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「純印度式カリー」誕生秘話―アイデア企業、新宿中村屋の88年

 ▲発売当初の純印度式カリー

 

誰もが大好きなカレーライス。今や日本の「国民食」と言っても過言ではありません。

そんなカレーライスの歴史について、インドと日本の両国にまたぐエピソードの下に誕生した「純印度式カリー」を提供する中村屋に、その誕生秘話を伺いました。

 


廣澤久美子さん
株式会社中村屋 CSR推進室所属


 

 

始まりは、「パン屋」を居抜きで購入

 

 

‐「中村屋」という会社名ですが、創業者は相馬夫妻。どうして「相馬屋」と名付けなかったのでしょうか?

 

「中村屋」というのは、東京大学の正門前にもともとあった人気のパン屋さんでした。しかし、そのお店の商売が成り立たなくなっていました。

 

そんな時、信州・安曇野から上京した相馬夫妻は東京で生計をたてようと、萬朝報という新聞に「パン屋譲り受けたし」という広告を出しました。その広告を見た中村屋のご主人、中村萬一さんが手を挙げ、相馬夫妻が従業員を含め居抜きで購入したのです。

 

‐中村屋のご主人、中村萬一さんと相馬夫妻は知り合いだったのでしょうか?

 

中村萬一さんと相馬夫妻は全く関係ありません。相馬夫妻が上京してから商売を始めようと考えていたとき、パン屋に商機があるかを検討していました。そして毎日約3ヵ月間、近くのパン屋さんに通って1日2食をパンにして試していました。パンに将来性を感じ、居抜きで買い取ったのが、偶然にも毎日通っていたパン屋「中村屋」だったのです。

 

もともと中村屋は人気もあるし、美味しいということもわかっていました。だから、中村屋を購入した際、名前を「相馬屋」に新しくすると今までのお客様が離れてしまうかもしれないので、名前をそのまま残すことにしたのです。

 

‐だから「中村屋」なんですね。パンを実際に生活に取り入れて、これでいける!と思ったきっかけはなんだったのですか?

 

当時は食事の支度をするのに火を起こすことから始めていた時代です。手間がかからず、急なお客様が来ても対応が出来る、何より美味しい、と。それで商売にできると思ったようです。

 

‐相馬夫妻は二人とも商売は初めてだったのでしょうか?

 

はい、二人とも、今までずっと商売とは無縁でした。旦那の愛蔵さんは、養蚕を営む農家の出。妻の黒光(こっこう)さんは、士族の娘。結婚した当初は、愛蔵の実家がある長野県・安曇野で養蚕を手掛けながら、田舎暮しをするんです。でも妻の黒光は仙台市出身で都会育ちだったので、田舎暮しが合わなくて、体調を崩してしまいます。心配した愛蔵は上京することにしました。東京へくると、黒光の体調は良くなり、東京で生計を立てることにしたのです。

 

‐そこで商売を始めたのですか?

 

はい。愛蔵は当時の東京専門学校(早稲田大学の前身)の出身で、当時は今で言う大学を卒業した人はお役人になるのが主流でした。しかし、人に使われるのが嫌な性格だったようで、自らできることとして商売を始めました。

 

でも商売は素人、既に出来上がった市場に素人が入っていってもダメだろうな、と。そこでこれから流行るような商売をしていこうと考え、パンに注目したのです。パン屋は東京にはまだ少なかったのです。そして、1901年に東京の本郷にあった中村屋を買い取り、商売を始めました。

 

‐今でこそ、「脱サラ」や「起業」という言葉が浸透している時代ですが、お役人になるのが主流だった中でよくぞ決断をしましたね。

 

そうですね。二人とも大学や女学校を卒業し、しかも商売には素人でしたから、中村屋が繁盛しだすと、インテリ夫婦がやっているパン屋さんだと、新聞にも掲載されたりして話題になったみたいですね。

 

創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻
▲相馬夫妻

‐1904年に、「クリームパン」「クリームワッフル」が発売されていますが、これを創案したのは相馬夫妻なのでしょうか?

 

そうです。ある日シュークリームを食べていて、ひらめいたみたいです。既にこの当時、餡ぱんがあったので、餡の代わりにクリームを包むと一味違ったパンができ、何より美味しい、と。

 

‐アイデアマンですね。「クリームパン」は発売当時から人気だったのでしょうか?

 

クリームパンって牛乳と卵が入っているので体に良いんですよね、栄養がある。この時代は、日本では日清戦争や日露戦争があった時代です。明治政府は富国強兵を唱え、欧米に追いつけ追い越せの時代ですから栄養価が高い食品は好まれ、ヒット商品になりましたね。

 

ちなみに、菓子パンというのは日本の文化なんです。パンは舶来品で、パン生地を発酵させる技術、つまりパンを膨らますことが難しかったのです。だから生地があまり膨らまなくても良いような、中に何か詰めるようなパンを作ったのが日本。日本の三大菓子パンは、餡ぱん、ジャムパン、クリームパンと言われています。
クリームパン

 

 

カレーの提供が始まった裏には関東大震災の影が

 

 

‐1915年に、インドカレーの発売のきっかけとなる、インド独立運動の志士「ラス・ビハリ・ボース」をかくまうことになりますが、なぜ中村屋でかくまうことになったのですか?

 

ボースは当時イギリスの植民地だったインドで独立運動をしていたのですが、イギリスの言いなりになっているインド総督に爆弾を投げるという事件の主犯でした。

 

当時の日本には「アジア主義者」が居て、アジアで独立しようとする人達を支援していたので、ボースもその人達のことを頼って来日します。しかし、偽名を使っていたのですが身元がバレてしまい、当時、日英同盟を交わしていた日本政府は国外退去命令を出します。このことに困っていたアジア主義者の1人が中村屋のお客様で、愛蔵に相談をします。愛蔵はお気の毒だと思い、かくまうことになったのです。それが1915年の出来事です。

 

‐「中村屋」にはどれぐらいかくまわれていたのでしょうか?

 

約3ヵ月半ぐらいでした。中村屋への追及が厳しくなり、いられなくなってしまうのです。その後、中村屋を出たボースは関東近辺を転々としました。相馬夫妻も目を付けられていたので動けず、両者の連絡役を務めたのが相馬夫妻の長女 俊子です。彼女はのちにボースの妻となりました。

 

‐俊子さんのロマンスも気になるところですが、転々とする生活だと、「純印度式カリー」をメニューとして出すどころの話ではなさそうですね。

 

そうですね。「純印度式カリー」の提供は、1927年、喫茶部(レストラン)を開設した際、メニューになりました。

 

‐なるほど。喫茶部を始められたきっかけは何だったのでしょうか?

 

中村屋は1909年に本郷から新宿に移転します。新宿は1923年の関東大震災をきっかけに街並みも変わり、人が集まってくるようになります。愛蔵は街が賑やかになってきたことで、お茶を飲むところの必要性を感じていたところ、ちょうどお客様からも「ひと休みできる場所がほしい」とのご要望がありました。丁寧な接客は簡単ではないことから、迷っていましたが、ボースはインド本場のカリーを日本人に知ってもらいたい、喫茶部を開設するならメニューに加えてもらいたいということから喫茶部(レストラン)を開設したのです。

 

昭和2年、喫茶部開設当日の記念写真

▲喫茶部開設当日の記念写真

 

 

「純印度式カリー」は、「インド貴族が愛するカリー」

 

 

‐1927年頃の日本では、カレーって物珍しかったのでしょうか?

 

明治初期、「欧風カレー」がイギリスから伝わってきていたので、カレー自体は浸透していました。ご飯がたくさん食べられるので、体力向上には最適だとされて、軍隊のメニューにもなるほど。今でも「海軍カレー」って聞きますよね。

 

一方で、「純印度式カリー」は、ボースが「インド貴族が食するカリー」として創業者に紹介し、メニューに採用されました。ただ、発売当初は日本人の口にはなかなか合わず、日本人の口に合うように改良しました。

 

‐具体的にはどこを変えたのでしょうか?

 

素材を見直しました。お米はインドから輸入していましたが、米穀研究家にカリーに合うお米を探してもらい、鶏肉は市場で新鮮なものが調達できなかったため、自分たちで山梨に養鶏場を作り、高品質で鮮度の良い鶏肉を使用しました。

 

‐自営で養鶏場を作ってしまうなんて、行動力がありますね。

 

相馬夫妻は、お客様にとって一番美味しいものを提供したかったのです。米穀研究家を呼んできたり、養鶏場を作ったり。お客様に喜ばれることを一番に考えていました。

 

現在の中華まんじゅうも大正時代の終わりに中国(当時は支那)に行った際、包子を食し「脂っこいけれど、日本人の口に合うようにアレンジしたらきっとお客様に喜んでいただける!」と思い、日本へ戻ってからアレンジをしたのです。

 

‐やることがどれもスケールが大きいですね。相馬夫妻の思いをどのような形で引き継いでいるのでしょうか?

 

創業者夫妻はクリームパンや純印度式カリー、中華まんじゅうなど独創的な商品を世に送り出し、社会奉仕の精神で経営をしてきました。現在も、レストランでの調理技術をレトルトやお菓子に生かしています。また、お客様に喜んでいただけるような商品となるように改良をするなど、商品を育てています。「変えずに、変えずに、変えていく」をポリシーとしています。

 

社会貢献ということでいうと、創業者夫妻は関東大震災の時には被災者にその時にあった原材料ですぐに提供できるパンやまんじゅうを原価近くの価格で提供し、この頃から今の言葉でいう「社会貢献活動」を大正時代から実施していたことに始まります。

 

現在は食を通じた社会貢献としてフードバンクへの協力や食育などを実施しています。

 

‐最後に、聞きづらい質問ですが、カレースープが流行ったときは、やはり気持ちとして抵抗があったりしましたか?

 

特に抵抗はありません。中村屋では「純印度式カリー」をベースに、常に色々なカリーを研究していますから中村屋でも流行る前から提供していました。現在、スープカリーやドライカリーは期間限定で販売していますが、他にもベジタブルカリーやシーフードカリー、お菓子ではカリーあられなどもあります。

 

純印度式カリーをベースにカリーパンやカリーあられなどのお菓子、レトルトカレーなど色々な分野に純印度式カリーを生かせるというのは中村屋としての強みだと思っています。ぜひ多くの方に知っていただきたいと思います。
純印度式カリー