西条市周桑地区は県内随一の経営耕地面積を持つ田園地帯です。懐旧の情を起こさせるこの地域に、地元の伝統工芸を受け継いだ若い夫婦が自然体で暮らしています。

手すき和紙 森田屋は、職人である高昌(たかあき) さんとマネジメントを手掛ける美希さんが夫婦二人三脚で営む新しいカタチの和紙専門店です。


西条市で生まれ育った“田舎もん”と田 舎暮らしに憧れた“都会もん”の出会いが生み出す「協調と競争のゆるやかな調和」がありました。

#1 周桑手すき和紙の歴史

愛媛県西条市周桑地区に手すき和紙文化が生まれたのは今から約200年前。農業だけでは食べていくことが難しく、冬の農閑期に紙をすいて生計を立てようと、先人が越前地方発祥の技術を持ち帰って広めたそうです。石鎚山の豊富な地下水もあり、最盛期には100軒以上もの紙すき場が軒を連ねていましたが、洋紙や機械和紙の台頭により、大幅に業者が減少。現在、市内には7軒の業者が次の世代に和紙文化をつなごうと奮闘しています。

 

「水」が欠かせない和紙産業ですが、この地で手すき和紙文化が発展した背景にはどうやらこのまちの 「人柄」も関係しているようです。

 

#2 手すき和紙との出会い

この地で生まれ育った森田高昌さんは、教員を目指して大阪の大学へ進学しました。大学2年の夏休み、アルバイト先を探していた高昌さんは、たまたま知り合いを通じて地元の手すき和紙工房の見学に行きます。その時、職人さんが畳一畳もの大きな和紙をひとりで漉く姿に高昌さんは大きな感銘を受けたそう。もともと「ものづくり」に興味があった高昌さんの中で和紙職人への気持ちがどんどん強くなっていきました。

 

美希さんは、大阪生まれ大阪育ち。父は建設業の経営者で母は教員、両親がそれぞれ異なる仕事を持つ家庭で育ちました。現在とは正反対の都会っこ”です。

 

「常に誰かと競争している、就職もしっかりしない といけない、そんなプレッシャーを感じて都会暮らしに疲れていたかもしれません」

 

窮屈な都会を離れ、「田舎暮らし」をしたいと思うようになります。

 

高昌さんと美希さんが出会ったのは同じ大学に通っていた18歳のとき。高昌さんを見た美希さんは「あ、『田舎のひと』だ」と思ったそう。

 

#3弟子入り、師との別れ

 

大学4年を迎えた高昌さんは、地元手すき和紙職人への弟子入りを決意自身の強い想いを手紙にしたため、師匠に手渡しました。師匠は高昌さんが 元々教員を志していたことも知っていたので、最初は躊躇したと言います。

 

「かなり大きな決断だったと思います。師匠からは『卒業するときにまだ気持ちが残ってたら、訪ねておいで』 と言ってもらえて。つたない文章だったと思いますが、気持ちをストレートに書きました」

 

高昌さんの気持ちは揺らぐことなく、手すき和紙職人としての第一歩を踏み出しました。

 

弟子入り後は、目に見るものや触れるもの、すべてが初めてだらけの新鮮な毎日。また、師匠は大変温厚な人柄で、高昌さんはただの一度も叱られたことがなかったそうです。

 

そんな修行生活に入って3年目、突然の別れが高昌さんを襲います。お世話になっていた師匠が亡くなったのです。大きなショックを受けた高昌さんでしたが、 最後まで気にかけてくれたという師匠の想いに応えようと、美希さんや兄弟子に支えられながら懸命に和紙づくりを学びました。

 

その後、高昌さんと美希さんは結婚。家族の力も得て頑張り続けた修行の日々はやがて10年目を迎え、高昌さんも「独り立ち」を意識するようになりました。

 

#5 独立、協調と競争のビジネススタイル

 

和紙職人への道、そして独立の決意、高昌さんが重大な決断をした時にはいつも美希さんが背中を押してくれました。美希さんは、両親の自立した姿を見て育ったため、独立した当初は手すき和紙の仕事には口出ししないよう努めていました。

 

一方の高昌さんは職人としてクオリティにこだわり、ビジネス面はどこかのんびり構えてしまっていました。

 

独立して3年目を迎えるころ、美希さんが危機感を抱き始めます。

 

「両親のライフスタイルをそのまま持ち込んだのは失敗でした。もちろん主人には職人としてのプライドもありますし、干渉することをためらいました。しかし、経済的に持続できないと思ったんです。」

 

「経済的にもこのままではいけないとは思いましたが、職人としてのこだわりを持った私と、森田屋としてもっと新しいことに挑戦しなければいけないという妻との間でよく意見がぶつかりました」

 

あくまでも職人でありたいと考え、のんびり周りと協調していく高昌さんと、都会の競争社会で育った美希さん。二人が幾度もぶつかり合った結果、たどり着いたのが現在の森田屋のスタイル。職人とし て手すき和紙文化を継承する高昌さんと、手すき和紙の新しい価値を探求し、マネジメントする美希さん。「田舎もんと都会もん」の二人が見事に調和し、「新生 森田屋」が生まれたのです。

 

 

#6 周桑和紙に定義なし。ゆるやかな伝統と日本の魅力とは

 

周桑和紙には原材料や糊の配分など細やかな製法に厳格な決まりごとがありません。それが穏やかな気風のこのまちに適応したのだと二人は言います。

 

「原材料にこだわりすぎて、値段が上がって売れないのでは意味がありません。周桑手すき和紙はお客様に寄り添い、値段もニーズにぴったり合わせた「臨機応変さ」で生き残ってきた歴史があるんです。」

 

近年、和紙の業界においても、値段が安い機械和紙がどんどん流通しています。伝統文化を守ることとは、「効率」との闘いであると考えがちですが、そんななか、機械和紙も必要だと森田屋の二人は言います。

 

「経済の発展には機械和紙も絶対必要です。伝統文化の継承と、発展した経済が両立していることが日本の魅力だと思っていますから。」

 

 

#7 都会暮らしを知るから実感、西条市の魅力

 

「ここへ来てもう10年になりますけど、石鎚山がきれいに見えたり、前の畑から芽が出たりしたら、いまでもすごく感動しちゃうんです。都会を知っているからこそ、自然の変化に敏感になれるのだと思います。もちろん、故郷の大阪も好きですが」

 

お隣と醤油を貸し借りしたり、子供が近所のおじさんの家へ遊びに行ったり、向かいの畑でできた野菜を一緒に収穫したり…。美希さんが十代の頃から思い描いた「田舎暮らし」は、西条でゆっくりと、ひとつずつ現実のものになってきています。

都会での暮らしを知っているからわかる、田舎暮らしの価値。「楽」ではなく、「自分らしく楽しむ」自然体の生き方がそこにはありました。