戦後の自動車史を語る上で欠かせないのが1958年にスバルが発売した「スバル360」。「スバル360」を作ったスバルは、創業当時から現代まで独自性のある車を作り続けていて、国内外問わず熱狂的なファンが多いことでも有名です。
そんなスバルの誕生や「スバル360」開発のストーリーについて、富士重工業広報の川勝貴之さんにお話を伺いました。(写真提供:富士重工業株式会社)
飛行機ベンチャーから「平和のものづくり」へ
(写真:中島飛行機が開発した「隼」)
‐まず、スバルの成り立ちについて教えて下さい。
スバルの前身は、中島飛行機という戦時中に戦闘機を製造していた会社です。
この会社は1917年に元軍人である中島知久平が作ったもので、民間の会社としては異例の速度で成長しました。
‐今でいうベンチャー企業のようなものだったのでしょうか?
はい、中島飛行機は日本のベンチャー企業の先駆けといえる存在だったのではないでしょうか。
創業時6名だった従業員は、26万人の就業人員を抱えていました。
‐相当な規模の会社だったのですね。戦時中はどのような飛行機に関わっていたのでしょうか。
中島飛行機では、「隼」の名前で知られる一式戦闘機の自社開発と生産、また、ゼロ戦のなどに搭載されたエンジンの開発、製造を行うなど、相当な技術力を持ち合わせていました。
‐戦前〜戦時中は飛行機一筋で製造を行ってきたのですね。しかし、終戦を境に日本はGHQによって飛行機製造を禁止されます。
中島飛行機は飛行機の製造を禁止されただけでなく、会社自体を12個の会社に分解されることになります。
分解後の各社は、戦前に持ち合わせていた技術を用いて、平和利用に方針転換し、新たなものづくりを続けられないかと頑張っていました。
‐平和利用のものづくり。戦前から大幅な方針転換になりましたね。
作るものが変わったと言え、戦前技術の継承はしっかりと行われていました。
例えば、ある工場では、鉄鍋の製造を行いながら、バスのボディなどを作り始めました。
これには戦時中の溶接の技術が活かされていましたし、また別の工場では、ラビットスクーターを作っていたのですが、このスクーターの試作品の前輪には、戦後余ってしまった飛行機のタイヤを流用して作られていたのです。
‐その経験が自動車につながったのですね。
はい、ラビットスクーターでの実績を積んだ富士重工業は、自動車業界への参入を試みます。そこで、解体された元中島飛行機の会社のうち、5社が集結し新しいブランドが誕生するという意味あいも込めて、六連星で有名なプレアデス星団からもじったスバルというブランドが誕生したのです。
「スバル1500」の頓挫が生んだスバルの思想
‐スバルが誕生した後、最初に作られた車はどのようなものだったのでしょうか。
スバルが誕生して一番最初に作られたのは、「スバル1500」という車になります。
スバル1500は車としての完成度も非常に高く、開発もうまく進んでいました。
しかし、スバル1500は試作車が数台作られたのみで計画を終えてしまいます。
‐なぜ、計画が止まってしまったのですか?
一言でいうと資金難です。量産化にあたり工場を建設したり、販売網を新たに整備したりする費用が捻出できなかったのが原因です。
無名のスバルが他社と同じような乗用車を販売して、事業として成り立つかどうかも不透明でした。
この時の出来事から、スバルは他とは違うものを作らないとやっていけないという意識が芽生えました。その思想が実現されたのが、「スバル360」になります。
‐売れる車を作るという前提がありながら、他のメーカーとは違う車作りをする、現在につながる「スバルらしさ」が見えますね。
その通り、現代においても、我々は他のメーカーよりも特徴的な車づくりを志向していますが、その原点は「スバル360」の開発にあります。
現在に受け継がれる「スバルのものづくり」
(写真:現在でも名車として語り継がれるスバル360)
‐「スバル360」がスバルの歴史において重要な役割を果たしてきたことがよくわかりました。そもそも「スバル360」自体の開発にはどのような苦労があったのでしょうか。
「スバル360」製作を実現するにあたって大変だったのは、なんといっても小型でありながら高性能なクルマというハードルを超えることです。
しかし、戦前の飛行機作りの頃から持っていた技術を継承し続けていたことによって、他社に先駆けて、「スバル360」を開発することに成功したのです。
‐「スバル360」の開発には、どのように飛行機作りの技術が反映されているのでしょうか。
「スバル360」の設計を行ったのは、中島飛行機時代の飛行機の設計者でした。
小さなボディでいかに強度を保つのか、視界の良さをどうやって確保するのか、といった部分に、飛行機作りのノウハウをもとに、非常にこだわりを持って設計されました。
その結果、「スバル360」は、それまで車に縁のなかった人々からも非常に高い評価をいただきました。
当時の報道では「世界水準を行くミニカー」と絶賛され、お客様の間からはその可愛らしい姿から「てんとう虫」という愛称で呼ばれるようになりました。
生産も1958年から1970年までの間に、39万2000台が誕生しました。
-まさに記念碑的な製品ですね。「スバル360」の時に培われた技術は今でも受け継がれていますか?
実は、現在発売されているレヴォーグという車種でも、「スバル360」の開発の時に考えられていたこだわりは受け注がれています。
例えば、ピラー(※ボディと天井をつなぐ車の柱となる部分)の設計において、右左折を行った時にドライバーが歩行者を巻き込みをさせないような視界の広さを実現しているなど。
これは、「スバル360」の設計思想が今でも受け継がれているからなのです。
また、「スバル360」は駆動方式がRR(エンジンを自動車の後ろに起き、後輪を駆動させるレイアウト)だったのですが、1961年に発売され2012年まで自社生産が続けられたサンバーという軽トラックでも、非常に長い期間RRが採用されていました。
‐なるほど、やはり「スバル360」の存在は非常に大きかったのですね。他にも受け継がれている技術はありますか?
スバルの車の目玉として、水平対向エンジンという独自技術があるのですが、これは車自体が低重心になることで、全体のバランスが上がり運動性能を確保することができるというものです。
戦後、1965年に発売されたスバル1000という車に初搭載され、現行でも発売されているレヴォーグやレガシィ、インプレッサといった車にも継承されています。
‐昔からの技術をしっかり継承し、非常に多くのこだわりを持って車作りに臨まれているのですね。今後、スバルとしてはどのようなものづくりを展開していきたいと考えていますか?
「スバル360」の時に実現した居住性、快適性、運動性を大切にしながら、他とはちがった、ユニークな車を作り続けていければと思っています。
今の時代、車のコモディティ化が進んでいますが、車を運転する喜びはいつの時代も普遍的なものです。
お客様が乗ってワクワクして頂く車を作るには、中島飛行機時代から受け継いでいる技術やルーツを重視して、スバルならではのものづくりを実現していきたいです。
‐ありがとうございました!