「被爆の惨禍を受け、広島市は焼け野原となりました。」
そのような広島で、戦後の食糧難のもと、空腹を少しでも満たしてくれたのが、「一銭洋食」(お好み焼きの前身)でした。
「一銭洋食」とは、水で溶いた小麦粉を鉄板で焼いた上に、刻んだネギなどを載せてさらに焼きソースをかけたもの。大正時代に誕生し、駄菓子屋で売られていたことから戦前は「子どものおやつ」とされていました。しかし、材料そのものは二束三文でも、短時間に出来あがり、食すことが出来たので、戦後の広島市内の屋台に広がっていきます。
今回は、「Wood Eggお好み焼館」を運営しているオタフクソース株式会社の籔植さんに、戦後広まったお好み焼きと、同じく広島で生まれたお好みソースの誕生秘話を伺いました。
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籔植 利佳 オタフクソース株式会社 お好み焼館 ご案内課
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オタフクソースのものづくりはお酢から
‐「オタフクソース」の社名は、商品にちなんでつけられたのでしょうか?
オタフクソースは今でこそ、「お好みソース」や「焼そばソース」などでソースの会社とイメージされると思います。でも、ソースを作り出して売り出したのは戦後のことです。
大正11年(1922年)に、卸小売業の「佐々木商店」として創業したのち、ものづくりをはじめたのはお酢からで「お多福酢」と名付けていました。
‐お酢がメインだったことに驚きました!
そうですよね。創業者・佐々木清一、自らこうじを育てて、お酢を醸造していたんです。
それが昭和13年(1938年)のことでした。
‐その当時から「お多福」という言葉が使われていたのですね。「お多福」にはどういう思いが込められていますか?
「お多福」には、「みんなが笑顔で幸せになるように」との願いが込められています。創業者の人を大切にする思いは、オタフクマークにも表れています。
いつも笑顔を絶やさない、ほそい目
謙虚な姿勢、ひくい鼻
かしこい知恵がある、広いおでこ
人の話をよく聞く、大きな耳
心も体も健康、ふっくらしたほっぺた
無駄なことや人が傷つくことを言わない、小さな口
お好み焼き店と二人三脚で生まれたお好みソース
‐広島市西区横川で開業された「佐々木商店」、広島への原爆を受けて戦後はどのように歩まれたのでしょうか?
はい。被爆の惨禍を受け、広島市は焼け野原となりましたが、肉親や友人知人を亡くしながらも、なんとか復興に立ち上がりました。
そのとき、空腹を少しでも満たしてくれたのが、「一銭洋食」(お好み焼きの原型)でした。
短時間にできるし、食べることができるので、次第に広島市内に屋台ができるようになったのです。
現在の新天地公園周辺には、戦後たくさんの屋台ができて、現在の「お好み村」の形が出来上がりました。
‐お好み焼きのお店がたくさん出来ると、いよいよソースの出番という感じがします。御社がお好みソースを開発した経緯とは?
当社は1938年に醸造酢の製造を開始していましたが、戦後は、「洋食の時代がくる」とウスターソースの製造に取り組み、販売を始めたのが1950年です。
当時ソース業界では後発メーカーだった当社のソースは、なかなか取り扱っていただくことができませんでした。
そこで、直接当社の味をみていただこうと屋台や飲食店の訪問を始めます。
その中で訪問したのが、お好み焼き店です。その頃のお好み焼きには、ウスターソースがかけられていました。
出来上がったウスターソースを携え、お好み焼き店を一軒一軒訪問していくうちに、「サラサラとしたウスターソースはお好み焼から流れ落ちて、すぐに鉄板の上で蒸発してしまう」など、ソースについての店主の悩みを知ります。
そこから、お好み焼に合うソースづくりの日々が始まりました。
つくっては味をみていただいて・・・と店主とのやりとりを何度も重ねながら、味やとろみなどを調整し、お好み焼き用のソースが誕生したのは1952年のことです。
‐今のお好みソース誕生背景にはウスターソースの存在があったのですね。
今のお好みソースの独特の甘さを出すのは大変に難しいのではないかと思います。そこをどう乗り越えたのでしょうか?
ソースの主原料は野菜果実で、中でもお好みソースのこだわりは、デーツです。
デーツとは、なつめやしの実で、中近東諸国では「めぐみの果実」として古くから人々の健康を支え、砂漠を行くキャラバンの保存食や栄養補助職としても愛用されています。
当社では、1975年から使い始めていますが、当時は砂糖が高価だったため、その代替品として、コクのある甘味が特徴のデーツを使用していました。
そのうち価格は逆転しましたが、デーツの高い栄養価や豊富な食物繊維など、お好みソースにとって利点が多いため、甘みの一つとしてこだわって使い続けています。
「お好み焼き」に引き継がれる「一銭洋食」の名残
‐今のお好み焼きに「一銭洋食」だったころの面影を見ることは出来ますか?
一銭洋食は、「子どものおやつ」でしたが、キャベツやもやしなどでボリュームを増やし、大人もお腹を満たすことができるお好み焼きという「食事」になりました。
また、当時は屋台で、水道が今の蛇口のようにふんだんに使えるわけでなかったため、食器を洗う水ももったいなかった。
そこで、鉄板で焼いてそのまま、ヘラで食べると、食器を洗うこともないと考えられたんです。
今でも、広島のお好み焼きの食べ方の特徴として、「ヘラ」を使って食べる点が挙げられます。
‐当時はどういう感覚で「一銭洋食」を食べていたのでしょうか?
当時は、子どもたちも学校から家に帰って、駄菓子屋にお菓子を買いに行く感覚で「一銭洋食」を食べに行ったそうです。今のお好み焼きと違う点として、○のかたちの半分に折り目をつけて、扇形にして、新聞に巻いて食べていたんです。
‐他にも、お好み焼きと一銭洋食の違いがあるのでしょうか?
一銭洋食の生地は、小麦粉1に対して水3。広島お好み焼きの生地は小麦粉1に対して、水1.5。
当時は、小麦粉が貴重だったため、ふんだんに使えなかった事情もあるのだろうと思います。
オタフクソースはもうすぐ創業100周年
‐気になる質問を。関西風と広島のお好み焼きの違いはどんなところにあるのでしょうか?
広島のお好み焼きは、小麦粉を水で溶いた生地を薄いクレープ状に焼いてから、上に具を載せて蒸し焼きにする料理です。
それに対して、関西風は、具材を全て混ぜ合わせてから、焼く料理です。
‐なるほど。蒸し焼きと焼きの違いなのですね。そんな広島お好み焼きとともに歩んできたオタフクさん、2022年には創業100年を迎えますね。
はい。ここまで育てていただきましたので、これからも多くの人々に喜びと幸せを広められるよう、お好み焼きの食文化を広めてまいります。
‐本日は、身近なお好み焼きから戦後との繋がりを確かめられました。
被爆の戦禍から立ち上がろうとする広島での、「一銭洋食」とオタフクソースの出会いが背景にはあったのですね。ありがとうございました。
ありがとうございます。
(取材:平岡君啓、編集:兪彭燕)