「観察映画」というジャンルを知っていますか? そのパイオニア、想田和弘監督の作品「牡蠣工場」が2月20日から渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映されます。
今回想田監督がカメラを向けたのは、瀬戸内海にのぞむ美しき万葉の町・岡山県の牛窓(うしまど)。日本有数の牡蠣の産地は、過疎化による労働力不足で中国人労働者を迎えていました。
この作品が問いかけるのは、牡蠣工場という小さな世界から垣間見えるグローバルで大きな問題。全2回で贈る今回のインタビュー、前編では、ニューヨーク在住の想田監督が生み出した「観察映画」について紹介します。
台本至上主義への不信感
– 想田監督が「観察映画」を撮るようになった経緯を教えてください。
93年からニューヨークで4年間、大学の映画学科でフィクション映画を作る勉強をした後、ドキュメンタリー制作の会社で4、50本のテレビ番組をディレクターとして作っていました。
でも、作るうちにいろいろと疑問やジレンマを感じはじめたんです。
‐ジレンマ、とは?
ひとつは、ドキュメンタリー番組といえども、撮影前に「構成台本」と呼ばれる台本を書くことです。台本を書くと、僕自身の意識が台本に縛られてしまう。
つまり台本に書いてあることばかりを撮ろうとして、台本にない「現実」に出会っても、それにカメラが向かなくなってしまう。
もうひとつは、台本にない「現実」の方がだいたいは面白いこと。でも、面白いからといってその「違う現実」を撮ってくると、プロデューサーからは文句を言われる場合が多い。
なぜなら、プロデューサーは台本にGOサインを出したわけですからね。変更すると嫌がるわけですよね。
‐それって自然なことに感じていましたが、たしかにそう言われると不自然なことかもしれません。
台本を書いてしまうとそこから抜けられなくなってしまう。それって、ドキュメンタリーの本義からすれば、変じゃないですか。でもそういうことって、ものすごくよくある。
基本、撮影の前には台本を書き、綿密なリサーチを経て被写体候補と打ち合わせ、エンディングまで用意します。
場合によっては、ナレーション案まで書かされる。そういう予定調和な作り方に対して、僕の中で疑問が膨らんでいったんですよね。
‐もっともジレンマを感じたことは何ですか?
アメリカで9.11が起きたとき制作したNHKの番組が象徴的でしたね。番組のコンセプトは、「悲しみを乗り越えて、一致団結するニューヨーカー」を描くというものでした。
‐ そういった報道、当時よく目にした気がします。
僕らディレクターは、「ボランティアの人を撮ろうか。被害にあった家族を撮ろうか。」と、「悲しみを乗り越えて、一致団結するニューヨーカー」というテーマに沿ったアングルでリサーチをして、人を捜して、アポをとって、台本を書いて撮影する。
けれども僕はやっぱり、撮影中、台本から外れるようなことばかりに目が行きました。
– 例えば、どのような光景が目に留まりましたか?
例えば、煙があがっているワールドトレードセンターの前に行くと、観光客がたくさん訪れていて、ピースサインをして写真を撮っている。
その横には土産物屋が屋台を出していて、ワールドトレードセンターをあしらった土産物がバカ売れしている。
マンハッタンにある問屋街では、新しく入荷した星条旗を小売業者たちが奪い合っている。当時、星条旗は大ヒット商品に化けていたからです。
そういう現実、面白いから撮る訳じゃないですか。これも現実だなあ、と思って。
でも、プロデューサーにはすべて没にされました。「悲しみを乗り越えて、一致団結するニューヨーカー」というコンセプトからずれるから。
‐そうですね。(笑)
でも、それはものすごく不本意だったし、危険なことだと思った。犠牲が出て、哀しんでいるうちはいい。
でも、悲しみは必ず怒りに変わって行きますからね。
ここで「犠牲者としてのニューヨーカー」ということを強調すればするほど、そのエネルギーが報復に対して転化するのではないか、という恐れがあった。
それに対して、僕は加担したくなかったんですよ。
– その意思を貫くのはとても難しそうです…。
だから、クビを覚悟で僕は「できません」と言って、そのチームを辞めました(笑)。
結局クビにはならなかったけれど、台本至上主義的な、あらかじめ作ったコンセプトに沿って取材をしていくやり方に対する根本的な不信感というか、疑問が湧いて来ました。
また、テレビ番組を作る上では、懇切丁寧な説明が求められます。よく使われる合い言葉は、「中学生でもわかるように」。
でも、僕はそこまで視聴者は説明しなくてもわかるんじゃないか、という気がしていたので、その点についても違和感を持っていました。
そうして少しずつ、自分の中で「ドキュメンタリーの原点に還ったようなドキュメンタリー」を作りたいという意識が芽生えていったんですよね。
きっかけはリストラ
– そんな「原点に還ったドキュメンタリー」が「観察映画」だったということだと思いますが、制作を始める直接的な転機があったのでしょうか。
「観察映画」を撮るきっかけとなったのは、2004年の年末に突然、会社からリストラされたことです。「もう明日から来なくていいよ」と、2週間分の給料だけ渡されて、急に放り出されてしまって。
– すごい話ですね(笑)。
それで、仕方がないので自分の会社を作りました。せっかく独立したので、自分が撮りたいドキュメンタリーを作りたい。ということで、「観察映画」と名付けて、活動を開始しました。
– 観察映画第一弾は「選挙」という、ある立候補者を追いかける作品でしたが、これはどのような経緯で制作したんですか?
実は、観察映画第一弾として元々予定していたのは、第二弾になった「精神」でした。たまたま妻の母親(映画「Peace」の主人公、柏木廣子さん)が「こらーる岡山」という精神科の診療所と仕事をしていて、その話を母から聞いていたので興味を持ったんですね。
それで「こらーる」で撮影するために日本行きの荷造りをしていたとき、東大時代の同級生の山さん(観察映画第一弾「選挙」の主人公)が自民党から立候補するという話が耳に入って。
しかも、選挙運動と投開票日が、僕が日本にいる間に行われるので、「精神」と「選挙」両方撮っちゃえ!と(笑)。
山さんの選挙運動を最初の2週間で撮って、その後岡山で「精神」の撮影を行いました。
– かなりの強行軍でしたね(笑)。制作拠点はアメリカ、撮影場所は日本、というスタイルは最初から一貫して決められていたのですか?
いえ、別に決めてたわけではないです。ただ、「選挙」を撮るまで僕は日本でカメラを回した事がなかったので、日本でカメラを回すこと自体が面白かったですね。
自分の母語で話をしている人の作品を作れること自体が新鮮だった。
あとは、自分自身の生まれ育った文化を再探訪する、ということがとても面白かったですね。
– 監督の作品は、舞台は「日本」でありながら、映し出される「日本」がどこか外国のような新鮮さを感じます。
日本にずっと暮らしていたら面白がらないようなことが、僕には面白く見えます。
例えば、毎回日本へ帰国して成田に着くと、人間の歩き方からして新鮮に見える。
ニューヨークで暮らしていると、道を歩いている人のスピードはみんな違います。急いでいる人もいれば、ゆっくり歩く人もいる。
斜めに歩く人や、止まっている人、みんなバラバラ。でも、成田に着いた途端に、導線がサッと引かれている。
誰が決めた訳でもないのに、スピードもみんな一定で、ちょっとでもそこから乗り遅れたりすると、「あ、やばい失敗してしまった。」みたいな圧力がものすごくかかるじゃないですか。(笑)
– あります。(笑)
あと、日本人の歩き方には上下運動がないんですね。重心が低くて、サムライみたいな歩き方?(笑)そういうのからして、すべてが新鮮に見える。自分もそのカルチャーで育っているんだけど、しばらく見ていないから、違った目で見る。一事が万事そう。
かといって、自分が育った文化だから知らない訳じゃない。はじめて日本に来た外国人が見る感覚とも違う。理解もできるし。
– その絶妙な感覚が監督の映画のユニークさに繋がるのですね。
映画「選挙」を見ると、日本的な組織の在り方、コミュニケーションの在り方に気づかされる訳ですけれど、日本文化を知らない人があの選挙運動を観察しても、そういうことに気づくまではいかないんじゃないか、と思います。
上下関係やちょっとしたしゃべり方、お辞儀の仕方や深さ、名刺の渡し方にしても、動きの中に様式化されたものがある。僕は日本で育っているから、それらに気づくわけですよ。
でも、逆に日本にずっといると当たり前すぎて、気づきにくくなる。そういうアドバンテージは感じましたね。
それでしばらく、なんとなく、ずっと日本のことばかりを撮っているような気がします。
日本で受けた逆カルチャーショック
– 監督がカメラを向けるモチベーションは何ですか?
作品によって異なりますね。「精神」のアイデアを得たのは、テレビディレクター時代の僕自身の体験でした。
東京の編集室に2か月間カンヅメになって、2時間もののドキュメンタリー番組を編集したときに、すごく精神的に追いつめられたんです。
僕はそれまで日本で編集をしたことがなかったので、こんなに働き方が違うものだとは思わなかった。
– どんな違いに驚きましたか?
まず、全然休みがないこと。夜中まで仕事するし。それから、プロデューサーが怒鳴る。それも、すごい怒鳴る。(笑)
それには、とてもびっくりしました。僕はこれまで仕事場で怒鳴られたことも、怒鳴ったこともなかったので。
アメリカでは、怒鳴るなんてプロフェッショナルじゃない、という認識。
‐あぁ、映像制作以外の現場でも当てはまりそうなお話ですね…。
あとは、アメリカだとプロデューサーから、「番組の仕上がりはどう?」と聞かれたら、ディレクターは「順調です。」と答えるのが、プロフェッショナル。
そしたら、それがよくないみたいで、すんごくいじめられる。(笑)一緒に組んでいた編集の人に、「何で僕、こんなにみんなにいじめられるんでしょう?」と言ったら、「想田さんは、ちょっと自信がありすぎるように見えるからですよ。」
と、言われてしまって。(笑)あと、「ニコニコしすぎです。笑い過ぎです。」と。そういうのがいけないみたいで。(笑)
– それは、逆カルチャーショックですね。(笑)
編集の人いわく、日本では「いや〜この辺がうまくいかないんですよね…」みたいに自信なさげに言うと、「どれどれ、俺が助けてやる。」という風にプロデューサーも優しくしてくれるんだそうです。
ところが僕は「すごいうまくいっています」と言うから、「生意気だ」って思われる。それはカルチャーショックでしたね。
1ヶ月後くらいにニューヨークから来た僕の妻が、声が小さく笑わない真面目腐った表情の僕を見て、「人が変わった」とびっくりしていました(笑)。
あの頃、「パワハラ」だの「過労死」だのといった言葉がリアルに響きました。
そして周りを見てみると、みんな僕と同じような顔をしている。(笑)日本の年間の自殺者は3万人もいるそうですけど、当たり前だなあ、と思いました。
そんな時、柏木の母が話していた「こらーる岡山」のことを思い出して、「精神」を僕の映画の第一作にすると面白いんじゃないかな、と。
– 映画「選挙」を撮ろうと思ったのはなぜですか?
「選挙」は自民党的じゃない同級生の山さんが自民党から出馬する、というところが面白いな、と。
山さんは5浪して東大に入ったものの、授業に出て来ないから3回留年、それでもコンパには必ず出てくる変わり種。
卒業後は切手コイン商をやって、奥さんとはインターネットで出会ってハネムーンは北朝鮮。というすごく変な人。
– とんでもない方ですね(笑)。
そう(笑)。その人が自民党から立候補する、というのが僕にとっては衝撃的で、「これは何か起きるに違いない」と、直感的に「撮りたい」と思いました。
特に自民党って言ったら、戦後の日本の政治をずっと支配してきた政党だから、その選挙運動を観察したら日本の民主主義がどう機能しているのか、あるいはしていないのか、というのがわかるのではないか、という期待もありましたね。
第2回記事へ続く
想田和弘作『牡蠣工場』
観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること
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