兪 彭燕
1989年、上海生まれ日本に根を下ろしてはや20年。音楽とサッカーが好き。バイブルはスラムダンクと寺山修二の「書を捨てよ、町へ出よう」

「軍隊堅麺麭」(軍隊堅パン)を今でも焼き上げている福井県鯖江市のヨーロッパンキムラヤ」を紹介した前編『戦時中の携帯食は現代の保存食へ―「はじめてのパン」をめぐる小話―』に続く後編記事。戦時中軍に納めていたからこその「堅パン」をめぐる複雑な想いを紹介します。

 

初代にとっての「堅パン」は戦争そのもの

history01

(※初代のときはハイカラな店として有名に。)

 

「ヨーロッパンキムラヤ」初代・古谷伍一にとって堅パンは戦争そのもの。戦争を思い出すだけのもので、戦後は決して作らなかったそうです。

 

関東大震災に遭われ鯖江にどうにか辿り着いた初代にとって、親戚や仲間が戦場へ赴く中で、この地で、軍に納める「堅パン」をつくり続けることに、「使命感」と「誇り」がありました。

 

軍から貴重な原材料を支給され、軍の監督監視の下でつくる緊張感の中で、堅パンを焼き上げていく当時の日々。

 

1945年8月15日の玉音放送を聞いたとき―陸軍歩兵三十六連隊とともに歩んできた「堅パン」をつくる必要がなくなったときに、初代は初めて戦争が終わり平和になったことを実感したのだといいます。

 

戦後、「ヨーロッパンキムラヤ」で堅パンを復刻してからも、初代だけは決して作ることはありませんでした。

 

想い出の「堅パン」は、二代目にとっての「幸せの青い鳥」だった

 

history02
(※二代目の古谷欽一)

 

「今まで食べてきたものの中で、何が一番美味しかったの?」
美食家といわれた二代目の古谷欽一はこの質問を投げかけられたとき、いろいろと悩んだ末、「堅パン」を思い出しました。それはただの堅パンではなく、堅パン製造の監督監視にきていた憲兵から、こっそり「内緒だよ」と渡された堅パンのひとかけら。

 

戦後、その味を忘れられずに復刻したのが現在も販売されている「軍隊堅麺麭」(軍隊堅パン)です。

 

美味しいものは身近にある。大きさは小さいけれどもパンの中には大きな幸せがあることを教えてくれたのが堅パンだったのです。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

(※「堅パン」の復刻で浮足立った自分を諌めるために軍人勅諭を用いたそうです)

 

変わる時代、変わらないもの―三代目が受け継ぐ味

 

現在ヨーロッパンキムラヤを支える三代目の香住さん。彼にとっての堅パンは、戦時中の製品というよりも祖父、父の思いを紡いだもの。紡いだ思い出を次へと繋ぐことが使命だと感じながら日々堅パンを作り続けています。

 

初代がお店を開いた時代、大正時代に流行った「玉子パン」を鯖江に紹介し、ハイカラなお店として知られたヨーロッパンキムラヤ。

 

二代目はヨーロッパのパンを紹介することで、新しい時代に向けて日々を生きる地元の人々に、パンを通じた「幸せ」を届け続けていました。

 

いつの時代にも食事や栄養を届けるだけではなく、「喜びを与える」という目的とともにあったヨーロッパンキムラヤのパン。『パンの中に夢や希望を包み、幸せをお届けする。』という想いは、今も変わらずに受け継がれ続けています。