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日本復興の象徴「明治神宮」が伝える戦後70年の空気と秋の大祭

東京都渋谷区代々木。新宿の高層ビル群を背景に、広大な明治神宮の森が広がります。

都会の真ん中の森ですが、鳥居をくぐると深い山の中のような雰囲気に変わり、その奥には明治神宮がご鎮座しています。

 

明治神宮は大正9年(1920年)11月1日に創建された、明治天皇と昭憲皇太后のご神霊をお祀りする神社です。

今回は11月3日の明治神宮の『秋の大祭』を前に、明治神宮広報担当者に、明治神宮の戦後70年についてのお話を伺いました。当時の様子をインタビューを交えてお送りします。

 

明治神宮大鳥居

 

 

戦前の自然が残る明治神宮

 

 

―明治神宮の森には、オオタカやタヌキの家族が生息しているそうですね。

 

この森は今から100年前(大正4年)に造成された人工の森です。現在では自然養成の状態に近づいています。神域の鎮守の杜なので、参道を外れて森の奥に立ち入ることができません。なので普通の森とは少し違う生態系になり、粘菌や鳥や魚などに珍しい種類のものがいます。また高い木が多いからか外来種が入りにくく、今では希少になった在来種のカントウタンポポも自生しています。

 

―東京の真ん中に戦前の日本の自然が残っているなんて凄いですね! 杜に入って鳥居をくぐると、少し空気も変わるような気もします。

 

確かに違いますね。原宿の駅前と明治神宮の境内を比べると、隣接しているのに全然違います。この違いを科学的に研究している方もいるんですよ。

 

―その研究の結果も楽しみですね!

 

 

明治神宮のご創建

 

 

御社殿

 

明治神宮のはじまりは、100年以上遡ります。明治45年(1912年)7月30日、明治天皇がご崩御されると、そのご聖徳を慕う国民の間から「明治天皇のご神霊をお祀りする神社を創建したい」という声が沸き上がりました。

その先頭に立ったのが、日本資本主義の父と呼ばれた澁澤栄一でした。

 

そして明治神宮造営にあたり、国内外から1千万円(現在の2千億円とも?)の浄財があり、10万本の樹木が献納され、11万人に及ぶ青年奉仕団が境内造苑工事を行いました。

 

そして大正9年(1920年)11月1日、明治神宮がご創建されました。

ご鎮座祭にはこの日だけで全国から50万人の参拝があり、表参道、北参道、西参道とも、鈴なりの群衆で賑わったそうです。

 


 

―明治神宮が造営される前は、この場所には何があったのですか?

 

明治神宮が出来る前、この辺り一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)といって、現在の御苑一帯を除いては荒地が広がっておりました。

現在の御苑は江戸時代の始め頃は加藤清正の下屋敷でした。その後、彦根藩の井伊家の下屋敷になり、明治になると宮内省の管轄となり『代々木御苑』と呼ばれる庭園になりました。明治天皇や皇后様も度々訪れて散策を楽しまれたそうです。この庭園には『清正井』や菖蒲田などがあり、今も大勢の人が訪れます。

 

原野が100年で深い森になったのですから、当時の林学者の方々の英知には驚きます。

 

―『清正井』は、パワースポットとしても大人気ですね。

 

この名水の井戸があったことで菖蒲田が出来、明治天皇と皇后様ゆかりの庭園が生まれ、それがきっかけで明治神宮ご創建の場所に選ばれたことを考えると、明治神宮の原点は『清正井』と言えるのかもしれませんね。

 

 

空襲による焼失

 

 


 

昭和20年(1945年)4月13日、先の大戦による空襲により、明治神宮はご本殿をはじめとする主要な建物をことごとく焼失してしまいました。

 

―神職の方々はもちろん、軍や消防、地域の青年団が総出で消火にあたり、ご神霊の大御霊はお守りすることができましたが、御社殿は大部分が焼失してしまったそうですね。

 

境内には1330発の焼夷弾が投下されました。

 

―拝殿の前にある3本の大楠だけが、真っ黒に焼け焦げながらも生き残ったと聞きました。

 

木々は被害が少なかったのですが、御社殿は神門と宿衛舎と祓舎以外、すべて焼失してしまいました。

 

―あの立派な南神門は大正時代の創建当時のものなのですか。御社殿のほとんどが焼失したと聞いたので、神門も昭和に再建されたものだと思っていました。

 

 

戦後の復興

 

 

終戦から約半年が経過した昭和21年5月31日、半年かけて造営を進めていた仮殿が竣功し、仮殿遷座の儀が執り行われました。

戦後初めての『手数入り(でずいり)』が、横綱安藝の海関と横綱輝國関によって奉納されるなど、諸行事が6日間続きました。

 

そして6月1日に「明治神宮のご祭神のご聖徳を心の拠り所として、健全な精神を呼び起こし、日本の国づくりと世界平和のために寄与したい」との思いから、『明治神宮崇敬会』が創立しました。

 

そしてサンフランシスコ講和条約によって日本の独立が回復した昭和27年(1952年)、「明治神宮の再建復興なくして、日本の戦後復興はない」という声が沸き上がり、『明治神宮復興奉賛会』が結成され、いよいよ明治神宮の復興事業が始まりました。

 

まだ日本が貧しかった時代だったにも関わらず、国内外から6億円(現在の120億円とも?)もの浄財が寄せられ、昭和33年(1958年)10月31日、明治神宮は戦災復興を果たしました。

 

『明治神宮復興奉賛会』会長の宮島清次郎氏は以下のように述べています。

「神宮の杜をあのままにしておくことは、国民として忍び難い。(中略)日本は明治大帝によって近代国家に進み得た。この大帝の偉業を偲ぶ社殿の復興を実現するのは、明治生まれの人間の義務ではあるまいか」

 


―戦後復興は、本当に大変なご苦労だったと思います。

 

明治神宮の復興ということでは、やはりこの『明治神宮崇敬会』と『明治神宮復興奉賛会』、そして茨城県の『明治神宮靖国神社献饌講』の方々のお力が大きかったと思います。

 

 

戦前から70年以上、明治神宮を支え続けた茨城献饌講(けんせんこう)

 

献饌講鏡餅

 

 

昭和16年に発足した『茨城県献饌会』は、3月1日の『月次祭』と3月8日の『大詔奉戴日』の日に、70年以上もの間、毎年欠かさず鏡餅・野菜・鮮魚などを、明治神宮と靖国神社に奉納し続けています。戦争中は上京の途中で空襲に遭うこともあり、まさに命懸けの献饌でした。

 

そして敗戦により、国民の間に「神も仏もあるものか」という退廃的な考えが広がる中でも『茨城県献饌会』の奉納は続けられました。初代講元を引き受けた黒澤忠次氏は、「この混迷の中にこそ祖国再建の基礎は神の道にある。」と述べています。

 

『茨城県献饌会』は、一人1年3升のお米を献穀する人々を集めて講を作り、昭和21年1月に『明治神宮靖国神社献饌講』と名を改めました。そして自分たちは芋を食べながら、食糧事情の悪化により日々の祭典や日常のお米に困っていた明治神宮を支え続けました。

 

昭和33年(1958年)の明治神宮ご社殿ご再建の際には、ご社殿御造営用の木材3千石(長さ3m、幅・厚みが30センチの木材3000本)の奉納も行いましました。その際には新宿駅から明治神宮まで、沿道の人々に見守られながらの『お木曳』が行われました。講員145名で木材を曳き奉納したとのことです。

 

『明治神宮靖国神社献饌講』は父や祖父から二代目、三代目を引き継ぎ、現在も献饌米奉納を行っています。

 

 

113日・明治神宮「秋の大祭」

 

 

11月3日の『文化の日』は、明治時代は『天長節』、昭和2年からは『明治節』、終戦後は『文化の日』と呼ばれています。明治天皇のお誕生日を祝うこの日、明治神宮では宮中からの勅使参向が行われ、『秋の大祭』が執り行われます。この日も『明治神宮靖国神社献饌講』から鏡餅などの奉納が行われますが、様々な日本の伝統芸能の奉納も行われます。

 

代表的なものとしては、10月31日に神前舞台奉納される舞楽(ぶがく)や、

 

舞楽

 

11月1日に神前舞台で演じられる日本三曲協会による『収穫の野』『寿くらべ』といった三曲が挙げられます。

 

三曲

 

そして11月2日には能と狂言の奉納、11月3日には、広大な明治神宮の杜の境内の至る会場で、大日本弓馬会による流鏑馬の奉納や、弓馬術礼法小笠原教場による百手式(ももてしき)などが行われます。

 

流鏑馬

 

その他にも、薩摩琵琶の奉納、全国弓道大会、合気道演武、古武道大会、菊花式、郷土芸能、東京農業祭など、様々な伝統芸能や品物が奉納されます。

 

 


 

―私は去年「秋の大祭」に来て、こんなに素晴らしい伝統芸能の数々を間近で観ることが出来て、本当に贅沢で凄いことだと思いました。

 

明治天皇のお誕生日という、明治神宮にとって一番大切な日に、神様に一番近い場所で伝統芸能をご奉納される。そして観客の方々も一緒に観て楽しまれる。素晴らしいことだと思います。

 

 


 

現在東京は、平成32年(2020年)の東京オリンピックに向けて大きく変わろうとしています。そしてこのオリンピックの年、明治神宮はご鎮座100年を迎えますが、5年後の日本はどうなっているのでしょう。

 

今も街や国を見守る明治神宮、この秋の大祭を通じて明治天皇に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。