札幌市の中心部を横断する大通公園。北海道の冬の風物詩であり日本を代表する冬の祭りである「さっぽろ雪まつり」の開催地として有名ですが、春から秋の間はさまざまな花壇で彩られます。札幌市民に愛される大通公園、今回はその意外な歴史を、書籍「さっぽろ文庫 大通公園」(札幌市教育委員会編)を元にご紹介します。
大通公園、130年の歴史
大通公園の花壇の歴史は130年前にさかのぼります。1876年(明治9年)に、北海道開拓使が輸入した西洋花を現在の大通西3丁目・4丁目に植え始め、1880年(明治13年)には「豊平館(ほうへいかん)」という、高級西洋ホテルが大通西1丁目に建設され、和洋折衷の新しい様式の庭が大通にはみ出すように設置されました(ちなみに、最初の利用者は明治天皇)。花壇の造成と時を同じくして、黒田清隆(開拓使長官・内閣総理大臣などを歴任)像・永山武四郎(北海道庁長官などを歴任)像なども建立されました。
その後、1907年(明治40年)に札幌興農園(当時)の小川二郎氏が自費で花壇造成をスタートし、1923年(大正12年)に札幌市が正式に逍遥地(公園)として整備しました。そして戦争を経て、1954年(昭和29年)からはボランティアの花壇造成業者が「札幌市花壇推進組合」を結成、現在も毎年6月に開催されている花壇コンクールが始まりました。
こう書いてしまうとサラッとしていますが、今の大通公園の美しさしか知らない札幌市民には意外な歴史もあったのです。
戦争に翻弄され続けた大通公園
それは15年戦争の時期。札幌は空襲こそ逃れましたが、戦時中は物資の調達のためにさまざまな規制が敷かれ、戦後は米軍接収により多くの土地・施設が自由に使用できなくなっていたのです。
太平洋戦争後期の1943年(昭和18年)には豊平館が北部軍飛行第一師団司令となり、黒田清隆像などの銅像は軍事資材として供出されました。また、大通は街中に広大な土地があったことから、空襲に備えた防空広場とされ、1944年(昭和19年)には食糧不足対策のために一面が芋畑になってしまったのです。
そして終戦後は、米軍用の教会・野球場・テニスコートなどを建設するため接収され、逍遥地としての役割は大きく後退していきます。今のような都市型公園の礎が作られ始めたのは、1950年(昭和45年)の接収解除の後でした。特に花壇造営には注力し、札幌市内の造園業者(最終的には50業者が参加)と札幌市の協力により、全国的にも注目されるようになりました。
戦争を生き抜いた札幌の中心は「市民の憩いの場」へ
ちなみに、大通公園にはこのような時代を生き抜いた建造物が、2つ残っています。ひとつは、大通西5丁目にある「聖恩碑」。これは、1939年(昭和14年)に完成した、明治・大正・昭和の三大天皇の業績をたたえた石碑です。
そしてもう一つが、大通西13丁目にある「札幌市資料館」。1926年(大正15)年に建てられた札幌控訴院(後の札幌高等裁判所)で、札幌軟石という当時の建築に最適とされた石を使用した建築物としての評価も高い建物です。
現在は札幌市民の憩いの場として親しまれている大通公園ですが、戦時中の大変な時期を超えて、現在があるのです。