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【連載第5回】「タカイワの唄」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて

 

マーシャルから帰国した私は、手紙のやり取りをしていた水嶋さんに会いに松本へ足を運んだ。15年以上も前のマーシャルでの出来事をまるで昨日のことのように話す彼女、私はずっと聞きたかった慰霊の旅を始めたきっかけ、そして、チュウタロウ・ファミリーとの関係について彼女に尋ねた。

第4回「手紙の主」はこちら

 

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“慰霊団に食事の用意をしてくれたミレーの人々(1985年当時)”

 

首都マジュロからミレー島へ、更にミレー島で小型のボートをチャーターし、戦没者たちの眠る小さな島々へ。ミレー島は慰霊巡拝者にとって、慰霊の地であり、旅寝の地でもあった。しかし、ホテルやレストランのような施設のない離島での滞在、島の人々の手助けなしに、慰霊の旅をなし得ることはできなかった。慰霊団がミレー島を訪れるようになった1970年代当時、戦禍を受け、大切な家族を失い、残された戦跡と共に生きて来た島民は、日本人に対して良い感情を抱く者ばかりではなかった。しかし、彼らは日本から遥々慰問に訪れた遺族に対し、いつも穏やかで、協力的であった。

 

「良かったら、私の島でゆっくりしていってください」

そのような状況の中、慰霊団にそう申し出たマーシャル人がいた。チュウジ・チュウタロウ氏の兄、シゲル・チュウタロウ、タカイワ島の酋長だった。慣れない土地で大変だろうと、温かく迎え入れてくれるタカイワの人々は慰霊団の心をいつも和ませてくれた。水嶋さんは慰霊団に参加することもあれば、他の遺族や友人と個人でタカイワを訪れることもあった。毎年足しげく通う彼女をいつしかタカイワの人々は「ミズシマ、ミズシマ」と呼ぶようになり、その関係は次第に深まっていった。

 

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“シゲル・チュウタロウ氏(左から2番目)”

 

終戦時、南方から撤退する兵士たちによって広まった『ラバウル小唄』という戦時歌謡がある。水嶋さんは、その替歌を作り、『タカイワの唄』と名前を付けた。当時、水嶋さんと一番親しかったシゲルさんの妻、カッチネットさんは、水嶋さんが歌う『タカイワの唄』をローマ字で書き取り、子供たちに歌い聞かせていた。

 

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“カッチネットさんと”

 

『タカイワの唄』

それは、大好きなタカイワの人々と一緒に歌った歌
そして、水嶋さんをずっと支え続けてくれた歌

 

「でたらめに作ったんだよ」
水嶋さんは、そう言いながら、私に『タカイワの唄』を歌ってくれた。

 

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“チュウジさんと”

 

水嶋さんは最後の滞在で、以前から面識のあった、マジュロに住むチュウジ・チュウタロウ夫妻を訪ねた。別れ際に、「この封筒で手紙を出せば、私たちの元に必ず届くから」そう言って封筒を渡された。英語もままならない水嶋さんを心配し、封筒に宛先を書いて手渡した女性、それがあのビバリーだった。そして、15年以上もの歳月が経ち、その封筒はチュウジ・チュウタロウ氏のもとに届いたのだ。

 

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介護施設を訪ねてから1年後、マーシャルへ渡った友人が水嶋さんを知るタカイワの人々に当時の話を聞いて来てくれた。友人が話を聞いたのは30代~50代の4人。水嶋さんがタカイワを訪れていた当時、まだ幼かったビバリーの孫、ケトゥミも付き添ってくれた。

 

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島の人々と出来るだけ同じ物を食べ、同じ生活をし、同じ言葉を話す、それが水嶋さんのスタイルだった。「また来年来るからね」そう言ってボートに乗り、姿が見えなくなるまで手を振っていた彼女の姿が頭に残っていると当時6~7歳だった女性が話してくれた。

 

「ミズシマ!ミズシマ!」「また、ミズシマが来たぞー」

そう言って集まってくる子供たち。水嶋さんは、いつもお土産をいっぱいに詰め込んだ荷物を持ってやって来た。キャンディー、花火、風船...日本からのお土産は子供だけでなく、大人たちにとっても、楽しみの一つだった。

 

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「すごく元気そうだね、変わってない」

そう言って、松本で撮影したビデオを懐かしそうに覗き込んだ男性が水嶋さんにタカイワで会ったのは、10代の頃。日本に留学した経験のある彼は、日本滞在中、水嶋さんと電話で度々話したという。また、彼女からその男性のもとへ贈り物が届いたこともあった。

 

『タカイワの唄』を歌う水嶋さんの姿が流れた時だった。「あぁ!この歌、覚えてる!」そこにいた一人がそう言って、『タカイワの唄』を口ずさみ始めた。自然に歌の歌詞が出て来る彼女に、そこにいた誰もが驚いた。ケトゥミだった。

 

 

水嶋さんが最後にタカイワ島に滞在したのは1998年のこと。1992年生まれのケトゥミは、当時まだ5歳だった。

 


 

手紙を出すと、必ず、返事をくれる水嶋さんだったが、手紙を出しても、返事が届かなくなった。心筋梗塞を患い入院していたが、今は施設に戻っていると聞きつけ、私は友人がマーシャルで撮ったビデオを持って、再び水嶋さんに会いに介護施設を訪ねた。

 

待合室で待っていた私の目の前に現れたのは、車いすに乗った水嶋さんだった。タカイワの人々に友人が会って来た話をすると、喜んでくれた。友人が準備してくれた写真やビデオを全て見せることは出来なかったが、『タカイワの唄』を歌うケトゥミの姿だけはと思い、私はビデオを流した。

 

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「タカイワの子供がね、『タカイワの唄』を覚えていたんだよ」

「みんながね、水嶋さんのこと、たくさん話してくれたよ」

 

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また会いたい人がいる
思い出を大切にしてくれている人がいる
待ってくれている人がいる

遠い国マーシャルは、彼女にとって、そんな場所だったのかもしれない。

 

大切な人と生きたくても、生きることが出来ない時代があった
大切な人へ気持ちを伝えたくても、伝えることの出来ない時代があった
何も知らされず、何も知らぬまま、この世を去って行った人々がいた
何かに気づいていても、何も出来ぬまま、この世を去って行った人々がいた

彼女はそんな時代を生き抜いて来た。

 

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私たちは不本意にもしばしば身勝手で、己の悲しみや苦しみは、なかなか忘れられず、人の悲しみや苦しみは、すぐにどこかへと行ってしまう。

 

戦争に勝った者は何も感じず、何も失わなかったのであろうか。戦争に負けた者だけが苦しみ、悲しんで来たのであろうか。それは勝者、敗者だけの戦いであったのであろうか。戦争は私たちに、いったい何を残したのであろうか。

 

戦争を知らない時代を生きて来た私たちに、戦争の時代を生きた人々の気持ちを推し量ることは難しい。しかし、私たちは、戦争というものを見つめ、未来を考えることが出来る。戦争の時代を強く生き抜いた人々がいたのだということを知ろうとすること、それがいつかきっと、大切な人を救う力になるのではないだろうか。

 

水嶋さんとの出逢いは、私に、そんなことを教えてくれたような気がするのだ。

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moriyama

野生のピュア系女子

1977年、長崎県出身。マーシャル諸島短期大学において2年間、日本語教師として教壇に立つ。趣味は合気道。