70年前の6月23日、3ヶ月におよんだ「沖縄戦」が終結した。日本と連合国軍合わせて20万人以上の戦没者を出したとされるこの壮絶な戦い、その体験者たちの記憶が6月19日、デジタル・アーカイブとしてオンライン上にて展開された。アーカイブとして可視化されることで見えてきた沖縄戦の「ほんとうの姿」について、開発者の首都大学東京、渡邉英徳准教授に話を聞いた。
渡邉英徳氏プロフィール:
首都大学東京システムデザイン学部/システムデザイン研究科准教授。「Tuvalu Visualization Project」「ナガサキ・アーカイブ」「ヒロシマ・アーカイブ」「台風リアルタイム・ウォッチャー」等のコンテンツを手がける、データ×ヴィジュアライズ研究の第一人者。著書に「データを紡いで社会につなぐ〜デジタルアーカイブのつくり方〜」など。
ひとりひとりの動きがわかるアーカイブ
‐渡邉先生はこれまでにも様々なアーカイブ・シリーズを手がけていますが、今回の沖縄戦デジタルアーカイブ~戦世(いくさゆー)からぬ伝言(ちてーぐとぅ)」(以下「沖縄戦アーカイブ」)にはどのような特徴があるのでしょうか。
渡邉:「沖縄戦アーカイブ」の一番の違いは、当時の人々の「動き」を見られることです。沖縄タイムスさんが持っている「当時、誰がいつどこで何をしていたか」のデータを元に、ひとりひとり全て手作業でマッピングしました。現在30人ほどが公開されています。
‐かなり時間のかかりそうな作業ですね。
渡邉:そうですね。こんな風に、何年何月どこにいたか、をソースコードに打ち込んでいきます。常に動いているわけではないので、一箇所に滞在している時間を加味して動かします。
初めて検証された「移動の仮説」
‐「動き」のデータからは何がわかるのでしょう。
渡邉:まず、3月、4月、5月と戦況悪化にしたがって、南部の「摩文仁の丘」(沖縄戦終焉の地、現在「平和の礎」などが設置されている)の方へだんだん人が移動してくるわけです。
6月11日になると、もうこの辺り(中部)には人がいなくなってしまう。
北部は収容所があった場所ですね。捕虜になった人たちが集められていく。こういった人の流れがわかります。これまで傾向としてそうだろうと言われていたことを、データを元に確かめたのは、今回が初の試みとなります。
‐なるほど。
渡邉:もう1つ、今回GIS沖縄研究室と一緒に取り組んだのが、画面上に見える白と赤の色分けです。
‐この色分けは何を意味しているのでしょうか。
渡邉:これは白が男性、赤が女性や子ども、老人の戦没者を表しています。誰が、どこで死んでいったのか。そして、色もはっきり分かれているのがわかりますか。南部には男性が追い詰められ、北部には女性や子ども、老人が集められ、そして亡くなっていくわけです。特に6月16日以降、死者の数が爆発的に増えています。
渡邉:さらに、この当時の航空写真は米軍が撮影したものなのですが、地図が切り替わるそばから、白と赤の点が増えていきますよね。生きている人(顔写真)と併せて見ると、米軍の進行に伴って、人がどんどん南部に追い詰められ、亡くなっているのがわかります。
‐ある種のナマナマしさがありますね。
渡邉:ナガサキ/ヒロシマのアーカイブは、「原爆投下時点の記録」だったことや、生き残った人の証言を元に作られていることから、「作品」的で感想ももらいやすかったのですが、沖縄の場合は、ある程度長い期間のデータで、かつ死者の情報も盛り込まれている。これがいろんなことを物語って、愕然とする人が多いですね。軽々しく感想を言えないような。その辺りも重要な違いの1つです。
‐確かにそうですね。
戦争の名残は70年経った今もつづく
渡邉:あと、これを見てください。
これは現在の米軍基地がある嘉手納飛行場なんですが、戦時中の航空写真に切り替えると、
こうなります。
‐当時から飛行場が?
渡邉:はい、これは当時の日本軍の飛行場です。戦時中の名残がそのまま残っているわけです。また、渡嘉敷島(左の方の島)に注目して見ていただくと・・・
どんどん人が逃げてきていますよね。この方々は、今も渡嘉敷島に住んでいることが多いのです。それはその他の地域も同じで、それぞれ移動した場所に現在も住んでいる。つまり、70年前の戦争の果てに、今の生活が成り立っているということです。
‐このように可視化されることでさらに強く実感されますね。
渡邉:米軍の侵攻によって住む場所を追われていったように、平和に過ごしていた人たちこそが影響を受けるのが戦争で、今生きている人の生活にもつながっているものなんです。
(続く)
※沖縄戦アーカイブができるまでの背景や、製作過程のエピソードを語る後編は後日掲載予定。