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「戦争中の暮しの記録」制作秘話―「暮しの手帖」の戦後70年

1969年8月15日、暮しの手帖社から『戦争中の暮しの記録<保存版>』が出版された。これは、前年1968年に発行された「暮しの手帖」96号の特集―戦争中の暮しの記録―を1冊にまとめたもの。

その特集は、戦争を体験した人たちから寄せられた文章で出来ていた。それは、「四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは、六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章」だった。

「この特集号(96号)は、普段の号よりずっと早く売り切れた。ところが、雑誌は、造本の点ではどうしても弱い。この一冊だけは、これからあとに生まれてくる人のために残しておきたい」との編集部の願いのもと、保存版は出版に至った。

「暮しの手帖」96号、および保存版の裏にあるストーリーについて、編集部員であった河津一哉さん、現代表取締役社長・阪東宗文さん、現・編集部、村上薫さんに話を伺った。

 

 

1968年の大冒険

 

―雑誌「暮しの手帖」で「戦争中の暮しの記録」と題した特集をすることについて当時どのように思われましたか。
編集部が『戦争中の暮しの記録<保存版>』を手渡すと、河津さんは優しい笑顔を浮かべてこう言った。
河津:僕はまだ、こっち(雑誌)の方が馴染みがあるもので。

 

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河津さんは、「熊幼」と書かれたカバンから、1968年当時に刊行された雑誌「暮しの手帖」96号を取り出し、ゆっくりと語りだした。
河津:一冊まるごと、この内容(戦争中の暮しの記録)にしちゃうのはチャレンジでした。
今までファッションや食べ物の記事ばかり載せていた雑誌が一号まるまるこの内容だし、そんなことをやった雑誌はないし。大胆なことをするなぁと思いました。それまでの読者が続けて買ってくれるか、心配でした。だからね、出来た号をもってみんなで本屋さんを回ったものです。
―本屋さんを回られて、どのような反応があったのでしょうか。
河津:「いったいどうしたの、暮しの手帖は!」「なんで戦争のことばかりやるの?」「もう戦争は嫌だよ」って、本屋さんたちは言う。(笑)だけれど、実はこういうわけだと話をすると納得をしてくれる。
―書店さんからも驚かれるほどにチャレンジングなことだったのですね。
河津:そうです、それほど大きなことでした。読者から寄せられた原稿は私たち(編集部)の心を打ちましたけれど、大丈夫かな?と後々まで思っていました。だけど、編集長は、一号丸ごと全部これだけにしても大丈夫だと確信したに違いないと思います。
ただ・・・、大冒険でした、冒険をやりました。

 

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―1968年の8月号に雑誌「暮しの手帖」で「戦争中の暮しの記録」を取り上げた背景には、反戦運動の高まりなどの社会的な状況もあったのでしょうか。
河津:きっと、それもあったでしょうね。それから、その頃、各地域の戦災を記録する運動が盛んでした。だけど、「暮しの手帖」の場合は、公式的な記録というよりも、ふつうの生活者、庶民といいますか、彼らが戦争中に何を食べていたのか、どういうことをしていたのかを、思い出もあらたなうちに、記憶から薄れてしまわないうちに、まとめようということになったのです。
―読者への募集は何号前だったのでしょうか?
河津:ちょうど(暮しの手帖96号)発行の1年前(1967年)になります。年に6巻刊行ですから、90号のときですね。

 

戦争中の暮しの記録を募ります

 

河津:募集の文章は花森さん(当時の編集長)が書きました。条件としては、たしか原稿用紙に5枚。事件や特別な人ではなくて、平凡な日常の実際に起こったこと、はっきり記憶していることを書いてください、というのが条件でした。そして、暮しの日常といっても間口はだいぶ広いので、そのうちの1つに絞っても良い、とも書いてありました。
―読者はそのような募集要項をみて、どのような内容を寄せたのでしょうか。
河津:例えばね、「つくろい屋」という文が載っていますけれど、当時、女学校4年生だった長女が、夜は家中のつくろい物を引き受けて奮闘する話を書いてくれました。読者のほうが、考えて、こういった的を絞った原稿を寄せてきまして、非常にやるなと思いました。
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生活者たちのまなざしに泣かせられました。

 

―河津さんはどのページを担当なさっていたのですか?
河津:僕はね、「百姓日記」を担当しました。佐賀のお百姓さんが昭和20年の最初から終戦の日まで日記を書いてくれたのです。ここは戦災からいえば、平穏無事な田園地帯です。
だけれど、それはそれなりに、見えてくるもの、戦争の影がやっぱりあります
この、「百姓日記」を書いてくださった田中仁吾さん、「日日の歌」の勝矢武男さん、「配給食品日記」を寄せてくださった平岡峯太郎さん、この3人は特別賞に選ばれました。

 

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河津:「日日の歌」は、大変な日常の中でも身の回りをみつめて、生活をスケッチしている。
奥さんは、非常にそれを嫌がるの。「なんであなた変なものばかりスケッチするの?」って。
夫婦喧嘩をしたりしているけれど、そのやりとりはなかなか泣かせるんです。
平岡さんも、配給の品物をじーっとみつめてひたすら描いている。そんなまなざしをもった人たちがあの戦争の最中に居たんだ、と私たち(編集部)は、大変なにか涙ぐましい感じをおぼえました。それでこの3人が特別賞に選ばれたんです。
佐賀の「百姓日記」へは、後日、カメラマン二人と私とで3人で訪ねました。
日記に登場した人を追いかけて、話を聞いて、面白かったですね。

 

百姓日記

 

―暮しの手帖での募集で、何通の原稿が寄せられたのでしょうか?
河津:1700通ぐらい(1736通)来ました。そのうちの100通に絞ると約束していましたけれど、結局は126通ぐらいになりました。なかなか絞りきれないで、大変だったんですよ。みんなよく覚えていて、やらせ風なところも全くないし、感動しました。決して上手ではないけれど、切実とした文章でした。
「てにをは」が間違っていたり、「ですます」で書いたかと思うと「○○だ」と書いてみたり、花森さんが編集者根性で、間違いがいっぱいある原稿を直したことがあったんです。そしたら、なんか面白くないの、いきいきしないの。だからそのまま活かそうと決まりました。
生活をする人の本当の出来事、やってきたことを読んで、泣かせられたんです
大変でしたけれど、忘れられない作業でした。

 

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花森安治という「圧倒的巨人」

 

-「戦争中の暮しの記録」という企画の発案者はどなただったのでしょうか。
河津:確か、花森さんだと思いますね。最終的な判断は全部花森さんがしていました。
―花森さんは「日本の暮しを変えた男」だとも言われていますね。花森さんとの思い出で印象深いものはありますか?
河津:文章を書くことを大事にしていた人でした。「文章を書くことが我々の一番の責任」と折あるごとに口をすっぱくして説いていました。みんな、書けなかったんですよ、まともな文章が。新入りに書かせる欄がありましたけれども、編集長に提出し返ってくると全部赤だらけでした。点と丸しか残っていないもので、そのときに彼は必ず言っていました。「もうちょっと書けるようになってくれよ」って(笑)。
「敵は毎日演習して実弾を撃って訓練をしているんだぞ、君らみたいにうだうだしてて、へなちょこな文章を書いていたら、一人も生き残れないだろう」と。
―編集者として厳しくもかっこいい方だったのですね。
河津:存在感の大きい人物でした、編集上の見識、技術でも圧倒的に巨人でした。花森さんは、自分の仕事がいっこうに減らず、いらいらしたでしょうね。もっと楽をさしてくれよ、と言いたいところなのでしょう、きっと。(笑)

 

河津さん④

その後、小紋と入社試験にまつわるお話はこちらへ

 

「暮しの手帖」の「暮し」は誰のもの?

 

-「暮しの手帖」の「暮し」は何を指すのでしょうか?花森さんは、「一人一人が自分の暮しを大切にしていたら、戦争にならなかったと思う」と語りましたが、今は自分の暮しを大切にしてもそれが他のことへの無関心に繋がることもあるのではないかと思います。
河津:昔、よく「暮し第一主義」という、自分の暮しだけを大切にすれば良いとの誤解を受けました。その危険はいつもあります。でも、私たちが「暮し」といっている、また花森さんが「暮し」といっている意味は、もう少し視野の広いものなのだろうと思います。
そうしなければ縮こまってしまう、自分のことだけにかまけてしまう、そういう恐れが多分にありますから。「暮し第一主義」の落とし穴、その危険性もまた見極めないといけない。
―「暮しの手帖」の「暮し」は自分の暮しだけじゃないのですね。ちなみに過去、雑誌名が「美しい暮しの手帖」だった理由はなんでしょうか。
河津:最初、「暮しの手帖」と名前を付けたとき、本屋さんたちが反対したと聞きました。「暗い」に言韻が通じるわけですから、みなさん反対されたらしい。それで、「美しい」をつけたようです。それから、もうその心配が無くなったから、外しちゃいました。もう堂々と「暮しの手帖」といって良い、と。
阪東:暗いに通じると言われたとき、たぶん花森さんは嫌だったんでしょうね。
「美しい暮しの手帖」は長すぎるじゃないですか、頃合いを見計らって、さっさと「美しい」を下ろされたのだと思います。花森さんは、すごく美学がある人でしたね、そこが強かったです。

 

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代表取締役社長・阪東宗文さん

 

「どうして言いなりになってしまったんだ」、戦後生まれの声

 

―『戦争中の暮しの記録<保存版>』には、付録が2つ収録されていますね。
付録1は、戦争経験のない若い人たちの読後感、付録の2はこの若い人たちの感想にこたえる意味で、戦争を体験した人たちの感想を募ったものとなっています。「戦中派」と戦後生まれの方々が意見を交流していて、すごく貴重だと思いました。

河津:本当は、もっともっとこの対話を盛んにやらなければいけなかったのだろうと思います。ただ、雑誌の仕事もありましたからね。
「どうして前の世代の大人たちがちゃんと反対をしなかったんだ、言いなりになってしまったんだ」という意見がたくさんありますよね、付録でも収められていました。「どうして黙ってしまったんだ」ということについてはもっと喧嘩をしても良かったと思います。だけど、この程度で押し詰められてしまいましたね・・・。
付録をつけられたのも、これ(「暮しの手帖」96号)に対する評価が高くても、もっと価値あるものにするには、戦後生まれの人たちの意見も必要だと思ったに違いない。

 

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河津:それから、これ(「暮しの手帖」96号、『戦争中の暮しの記録<保存版>』)は非常によく出来ているんです。戦争中の庶民の暮しの記録というだけでも。また、1700通ぐらい集まって選んだその選び方、配列の仕方、非常に全てがよく出来ていると思います。
見返してみて、改めてそう思いました。
小見出しも全てが凝っています。花森さんはよく言っていました。
「小見出しの立て方、活字の選び方、ここに標本をつくっておいたからこれを勉強するように」と。
ただ、戦後70年経ちました。例えば、中国の人が戦争中に被害を受けたというので日本で裁判に訴えることがありましょう。そういうのが起こったときに、我々だってひどい目にあった、空襲にもあったんだと、そういう材料に使われかねないぐらいによく出来ている。
本当は、中国の戦争中の暮しの記録や、韓国の戦争中の暮しの記録というのがあって、それらを一緒に読み比べてみたら、みんなわかりあえるんじゃないかと、今となっては思います。とうとう私たちには出来なかったけれど、本当はそれをやるべきだったのだろう、と思います。

 

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-附録では、私たちはアジアでしたことも忘れちゃいけないとの旨が書かれてありました。
河津:ただ、私は、もっと深めるべきだったと思います。今まで書いてくださった方と、反論を寄せてくださった方との議論がもっと深められていたら良かったと思います。やはり足りないと思っております。こんな立派なものをつくれたのだから、それは出来たはずだと思うんですけどね。
70年経って、最近は考えますね。花森さんは戦後32年で早くに亡くなってしまったからまだそこまで思い至らなかったと思います。私は、幸いといいますか不幸にしてといいますか、まだ生きていると、そういうことを考えます。
中国の戦争中の暮しの記録も、きっとあるんだろうと思うんです。韓国だってそう。もっとすごいことが語られるんだろうと思いますが、ついに、まだ生まれていないですよね。

 

普通の書き方で書かれる、原子爆弾が落ちた様子

 

―終戦時、河津さんは何歳だったのでしょうか。
河津:わたしは1930年生まれですから、15歳でした。
―どちらにお住まいだったのですか?
河津:熊本の陸軍の学校にいました。山と有明海の向うに長崎があるのですが、長崎に原子爆弾が落とされたときは、変な形の雲が上空を覆っていました。ただ、その前に、広島に新型爆弾が落ちていますけれど、それと関連付けして考えることは出来ませんでした。
-「戦争中の暮しの記録」でも、原子爆弾が落ちた様子が生々しく生活者の目を通して描かれていますね。
河津:普通の書き方で書かれています。日常の朝の風景なんですけれど、警報が解除され安心して、夏の盛りで、モンペから着替えてスカートになって朝の支度をしようと思ってバケツに手をやったときに、音もなく目を刺すような白い光が走り、気付いたら家の瓦礫の下にいたと。光る前にも爆発音はあった筈なのに、その瞬間はその音も聞かなかったと、はっきりと。別に科学者が書いたわけではありません。そのときの出来事の様子が、実に見事に書き出されています。・・・感動します。

 

玉音放送を聞いても、みなは何を言っているのかわからなかった。

 

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―8月15日のことも印象に残っていらっしゃいますか?
河津:わたしは、勅語をよく読んでいたので、言われていたことが大体わかりました。みんなはわからんと言って、負けたと私がいっても、負けるものか、と喧嘩になりました。
―どちらで玉音放送を聞いていたのでしょうか。
河津:玉音放送があるというので、集まって、学校で聞いていました。
―周りの生徒さんたちはやはり悔しがったのでしょうか?
河津:悔しがるというよりも、「わからない」、情報不足だから心底悔しがりようもない。
やがて、司令部から連絡が入る。そしたら、やっとちゃんとわかってね、大変でした。
今まで強がっていたやつが急に泣き出すやら。ただ、制空権なんてのは、当時もう日本にありませんでした。空に日本の飛行機は、見えません。みなアメリカの飛行機ばかりでしたね・・・。

 

戦争のこと、今の思いを語る時、先ほどまでの優しい笑顔で場を和ませる河津さんはそこに居なかった。伏し目がちに、言葉を探しながら、ぽつりぽつりと小さな声で話されていく。途切れながらも、悩みながらも。
河津さんの話された言葉を文章にすることは容易いけれど、沈黙の間言葉を探す表情に胸の内を推し量ると、言葉にどれだけの力があろうとも、河津さんの思いを伝えるのには十分ではないのだと感じた。

 

夏になると必ず売れる、不思議な本

 

―『戦争中の暮しの記録<保存版>』について、現役の社員はどのように思っていますか?
村上:わたしが、書籍にかかわって驚くのが、やっぱり毎年夏になると売れるんですよね。
そういった点で、すごく底力のある本だな、と思います。暮しの手帖を代表する書籍の一つで、暮しの手帖社の理念の様にいつも寄り添ってくれている本ですね。
これからも大切にしたいと思っています。

 

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右が現在書籍を担当する村上さん

 

言い残しておきたいこと、「急がないで読んでごらんなさい」

 

―戦後70年経ちました。いま、戦争を体験した人にお話を伺う事が大変難しくなりました。
河津:そうですね。だから、みなさんに言い残しておきたいことは、これは私たちがせっかく作った本だからというわけではなくて。これを、じっくりと読んでもらいたい
―雑誌だけれども、じっくりと読んでもらいたい
河津:私たちは雑誌というと「パラパラとみる」という常套句を思い浮かべます。だけれども、それではこの本はとても読めません。私も、(この取材に合わせて)読んでみたら、なかなか読み終えないんです(笑)。
この本は、最初雑誌の体裁で組まれました。それでも、文字の量がふつうの単行本より圧倒的に多いのです。戦時下の暮しにおけるあらゆる局面での出来事が、淡々と記憶され、追憶され、記録されています。今からみると理不尽きわまることが、まかり通り、通らせた時代の空気が感じられてきます。
―これからこの本を読む若い人へのメッセージをお願いします。
河津:うん、やはり、「急がないで読んでごらんなさい」と言いたいです。
「パラパラと見ないで、雑誌じゃなくて、本を読むみたいに読んでほしい」
そしたらね、すごいことが書いてあると、きっとわかります。平凡な書き方の中に浮かび上がってくる時代の背景。なるほどね、と思います。私もやっといま、わかるところがあります。
あんなに花森さんのもとで叱咤されながら一生懸命やっていたのに、形ばかりつくり上げて、中身はまだまだ読み込んでいないわ、と思いました・・・。いっきに読み飛ばさないで、パラパラと見ないで読んでほしいと思います。急ぐことはないんです。

そうすると、わかってくると思います。

 
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<これは、戦争中の、暮しの記録である。
いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。
……この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである。 編集者>

(<『戦争中の暮しの記録<保存版>』「この日の後に生まれてくる人に」より)