(写真:札幌観光協会が作成したパンフレット)
戦争がなければ夏冬ともに日本で開催されるはずだった「1940年オリンピック」
皆さんご存知の通り、日本で初めて開催された夏季オリンピックは、1964年(昭和39年)の第18回夏季オリンピック東京大会です。同じく初めて開催された冬季オリンピックは1972年(昭和47年)の第11回冬季オリンピック札幌大会です。
しかし、この2大会以前に、日本では夏期・冬期オリンピック同時開催が決定していたのです。それが1940年(昭和15年)の第12回夏季オリンピック東京大会と、第5回冬季オリンピック札幌大会。ともにさまざまな予定が組まれていながらも、戦火の拡大により開催を返上、中止となった大会です。
(写真:札幌大会招致を伝える新聞 北海タイムス)
もともとは東京大会の開催が決まっていて、同年に札幌大会が開催されることは、1937年(昭和12年)のIOC(国際オリンピック委員会)が条件付きで認めたものでした。その条件とは、1938年(昭和13年)のIOCカイロ会議までに、オリンピックの開催準備をすべて完了させること。
急ピッチで策定された実施要項
その中で、札幌市は日本政府や北海道と協力し急ピッチで実施要項をまとめます。その中で出てきた案が、「開閉会式は円山競技場で開催」「スケート用の屋内・屋外競技場を中島公園に設置」「大倉山シャンツェ隣にジャンプ台を新設」「滑降競技は手稲山を軸にコースを策定」などでした。
実は、ジャンプ台と滑降競技に関しては、第11回冬季大会でも引き継がれた案ですが、開閉会式・スケートリンクの設置はともに真駒内(選手村もあった)に予定地が変更され、開閉会式もその場所で行われたのです。
(写真:細かい規則も決められていた)
この変更には、中島公園という場所に大きな関係があります。戦後復興の中、札幌では「関東以北最大の繁華街」ススキノが発展を遂げます。そのススキノのすぐ南側にあるのが中島公園。今では都市型公園として札幌市民に愛されている場所ですが、ススキノの発展に伴い人口・店舗が急増、幻のオリンピックから30年近い時間の経過の中で街並みが大きく変わっていたのです。
また、オリンピック開催の1か月半前にあたる1971年(昭和46年12月)に札幌初の地下鉄(南北線)が開通、円山公園はこの地下鉄の路線には入っていませんでした(1976年(昭和51年)開通の東西線で「円山公園」駅設置)。そして、南北線の発着駅となったのが「真駒内」駅だったのです。
現在札幌市は、2度目の招致を目指し活動中
このように戦争に翻弄された札幌でのオリンピック開催ですが、現在2回目の冬季オリンピック開催招致に向けて動き出しているところです。2020年(平成32年)開催予定の東京オリンピックは招致が叶ったものの、さまざまな問題が噴出し国内外に影響を及ぼしています。
(写真:幻となった第5回冬季オリンピック・ポスター)
オリンピックは、120年もの歴史を持つスポーツの祭典です。戦争という世界的な不幸な出来事により、オリンピックに参加したくても(参加できるだけの資質があったとしても)叶わなかった選手も大勢います。今後、このスポーツの祭典が不可抗力や目先の利益に関係なく、人間のスポーツにおける限界に挑む大会として発展していくことを願ってやみません。
※今回の記事は「さっぽろ文庫 冬のスポーツ」(札幌市教育委員会編)、札幌市公文書館の資料を参考に構成しました。