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【連載第4回】「手紙の主」―「MIZUSHIMAさん」の記憶を訪ねて

日本人女性からの手紙を翻訳したのをきっかけに戦跡の旅を始めた私は、今尚、第二次世界大戦の爪痕が残るミレー島とウォッジェ島を訪ねた。ビバリーの訃報が届いたのは、ウォッジェから戻ってすぐのことだった。亡くなったビバリーに頼まれた具志家の家系図を完成させた私は、その家系図に存在しない手紙の差出人、水嶋一二三という女性にチュウタロウ・ファミリーとの関係を聞くため手紙を出すことにした。1か月後、私のもとに、その女性から返事が送られて来た。


慰霊団がマーシャルを訪れているということは知っていた。しかし、戦死したお兄さんの慰問とは言え、15回もミレー島へ行ったというのは、本当なのだろうか。私は、正直、彼女の話を信じることが出来なかった。何故なら、ミレー島が簡単に旅行気分で行けるような場所ではないということを十分に知っていたからだ。

(ミレー島については第2回記事を参照)

 

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 http://www.futtrup.name/RTW/Kosrae.html

 

日本からマーシャルの首都マジュロへは、グアム、又はハワイ経由のどちらか。ハワイからマジュロまでは直行便が運航しているが、グアム経由は、グアムを出発後、チューク、ポンペイ、コスラエ、クワジェリンと離着陸を繰り返し、約8時間かけてマジュロへ到着する。所要時間は日本―グアム間の倍だ。更にミレー島へは、マジュロから船で約4時間、飛行機では約2時間。どちらも不定期で、遅延、急なキャンセルは日常茶飯事のこと。旅程がスムーズに進むことの方が珍しい。

 

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“ ミレー島到着時の様子(1978年当時)”

 

今でさえこのような状態の離島を水嶋さんが初めて訪ねたのは、40年程前のことである。私は15回というあり得ない回数に驚かされ、彼女に直接会って、話を聞いてみたいと思うようになった。

 

「子供なしの私は、淋しいものですね」送られて来た手紙に書かれていた、その言葉が頭から離れなかった。帰国後も、水嶋さんと手紙のやり取りを続けていた私は、その言葉を目にしてからだろうか、それまでとは違った感情を彼女に抱くようになった。

 

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松本で生まれ育った水嶋さんは、幼少期に奉公に出され、家族との思い出は少ない。結婚したものの、子供に恵まれず、夫は去って行った。それからは、職を転々としながら、一人で暮らしていた。55歳でスナック喫茶「リンゴ」を開業、気さくで明るい水嶋さんのお店は、彼女を慕うお客でいつも賑わっていたという。60歳を機に、兄の追悼の旅を始め、15年間一度も欠かすことなくミレー島へ足を運んだ。75歳の夏、水嶋さんは15回目の慰霊旅行に出かけた。彼女の中で、これが最後だと決めた旅行だった。思い出の地であるミレー島とタカイワ島に1か月滞在し、大好きなマーシャルの人々と楽しい時間を過ごした。帰国後、ずっと一人暮らしを続けていた彼女は、住み慣れた家を引き払い、介護施設に入った。それ以来、外出する機会はだんだん減っていった。

 

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“ スナック喫茶「りんご」”

 

マーシャルから帰国して1か月が過ぎた頃だった。送られて来る手紙を読んで、会って話してみたいという気持ちが強くなっていた私は、彼女の住む松本へと向かった。知人に会いに行くというより、家族に会いに行くような、そんな気持ちだった。

 

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りんごやぶどう畑の広がる静かな山間に水嶋さんが暮らす介護施設は建っていた。待合室に通された私はドキドキしながら彼女を待った。そこへ小柄の可愛らしいおばあちゃんが入って来た。水嶋さんだった。手紙や電話でやり取りをしていたということもあり、私たちは初めて会ったにもかかわらず、マーシャルやミレー島、共通の知人の話で盛り上がり、時間を忘れる程おしゃべりに夢中になった。

 

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92歳の彼女は、マーシャルの地形や人口、段ボール箱いっぱいに持って行ったお土産、飛行機の離着陸が苦痛だったこと、海や空の色、採れたてのバナナやココナッツの味、無邪気な子供達の笑顔、一緒に歌った歌、お世話になった人々、そして、彼らと交わした言葉(当時はマーシャル人に習った簡単な英語とマーシャル語を混ぜて話していた)に至るまで、何十年も前の出来事をまるで昨日のことのように覚えていた。彼女の話に耳を傾けているうちに、私の頭の中にはマーシャルの美しい風景や人々の姿が広がっていった。

 

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“日本の花火を楽しむマーシャルの子供たち”

 

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“マーシャル語のメモ”

 

以前は、帰還者や戦没者の遺族によって行われていた慰霊巡拝だが、遺族の誰もが亡くなった親族を偲んでその地を訪ねるかと言えば、そうではない。私は水嶋さんに会い、ずっと聞きたかった慰霊の旅を始めたきっかけ、そして、チュウタロウ・ファミリーとの関係について尋ねた。

 


 

奉公先で辛いことが続いていた水嶋さんは、偶然、別の奉公先で働く兄の幸司さんの姿を見かけ、自分とは全く違う世界で生きる兄を羨むようになっていた。暫くして、召集令状が届いた幸司さんは満州へ出兵したが、戦闘中に視力を失い、帰国せざるを得なくなり、松本に戻った。帰国後、南洋諸島で軍属の募集が行われているのを知った彼は「お国のために、まだ出来ることがある」と自ら応募し、軍属としてミレー島へ渡った。

 

水嶋幸司、昭和20年8月2日、栄養失調死

戦死場所、タカイワ島

 

これが水嶋さんたちのもとに届いた知らせだった。しかし、後に15回の旅の中で、幸司さんの戦死した日(正規は昭和18年6月)と戦死場所が資料の記述とは異なることを知った水嶋さんは、お兄さんの戦死場所とされる全ての場所へと足を運び、参拝を行った。

 

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お兄さんの戦死の知らせを聞いた後のことだった。彼女は母親から幸司さんが奉公先でずっと苦労をしていたことを聞かされた。

 

幸司さんを羨んだことを恥ずかしく思った水嶋さんは、兄を羨んだ自分を悔やみ続けた。そして、その自責の念は消えることなく、慰霊巡拝を始めるきっかけとなったのだ。

 

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※第5回(最終回)は8月中旬公開予定