森山 史子
1977年、長崎県出身。マーシャル諸島短期大学において2年間、日本語教師として教壇に立つ。趣味は合気道。

第1回「一通の手紙」はこちら

 

同僚のビバリーに手紙の翻訳を頼まれた私は、その手紙の中に、何度も出て来るミレーという島が気になって仕方がなかった。戦跡の残る島とは聞いていたが、いったいどのようなところなのだろうか。私は、長い休みを利用し、友人とミレー島へ渡った。

 

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92の島からなるミレー環礁(2015年現在の人口:約600人)の一つ、ミレー島(2015年現在の人口:約300人)は、首都マジュロから南へ120キロ、船で4時間程のところに位置する。島民は、美しい自然と海からの恩恵を受け、自給自足の生活を営んでいる。マジュロでは手に入りにくくなってしまったヤシガニやロブスターなどの魚介類も、以前に比べれば減ってはいるものの、今も豊富に獲ることが出来るそうだ。島の男たちは、家族に必要な魚を獲るために漁へ出る。必要な時に、必要な分だけを頂く。島の人々は、そうやって、ずっと昔から海と生きてきたのだ。
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『ひもじかと問うも愚かぞ 此の頃は 死にたる人を 幸せに思ほゆ』(ミレー島守備兵/作者不詳)

 

 

第二次世界大戦の勃発により、日本軍とアメリカ軍との戦場へと化したマーシャル。5700人余の日本軍兵士が送られ、3100人余が命を落としたとされるミレー環礁には、今も尚、祖国へ帰ることの出来ない遺骨が散在している。

 

爆撃あれど、敵軍の上陸なし。日本軍の拠点クワジェリンが玉砕し、戦力的な価値がないとみなされたミレー島は、補給も受けられないまま取り残され、孤立。アメリカ軍は、上陸せず自滅を待つという戦略をとった。兵士たちは生き残りを図るためにミレー環礁の島々に分散され、終戦まで2年近くもの間、耕作地の殆どない環礁の島で自活を余儀なくされた。そしてその多くが、飢餓と病に倒れ命を落としていった。ネズミやトカゲ、草を貪り、木の根さえもかじって生きようと必死だった兵士たち。死に行く者を羨む程過酷な飢えとの戦いは、帰還者が半世紀以上を過ぎても語ることの出来ない悲惨なものだった。

 

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ミレー島を旅した時の出来事。

 

「こっちにおいで。これ、焼いたばかりなんだよ。朝ごはん、食べたかい?」

 

朝早く、散歩をしていた私に、女性が話しかけて来た。「こっちにおいで、一緒に食べよう!」という言葉は、マーシャル人にとって挨拶のようなもの。そして、食べ物は、どんなに少なくても、みんなで分け合って食べるもの。

 

できたてのカップケーキは9つ。大家族のマーシャル人にとって、どう考えても十分な数ではない。しかし、既に2時間以上歩いていた私は、思わず「まだ、食べていない」と答えてしまった。「卵が入っていないんだけど、美味しいわよ!」彼女は、アツアツのケーキを手の平にポンと置いてくれた。

 

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土地勘もなく地図もない私たちは、戦跡を探し求め歩いているうちに道に迷ってしまった。「ヤッコエ!(こんにちは)」私たちは海辺で仕事をしていた男性に声をかけた。「ヤッコエ、ヤッコエ!」その男性は満面の笑みを浮かべて、返事をしてくれた。

 

マーシャルの人々は、道行く人に気軽に声をかけてくれる。「さっき採ったばかりなんだ。ココナッツ飲むかい?」その男性は、知り合ったばかりの私たちに、新鮮なココナッツをご馳走してくれた。広さ16㎢の小さな島、たとえ鬱蒼と茂るジャングル中でも、彼にとっては庭のようなもの。その男性は、宿泊先までの道のり、ジャングルに眠る数多くの戦跡を見せてくれた。

 

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翌日、私たちは戦跡を案内してくれた男性の家を訪ねた。軒先でココナッツを頂きながら、おしゃべりを楽しんでいると、ウクレレを抱えた彼が「日本の歌を知っているんだ。子供の頃、酋長に教えてもらったんだよ。」そう言って、歌を歌い始めた。「ふ~じ~は に~っぽん い~ち~の~ やま~」彼が歌ってくれたのは、私たちが子供の頃に歌った、あの「ふじさん」だった。

 

歌の持つ力というものは果てしない。いつの間にか、私の目からは、涙がこぼれていた。「ももたろうさん」「ゆりかご」「うしわかまるのうた」これらは、私がマーシャル人に歌ってもらった日本の歌の一部である。日本人でさえ歌わなくなってしまった、日本の童謡が、マーシャル人によって歌い継がれている。音と感覚で覚える彼らは、歌詞の意味すら知らない。先祖から子孫へ、人から人へ。日本人が教えたであろうその歌は、何十年という歳月をかけて、私たちの元に届いた。あなたが歌った「ふじさん」は、今も、ミレーに残っています。私は「ふじさん」を教えたその日本人に、そう伝えてあげたい。

 

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戦争中、島民たちは離島へ疎開をしていたという。世界で何が起きているのか、何故彼らの住む島で人々が戦っているのか、どれ程の島民たちがその事を知らされ、そして、それを理解していたのだろうか。運ばれて来た巨大な鉄の塊、奇妙な形をしたコンクリート、今まで見たことのない人の数は、彼らの目に、どのように映っていたのだろうか。美しい海に囲まれ、ゆったりとした時間の中で生きていたミレーの人々。彼らは、いったい何を思い、何を考え、その時代を生き、そして戦後を生きて来たのであろうか。

 

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※第3回は7月上旬公開予定