今年創業128年目を迎えるヤマハ株式会社。戦後生まれの世代にはもちろん、その名は海を越えて世界各地で知られている。
今回から不定期連載する「おんがくしつの楽器史」では、戦後日本の小学校教育を受けた人には馴染み深い3つの楽器「ピアノ」「リコーダー」「鍵盤ハーモニカ」に注目し、その知られざる歴史を紐解いていきます。レポーターを務めるのは、「音楽室で使ったあの楽器、実はこんなに面白い!」をコンセプトに、2014年に結成された前代未聞の3人組アーティスト「おんがくしつトリオ」。
調律の基準音であるA音が440Hzであることから設定された4月4日「ピアノ調律の日」に合わせて公開する第一弾では、「おんがくしつトリオ」リーダー・ピアニスト内藤氏がヤマハ社員3名に直撃インタビュー。
幅広い世代に愛されてきた「ヤマハピアノ」の開発裏話から、ヤマハサウンドの魅力までをたっぷりと語った、ピアノ愛にあふれるちょっとディープなレポートです。
※登場人物:
ピアニスト・作曲家 おんがくしつトリオ リーダー・ピアニスト 内藤晃氏(右)
ヤマハ(株)広報部 宣伝・ブランドマネジメントグループ 木村智子氏(中央手前)
(株)ヤマハミュージックジャパン ピアノアーティストサービス東京 鈴木俊郎氏(左)
(株)ヤマハミュージックジャパン ピアノアーティストサービス東京 一瀬忍氏(中央奥)
日本のピアノ史はわずか100年
日本へ最初に西洋ピアノがやってきたのは、江戸時代後期の鎖国時代。当時唯一開港していた長崎に、1823年にドイツ人医師シーボルトが、萩の熊谷五右衛門義比(くまや ごえもん)に贈ったスクエア・ピアノが、日本にもたらされた最古のピアノである。
明治新政府になり、リードオルガンの輸入が開始されると、各地の小学校へ唱歌伴奏のため導入が進み、1887年(明治 20 年)ヤマハ創業者の山葉寅楠(とらくす)が、浜松の小学校で壊れたオルガンの修理に携わる。それを機に、国産オルガン開発の夢を描いた瞬間から、現在のヤマハ誕生ストーリーは始まった。
(写真:ヤマハ創業者の山葉寅楠【とらくす】)
1900年(明治 33 年)、山葉はアップライトピアノ第一号を完成。2年後には、グランドピアノを完成させるほどの驚異的なスピードでピアノ開発は進む。しかし、楽器生産は平和産業。戦時色が濃くなると同時に、ピアノ工場は軍需工場と化する。1944年(昭和19年)、ついに楽器生産は休止。ヤマハの技術は航空機のプロペラ等の生産に転用され、大空襲で工場、営業所も大打撃を受けた。
(写真:明治30年代のアップライトピアノ)
(写真:明治40年代のグランドピアノ)
夫は「マイカー」、妻は「ピアノ」がシンボルの高度成長期
戦時中、ピアノ生産は停止を余儀なくされたものの、戦後復興のシンボルとして「ヤマハピアノ」の名が世に浸透するまでの期間はわずか20年弱。昭和 30 年代後半から40 年代は、日本のピアノづくり黄金期と呼ばれる。高度経済成長期に突入し、人々が消費に喜びを見出すようにな ると、夫は「マイカー」、主婦は「ピアノ」を豊かさの象徴として持つ事が「夢」となった。
贅沢が許されなかった戦時中、青春時代を過ごした女性にとっては、ようやく平和と心の豊か さを享受できるようになった時代。お稽古事としての需要とともにピアノ人口は急成長していった。住宅事情の変化も伴い、「一家に一台」と呼ばれたピアノ需要は、生産が一時追いつかないほどまでに成長した。
1963 年(昭和38年)には、住宅ローンならぬ「ピアノローン」の制度も登場することで、ますます家庭への普及は浸透。結果、現在日本はピアノ成熟市場となったが、中国を中心とした新興国にもピアノユーザーは広がり続けている。
ピアノ世界生産台数一位
1965 年(昭和 40 年)、ヤマハはピアノ世界生産台数一位を記録。戦後わずか 20年余のうちに、 世界最大のピアノ生産国にまで成長した。その背景には、ピアノづくりの工程の中で、機械的に作れる部分と作れない部分の見極めを行いながら、いち早く科学的手法と 近代設備の導入を取り入れたことにある。1963年に西山、1965年には掛川にそれぞれ最新鋭のアップライトピアノの工場を設置。製造工程のコンベア化なども実現し、品質の向上と量産効 果による生産コストの低減という一石二鳥を図る事を可能にした。
(写真:昭和30年代後半のピアノ工場)
すべて手作業 「最高峰のピアノづくり」で世界に挑む
ヤマハは戦後復興の中で「家庭で音楽を楽しめる日常」を提供する事とあわせて、真剣に模索 して来たテーマがあった。それは「スタンウエイに負けないコンサートグランドピアノをつくる」という目標だった。「安くて良いピアノを多くの人に届ける」という使命とあわせて、プロ のピアニストが能力と芸術性を十二分に発揮できるコンサートグランドピアノを作ることも、世界のヤマハを目指す上では必須だった。そのため、ピアノの量産、普及双方に力を入れながら、最高峰のピアノ作りへの思いも温め続けていた。
「ピアノ史300年の歴史上、ピアノは特に大きな変化はないと思われがちであるが、実は常に改良され続けている」と語るのは、ヤマハ広報部の木村さん。大量生産が可能になったピアノではあるが、コンサートグランドピアノは一台一台、ほぼ手作業で作られている。
2010年に登場したコンサートグランドピアノ(CFX)は一から設計を見直した。中身の構造、素材、塗装、すべてを従来のモデルに変更を加えている。いかに演奏者が求める音を鳴らすことができるか、という飽くなき探求から、心臓部の響板を独自のクラウン型にすることで、より豊かな音色を作れるような工夫を凝らし、骨組みをよりしっかりしたものに見直す等、改良を重ねた。
内藤さんに、3台のCFXを試弾してもらった。3台とも同じ型でありながら、音の鳴り方、特徴に違いがあることをひとつひとつ確かめる。前モデルのCFIIISに比べて「よりリッチな、煌びやかな音」に進化した印象を持ったという。
「サロンのピアノは、日々コンサート会場や弾き手に合わせて調律され、形は変わらずとも表情を変えて出発し、帰ってきます。」と話すのは、優れた弾き手であり伝え手のヤマハ商品企画部・一瀬忍氏。(写真左)
「幅広いピアノの楽しみ方を提供することで、音楽人口を増やしたい」と夢を語る一瀬氏の想いは、「ヤマハ・スピリット」そのもの。後編ではCFXの裏話、開発に込めた思いを更に掘り下げていく。