人間は、時短が得意な生きものだ。
マタニティマークをつけた人が電車に乗ってきたら、何も聞かずに「妊婦さんだから、席に座りたいはずだ」と考え、席を譲るだろう。このとき、その人が「本当に今、座りたいと思っているか」を確かめる人はほとんどどいない。
相手の「属性」を判断して、行動に移す。これがここで言う、時短である。
「あなたってどんな人?今、どう思ってる?」そんなことを聞く時間を取らずに、まずは属性で判断する。こういうことがたくさん起きているのが人間の社会なのだが、この時短は、ときに誰かを救う反面、誰かの本来の意思を無下にしてしまうこともある、という事実に、私たちはもっと自覚的になったほうが良いのかもしれない。
世の中には「ラベル」がたくさんある
例に挙げた「妊婦」のように、「外国人」「LGBTQ」「障害者」「おじいさん」「ギャル」などの「ラベル」は誰もが持つもので、家庭や職場、学校など、その場によって人が持つ「ラベル」は変わる。
この「ラベル」は、とある特徴を持った人たちをひとまとめにし、認識・対応しやすくするためにある。「外国人」であれば、「箸は使えないだろうから、スプーンを渡してあげよう」。「おじいさん」であれば「耳が遠いだろうから、大きめの声で話そう」というように、人々はほとんど無意識に相手を判断し、生活している。
この「無意識の偏見」は、必ずしもネガティブな決めつけだけではない。やっかいなことに私たちは「良かれと思ってした決めつけ」におそろしく無自覚で、それが誰かの本来の意思を阻害していることに気づきにくい。そして挙句の果てに「あなたのためにやって(言って)あげているのに」という気持ちになってしまうことがある。特に「LGBTQ」などの性的マイノリティに対して理解を示し支援する立場をとる人たちのことを「アライ」と呼ぶが、この決めつけによってせっかく「アライ」でいたい気持ちがあっても逆に誰かを傷つけてしまうこともあるということだ。
ほんとうにあなたに偏見はないのか
たとえば、あなたの部下が結婚したとする。「最近結婚したばかりの女性」という「ラベル」を持った彼女に対し、あなたは良かれと思って、こんなことを考えるかもしれない。
「彼女は、結婚したばかりだから家庭に重きを置きたいだろう。いずれ子どもが産まれたら責任の重い仕事はできないだろうし、早く帰してあげたいな。昇格はさせなくていいだろう」
あなたにとって、この判断は「結婚した女性」のために良かれと思ってしたことであり、意地悪な気持ちはないかもしれない。しかし、そんな「無意識の偏見」は押しつけであり、仮に本人に確認せずに出世コースから外してしまうなどすれば、それは偏見に基づく差別になってしまう。
そもそも「ラベル」に対する答えなど、ない。つまり「最近結婚したばかりの女性」にもいろいろいるということだ。責任の思い仕事をしたいのかどうか、子どもを持つかどうかだって決めつけることはできない。相手が「結婚した女性」であるからと言って、勝手にこちらの思い込みで決めてはいけないのだ。
しかしながら、この「良かれと思って」ができる自分を「偏見がない」と勘違いしている人も少なくない。相手の持つ「ラベル」に対して配慮ができているのだから、差別や偏見とは遠いところにいる、と思い込んでいるのだ。
自覚するという第一歩
こんな記事を書きながらも、私は、自分が持つ偏見への無自覚さにハッとしてしまうことがある。編集長を務めるメディア「Palette」のインタビューで、以前「ギャル」というラベルを持ったゆきぽよ(木村有希)さんにインタビューをした。
インタビューしてみて、ぶっちゃけ「ギャル」ってLGBTQ+への理解とは程遠いところにいるんじゃないかな?とドキドキしていた自分に気がついたのだ。ドキドキの正体は、時短によって生み出された「ギャル」というラベルへの偏見だった。
彼女に対峙して初めて、私は彼女を「ギャル」というラベルではなく「ゆきぽよさん」という個人として認識できたのかもしれない。
「偏見がない」人など、いない。人間は時短が得意な生き物だから。
LGBTQ+やフェミニズム、無自覚のバイアスについてメディアを運営している私ですら例外ではなく偏見を持っている。ただ私は最近、自分の偏見を自覚することができるようになったと思う。
方法はカンタン。自分の「良かれと思って」を探すのだ。そして「そうとは限らないよね」と一度立ち止まってみること。そして、その「ラベル」ではなく「個人」とのコミュニケーションを持つこと。「偏見を持たないようにしよう」と考えるよりも、自分の持っている偏見やその傾向を知るだけで、私たちは、もっと目の前の「個人」を大切にすることができるのだ。
正解をやろうとしなくていい
「外国人」というラベルを持つ人に対し「外国人への正しい対応」が何なのか頭を捻る人がいるが、正解などない。大切なのは、彼らを「外国人」としてではなく、「個人」として扱おうという気持ちを持つことではないだろうか。「全日本人」への正解の対応がないように、人々は多少の傾向はあるにしても、特定の「ラベル」でひとくくりにするにはあまりに多様なのだ。
正解がないということを知り、ひとりひとりへの対応をサボらないこと。それが私たちにできる「偏見がない」世界への近道なのではないかと思う。その姿勢こそが自分と違う「ラベル」を持つ人への支援の気持ち、つまり「アライ」としての姿勢ということではないだろうか。