「人口の5%しか蕎麦好きがいないこの街で、蕎麦を日常食にしたいんです」


そんな言葉からはじまったのは、「西條そば甲」を営む荻原甲慎さんへのインタビュー。


14年前に、愛媛県西条市の水と出会って蕎麦屋を志した荻原さんのつくる料理は、いわゆる「王道」ばかりではない。地元の食材をふんだんに使用し主役に据えており、「地元料理」と呼ぶ方がふさわしい。


そんな「地元」に寄り添う蕎麦づくりに取り組む荻原さんの蕎麦は、今年ミシュランガイドにも掲載されるほどになったが、そこに至るまでには家族との衝突や街からの孤立、そんな苦難の過去があった。


【目次】

#0 人口の「5%」からしか求められない街で蕎麦屋を始めたわけ
#1 「売る人」から「つくる人」へ。31歳の決断
#2 妻との衝突を乗り越えて届いた「職人」の道
#3 「もうそばは食べたくない」と泣かれた夜
#4 「勘違い」を越えて気づいた「街とのかかわり方」
#ep 一人称ではなく二人称で生きる、ということ

協力:愛媛県西条市

岡山 史興
70Seeds編集長。「できごとのじぶんごと化」をミッションに、世の中のさまざまな「編集」に取り組んでいます。

 

#1 「売る人」から「つくる人」へ。31歳の決断

有名俳優を使ったCMで一世を風靡した、日本では知らない人のいないジーンズブランド。それが、30代までの荻原さんが選んだ「働き方」だった。

 

自分の担当した商品が、年間に何億もの売上をあげていく。営業マンとして活躍する日々は充実していたはずだったが、徐々にどこか違和感を覚えるようになっていた。

 

「もちろん、仕事は楽しかったんです。ジーンズが好きで入った業界だったし。でも、31歳、自分の人生をどう持っていくか考えたときに『ものづくりをしたい』って思ったんです。ジーンズも結局自分の力じゃないんですよね。俳優さんや会社のおかげで売れていた。」

 

そんな悩みの中にあったとき、妻の実家である西条市でこの地の「水」と出会った荻原さんは、ある決断をする。

 

それは、「日本一の水」である西条市で「日本一の蕎麦屋」になること。

 

「当時、インターネットが主流になってくるころで、この先、技術や情報はネットが発達することで、どこに行っても一緒じゃないかなと思って。でも、「水」だけはその土地にいかないと手に入らないものですから、この地で蕎麦屋がしたい、と考えました」

 

昔から水がいい街に人は集まる、と語る荻原さん。彼に言わせると日本屈指の水どころでありながら、まだまだ知名度の低い西条は「最後の秘境」であり、そんな西条の街が持つ水の魅力を伝えるために最適なのが「蕎麦」だと直感したのが、「蕎麦屋」を始めた動機だった。

 

「全国で麺類というのは、ご当地の地名の下に麺の名前がくるんですね。「さぬきうどん」、「信州そば」、「長崎ちゃんぽん」とか。西条には水があるので「西條そば」っていうのを出していきたいなと。そして自分の名前でもあるんですが、甲乙丙のトップである「甲」を使って西条がトップになることを目指していきたいなと」

 

そう決意してサラリーマンを辞めた荻原さんは「日本一の蕎麦技術」を身につけるため、当時「蕎麦打ちの神」が出した山梨の「翁」という店へ修行に入った。

 

だが、その生活が荻原さんと家族にとっての苦難の始まりだった。

 

#2 妻との衝突を乗り越えて届いた「職人」の道

1年間と期間を決めて、山梨へと蕎麦打ちの修行に出た荻原さん。

 

1年という期限には理由がある。彼には当時1歳半の子どもがいた。そんな中貯金を切り崩して暮らしていけるのは1年が限度。その間に「蕎麦職人」としてなんとしても独り立ちできる技術を身につけること、それが自身に課したハードルだった。

 

もちろんそれまでの営業職とはまったく畑違いの世界。まさに背水の陣で臨んだ修行生活。並大抵の厳しさではない。毎朝3時に起きて4時から仕込み、昼の3時に奥さんと子守のバトンタッチをして…という日々。

 

そんな修行の始まりから3か月くらいたったとき、荻原さんの家庭に事件が起きる。

 

「嫁さんが結婚式に出席すると言って、愛媛に帰ったとき、そのまま帰ってこなかったんです。子ども連れて。ちょっと距離を置かせてくれ、という状態で。でもまあ、わかりますよね。将来も何も見えないなかで、俺はそば屋になるんだと言ってもね。何を言ってるんだという気持ちでしょう。で、帰ってこなくなったので説得をして、もう俺の想いはこうだからと言っても、『もう耐えられない』と」

 

その後、どうにか関係を修復しまた家族で過ごす日々を取り戻した荻原さんは、1年間の修業を終え、念願だった西条市でのお店をオープンすることになる。

 

「日本一の水」と「日本一の技術」で「日本一の蕎麦」をつくる、その夢に一歩近づいたように見えた瞬間だった。

 

だが、そこで待ち受けていたのはさらなる試練の日々だった。

 

#3 「もう蕎麦は食べたくない」と泣かれた夜

ついに自分の蕎麦屋をオープンするべく西条に飛び込んだ荻原さんを待ち受けていたのは、「よそもの」ならではの壁だった。

 

「ちょうどここの店がうどん屋の空き店舗だったんで、不動産屋に飛び込んで『この場所を貸してください』とお願いしたんですが、、「お前、どこの誰や」から始まって。やっぱり地元の誰かの知り合いじゃないと、やりにくいですよね。『そば屋に夢持ってます』みたいな話しをしてても、まあちゃんちゃらおかしいわけで」

 

結局、奥さんの父親に名義を貸してもらうことで店舗を借りることができたが、「金も人脈もノウハウもない」蕎麦職人の挑戦は、出だしから「誰かの支え」なしには成り立たなかったのだ。

 

だが、荻原さんがそのことに本当に気づくまでにはもう少し時間が必要だった。

 

「この地に本格的な蕎麦を提案する」そんな夢に対し、地元からの評価は「よそものが何か言ってる」というものでしかない。荻原さんは街で受けた数々の反応からそのことを痛感していく。

 

「西條そばの『西條』っていう字をよそものが使うな、とか、飲み屋に行ったら僕が入った瞬間周りがぱっと席を立つとか。まあ今思えばそうですよね。いきなり街にやってきて『本当の蕎麦を教えてやる』みたいな顔をしていたわけですから」

 

ただ、それでも荻原さんが「ラッキーだった」と語るのにはわけがある。それは、周りに「あそこがいかんかったぞ」と都度教えてくれる人たちがいたこと。

 

そして、もうひとつは奥さんのスタンスが支える方向に変わってきたこと。

 

「お店を開いて1年、僕は毎日蕎麦を食べるしかありませんでした。そしたら子どもが『もう蕎麦なんて食べたくない』と泣くわけです。僕もどんどん痩せて。でもその時には妻の方が腹をくくっていたんです。『毎日蕎麦でもいいじゃない、一緒に食べよう』って。もうコケられないですよね。コケたらだめなんです」

 

街の洗礼から学び、家族が味方になった。荻原さんが本当の意味で「西条の蕎麦屋」になる第一歩を踏み出した瞬間だった。

 

#4 「勘違い」を越えて気づいた「街とのかかわり方」

「街の人が求めるものをつくろう」――そう改めて決意した荻原さん。それまでの自分には良くも悪くも「勘違い」があったと語る。

 

「『手打ちだぞ』とか『愛媛には珍しいだろ』とか。30代って自分のスタイルを求めるんですよね。でもそれってお客さんから見たらどうでもいいことなんです。お客さんは、『おいしい蕎麦が食べたい』、『おいしいものが食べたい』のであって、『お前がどう作るかなんて知らん』ってのがお客さんであって」

 

1日の来店客が2名という日もあったとき、「西條そばとはなんぞや」、「誰のために、何のために仕事しているのか」ということに立ち返った結果、自分のスタイルを求めるのではなく、「お客さんのライフスタイルの中に僕を入れさせてください」という姿勢になることができたのだという。

 

元々は「ものづくりをしたい」という若さゆえの勘違いが原動力だった。しかし、地域に入っていくときに必要なのは一度自分の勘違いを捨てて、街に寄り添うこと。それに気づくことができた荻原さんの蕎麦づくりはだんだんと変わっていく。

 

「謙虚になると、地元の人は何を求めているのか、っていうのがだんだん見えてくるんですよね。例えばつゆ。うどん県が横なんで、ここではつゆを飲むような味付けだったんですよね。ちょっと関東に比べると甘いんです。だから「甘い」っていうのも勉強しました。修行先で教えてもらった『しょうゆだったらいいだろ』じゃなくて。イチから全部研究しなおしました。」

 

自分の押しつけから、お客さんの仲間に「入れてもらう」という感覚。その姿勢を荻原さんは「やりたいことを広げるのではなく『掘り下げる』仕事」だと表現する。西条のいい「水」を活かして地元ならではのもの、「唯一のものをつくる」こと。

 

そんな姿勢がお客さんに伝わり、現在では「西條そば甲」は飲食店にとどまらず、地域にとって「蕎麦の文化」に触れる接点としての存在にもなりつつある。

 

「粉作りからなにからすべて自前でやるようになって。今では毎年近所の幼稚園とかに呼ばれるんですよ。年越し蕎麦づくりとか。やっぱり蕎麦打ってるところなんか見たことない子ばっかりなんで、喜ぶんですよ。『おっちゃん、よかったわー』『そうだろう?こうやって作るんよ』って」

 

西条の名産である「海苔」を散らしたり、「絹かわなす」を使ったり。土地というフィルターを通して、そばを伝えていく。ただし王道ではなく、その土地に合った商売の仕方に重きを置いて。

 

今の荻原さんに間違った「勘違い」はない。だからこそ、「日本一の蕎麦屋になる」という原動力になった「勘違い」を失わずにいることができているのだ。

 

そんな日々を経て、今荻原さんが見ているものは何なのだろうか。

 

#ep 一人称ではなく二人称で生きる、ということ

冒頭で触れた通り、蕎麦好きは人口の5%と言われ、圧倒的にうどん好きな愛媛の人々。そんな土地で蕎麦を打ち続ける荻原さんの目標は「蕎麦を文化にすること」。西条での日々はそのために一番必要なことを教えてくれたのだという。

 

「常に思っているのは大事なのは、変わらないでいることと、変わっていくことのこの2つのバランスかなと思いますね。手打ちのそばで粉と水に対しての想いは変わらない部分と変わっていく部分。イマジネーションとクリエイションやと僕は思うんですけど」

 

変わらないこととして挙げた「蕎麦」そして「水」への想いは、荻原さんの原動力。一方で「変わっていくこと」は西条に来たからこそ得られたことだ。

 

自分はこうしたいからではなく、「何が必要ですか?」という姿勢で仕事をしていくこと。それが最終的に「変わらないこと」を成就させてくれる。

 

西条は今、若い移住者が増えている街の一つとして知られる。14年前に移住した先達として、荻原さんは移住して自分の働き方・生き方をつくっていくために大切な考え方を、最後に語ってくれた。

 

「一人称じゃだめですよね。二人称、相手があって生きていける場所なんで、それがわからなかったら地元に帰った方がいいですね。厳しいかもしれませんけど。でも存在価値は何か、というところを常に考えないと。よそでやる意味はないです。極論、『人の役に立つために仕事というものは存在する』と」

 

勘違いから始まり、「周りに生かされている」自分に気づいたからこそたどり着いた荻原さんの仕事観は、どこまでも「相手ありき」であることを大切にしていた。