今週の土日に行われる「早慶戦」



早稲田と言えば、夜も深まった頃に高田馬場駅前で『早稲田の栄光』を歌う学生諸君の姿がよく目撃されるとか。



一方の慶應義塾も、「三田会」という心強い組織のもと、大学への熱い母校愛で知られています。
両校とも私学の雄であり、母校への愛もあるのですから、「早慶戦」も熾烈なものへ。



そんな「早慶戦」にまつわる歴史をここで紹介いたします。



マスコットも参戦!(画像は全て、慶應義塾大学応援指導部より)

兪 彭燕
1989年、上海生まれ日本に根を下ろしてはや20年。音楽とサッカーが好き。バイブルはスラムダンクと寺山修二の「書を捨てよ、町へ出よう」

初の「早慶戦」は慶應義塾の勝利

第一回の早稲田大学 対 慶應義塾大学の「早慶戦」が行われたのは1903年。

まだ設立間もない早稲田大学野球部が先輩格にあたる慶應義塾大学に「教えを請いたい」として申し込んだことで実現しました。慶應義塾のHPによれば、「早稲田の選手たちは朝から下駄で早稲田から三田までの13キロの道のりを歩いてきた」という。

下駄で歩いてきたところに早稲田スピリットを感じます。

結果は、11対9で慶應義塾の勝利。しかし、設立間もない早稲田が善戦したことで、晴れて慶應義塾側からライバルと認められたのです。

 

 

「早慶戦」の歴史に事件あり

その後、第2回目の早慶戦では、早稲田が慶應義塾側に勝利するなど、名実ともにライバルと呼ばれる中で起きたのが「応援問題」(1906年)応援席の配分をめぐって対立していた中で、3回にわけて行われる早慶戦にて、第一戦を慶應義塾が勝利しました。

そこで想定外の一騒動。

あまりの嬉しさからか、勝利した慶應の学生が大隈重信邸と早稲田正門にて「万歳」を行ったのです。

次の第二戦目後にはその報復とばかりに、勝利した早稲田の学生が、福澤諭吉邸と慶應義塾正門にて「万歳三唱」

両校の過熱が危険な状態に達していたため、第三戦目は中止となり、1925年になるまで開催されませんでした。

 

 

またも中断の危機「リンゴ事件」

六大学野球連盟となったことで、復活した早慶戦ですが、またもや早慶戦中断か!?と思わせる「リンゴ事件」が起きました。

慶應義塾のHPによれば、

「9回表の守備についた義塾・水原茂3塁手が、早稲田応援席から投げ込まれたリンゴの芯を投げ返すと、リンゴが早大生の顔面を直撃。しかも9回裏に義塾が逆転勝利を収めたため、興奮した早稲田応援団の一部が試合終了後、義塾応援席側に乱入し、応援部の指揮棒を奪い取る騒ぎに。」

しかしこの事件は、一カ月で解決したということで、中断には至らず済みました。

 

 

「最後に早稲田ともう一度試合をしたい」最後の早慶戦

これらの出来事をみていくと、早稲田と慶應ってライバルというより仲悪いの?と思われるかもしれないのですが、そうではなかったことを示すエピソードが、1943年、学徒出陣前に開催された「最後の早慶戦」です。

早稲田ウィークリーによれば、慶應義塾大学の野球部員から学徒出陣前の「最後に早稲田ともう一度試合がしたい」との要望があり、10月16日に非公式戦として開催されたのが「最後の早慶戦」。

直前まで試合の開催が危ぶまれていたものの、無事開催されたこの試合は、結局10対1で早稲田の勝利に終わりました。

試合終了後は、両校が互いの校歌、応援歌を歌いあったのち「海ゆかば」の大合唱に。

その後、両校の野球部員たちは出陣していきましたが、慶應義塾側の戦死者はゼロ、早稲田大学の野球部員は5名が戦死したという記録が残っています。

 

 

引き継がれるライバル関係―戦後の早慶戦

終戦後、早慶戦はボイコットなどの事件を経ながらも、両校を取り巻く熱気や、注目度を伴って、現在まで引き継がれる伝統行事となっています。

ちなみに、早稲田が勝利したときに歌う『早稲田の栄光』は、慶應義塾大学の『丘の上』に匹敵するようなカレッジ・ソングが欲しい!との理由から、戦後に作曲された曲です。

両校の歴史を探っていくと、互いがどれだけの影響力をもっていたかわかりますね。

好敵手と書いてライバルと読む。まさに少年漫画も顔負けの両校のライバル関係は、これからも私たちの胸を熱くしてくれることでしょう。

野球部

応援団

吹奏楽部

応援部も吹奏楽部も全力で応援!

最後に、両校の「早慶戦」にまつわる歴史を表にしました。

 

 

 

 

 

早慶年表