再開発を経て、今の六本木になった。

 

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‐外国の方が多いのも、その歴史と関係があるのでしょうか?

 

もちろん。軍の街だったから、連隊のあとに進駐軍が入ってきて、当然、軍人相手のお店が出来ます。バーとかレストランとか、西洋的なお店が出来る。だから、いまだに外国人に六本木は知られているのだと思います。

あと、もう一つ要素があって、周辺に大使館が多いんです。それは大名屋敷とか、まとまった土地が多かったので。大名屋敷がそのまま大使館になっている事例が多いですね。

 

‐六本木といえば芸能関係者が集まるというイメージもあります。

 

昭和34年(1959年)に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)が六本木に出来て、他のテレビ局とも近いですしね。色んな方が集まってこられるような空間が随分あったと思うんですよね。「六本木族」という言葉もあって、外国のイメージと芸能人に憧れて多くの若者たちが六本木で遊んでいました。

 

 

背伸びして行くようなお店が多かった

 

 

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‐堀井さんにとっての六本木らしさはどういうところでしたか?

 

僕が学生の時は、ちょっと背伸びして行くお店が多かった。
そして、お店に入っても、「あ、この人良いな、洒落ているな」と思うような人や、空間が多くありましたね。自分より大人で洒落ている空間のはじっこに自分も居る、そういう経験をしてきました。一張羅でお金を握り締めていくような感じ。

 

‐今の六本木はどのように映っていますか?

 

今は、その頃比べるとハードルが低くなったかも。ただ、昔ばかりが良いとも思いません。僕の時代はそうだったけれど、今の若い人がそれを求めているのかといえば、違うと思います。

今の六本木らしさはこれから作っていきます。昔の六本木らしさと今の六本木らしさは違うけれど、時代を反映して、常に人が集まるような街にしたいと思っています。

 

‐今は企業やタワーマンションも増えて、随分六本木の様相も変わったかと思います。

 

そうですね。美術館もあれば商業施設もある、住んでいる人もいれば働きに来る人もいる。やっぱり大型のタワーマンションが出来て、新しい住民が増えました。僕は50年六本木という街を見続けているけど、昔から住んでいる人達は、六本木というのはいろんな人が集まる街というイメージがあると思うんですよね。

 

‐いろんな人が集まる街?

 

そう、昔から繁華街として栄えていたし、外国風でお洒落だったけれど、一歩路地に入ると民家があるような感じ。だから、昔から、いろんなものがあって当たり前でした。

 

‐今もその延長線上でいろんなものがある街なのでしょうか?

 

うん。六本木には夜の顔も昼の顔もあるけれど、共生していこうとしていますね。

 

 

夜の顔と共生していく、六本木の未来

 

 

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‐その共生の一環となるのでしょうか、子ども向けのイベントもやられていますよね?

 

そうです。毎年、麻布小学校の3年生と花壇の整備事業を一緒にしています。「キッズフラワー」と言うのだけれど、彼らにデザインをしてもらって一緒に植えるんです。今年も冬にやるんだけどね、今回で4年目。

自分たちの通学路でもあるから、一回植えると気になって見に来るんだけど、六本木らしく綺麗に植えたお花の間にゴミも捨ててあるんです。でも、そういう現実も見てもらいます。繁華街だというのを3年生なりに理解するだろうし、「夜たくさんの人が来て、酔っ払って、こうやってゴミを捨てられちゃうと、悲しいです」と作文に書かれてしまう。

 

‐それは、心が痛みますね。

 

はい。せっかく植えたのにね。やっぱりそこも六本木のかかえる問題です。でも、現実を見るのも勉強かな、と。あまりにもゴミがひどかったりした場合や、怪我するようなビンとかがあれば僕たちが綺麗にしているんですけどね。

 

‐毎年ハロウィーンのイベントもやられていますよね?よくニュースで拝見します。

 

今年も10月25日に六本木ハロウィンをやります。今、六本木にはお住まいの方が多いから、こういったイベントに参加してもらえると凄く嬉しいんです。一方で、この時期って六本木が汚れるから、清掃活動も同時にやりますよ。

 

‐夜の街との共生ですね。

 

六本木の繁華街としての歴史は古いし、夜のお店の人達も結構参加してくれるんですよ。参加してくれる彼らのそういう気持ちを大切にしたいですね。

 

‐堀井さんが考える六本木の未来像とは?

 

やっぱり、どなたが来ても魅力あって、特に夜は安全で安心な街にしたいな、と。
安心・安全で楽しめるエンターティメントの街にしたい。六本木なら出来ると思います。