故郷である岩手県大槌の町へ、想いをもった「歌」を届け続けている歌手がいます。



今回お話を伺ったのは、TVアニメ「ラブライブ!」に出演している声優・新田恵海さんや、ハイトーンな歌声でファンを魅了している声優・蒼井翔太さんなど、アニメ業界の第一線で活躍する人々が所属する「株式会社S」代表取締役の佐藤ひろ美さん。佐藤さん自身もゲームソング業界やアニソン業界では、根強い人気をもつ歌手の一人です。



そんな、大槌町出身のアーティストが関わった「震災復興」。そして、故郷への想いについて話を伺いました。



(写真提供:株式会社S)

伊藤 大成
1990年、神奈川生まれ。島とメディアをこよなく愛する25歳.

「声は年を取らない。」29歳でのプロデビュー。

‐佐藤ひろ美さんは大槌町が生まれ故郷だったんですね。

私は、大槌町の本町の生まれで、高校を卒業するまで大槌で育ちました。

父は新日鉄関連会社に勤めていたサラリーマン、母は看護婦だったので、本当にごくごく普通の家庭ですね(笑)。

その後、青森の短大に進み、幼稚園の教諭として就職するのですが、どうしても歌手になる夢が諦めきれなかったんです。

なので、教員を辞めてバンド活動を続けながら、ようやく2000年にゲームのイメージソングを担当し、歌手としてプロデビューさせて頂きました。

その後は、ゲームやアニメの主題歌を歌う、「アニソンアーティスト」というお仕事や声優を続けていたのですが、2007年に私と同じような仕事をするようなアーティストを育成する会社を立ち上げたいという気持ちになり、「株式会社S」を立ち上げました。

‐ご家族の方が特に歌好きというわけではなかった?

そうなんですよ。両親が音楽が好きだったとか、音楽をやっている親戚がいるわけでもなく、なぜこの家庭に歌手を生業とする人間が生まれるんだろうというような。

突然変異的に自分は生まれたと思っています(笑)

‐ご自身が歌手になろうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。

もともと小さい頃から歌うことが好きだったんですが、小学校6年生の時に県が行う歌のコンクールで1位になる機会があって、そこで歌を歌っていく仕事がしたいなと思ったんです。

真っ白なスポットライトを浴びて歌を歌う時に、恍惚感を感じたというか、とても気持ちがよかったんですよね。

そして賞を取った時に、家族や親戚、歌を教えてくれた学校の先生、友人たちも、まるで自分のことのように喜んでくれました。

そこで、自分の歌でこんなに喜んでくれるんだとなった時に、いろんな人に歌をずっと歌っていきたいなと思いました。

‐本当に小さい頃から歌手を目指していたんですね。

でも、いざ高校生の時に歌手になると父に告げると猛反対されたんです。

だから、短大に進み就職もしたのですが、やっぱり歌うことを諦めきれなかったので、歌手の道に進もうと決意しました。

その後、プロデビューしたのは29歳になります。バンドのCDをとあるゲーム会社の社長さんが偶然聴く機会があって、そこでゲームソングのお仕事をいただいてから、自分の歌声はゲームやアニメといった可愛い女の子が出てくる絵につけたほうが映えるんだなと気付きました。

‐まさに天職と出会ったような形ですね。

そうなんです。30歳までに歌で食べていけなかったら音楽は諦めようとも思っていた時期でしたから、もう最後のチャンスだと思って、ゲーム・アニメソング業界で生きていこうと決めました。自分でもとても遅いデビューだったと思います。

‐声優やアニソンシンガーといった方々は、多少歳を取っていても第一線で活躍されているイメージがあります。

そうですよね。声は歳を取らないんですよ。

とはいえ、30歳になろうとしていた私を歌手としてデビューさせてくれたこの業界には本当に感謝しかないですね。あとそれから、こういう高めの声に産んでくれた両親にも、ですね。

 

 

突然起こった震災、そして父との別れ。

‐今年デビュー16年目を迎える佐藤さんですが、長きに渡る活動の中でも5年前の東日本大震災は特に大きなきっかけになったということでしょうか?

以前、横浜アリーナという大舞台で歌うことがあったのですが、そこに歌手になることを大反対していた父を呼んだんです。

父は初めて実際の舞台で歌う私を見たんですが、とても喜んでくれました。そして、ステージが終わった時に、「こんなにたくさんの人が応援してくれているなんて知らなかった。お前は本当に頑張っているんだな。」って認めてくれて、そこから私の一番のファンになってくれました。

そんな父とは震災の3日前にも、話をしました。その時は、東京に母と来ていて、半年前に行った私の10周年記念ライブのことを「心から楽しかった」としきりに話してくれました。

この時、父が「3月の大槌はまだ寒いから、お母さんはまだ東京で遊んでいけ。

俺は先に帰るから」と言って一人で帰ったんですよね。そして、3日後に津波がきて、父は流されてしまったんです。

‐何もかもが突然の出来事だったんですね…。

何年経ってもその時のことを思い出すと涙がとまらないし、あと3日東京にいたら、母と一緒に生き残れたのかもしれないなぁ、と思います。

その時にも、春になったら旅行へ行こうって話をしていたばっかりで、これからもずっと幸せな生活が続くと思っていたので、震災が起きたことによって、突然奪われたというか、色々な物が消えて無くなってしまったんですよね。

その後、知り合いの方が大槌町に支援物資をトラックで持って行く機会があったので、津波の2週間後にそのトラックに乗せてもらい大槌町に入ることができたんですが、実際町に入ると、がれきも何も片付いてない状態で、遺体もまだ出てくるような状態でした。

あたりを見渡すと、周りには物が焼けた匂いと海水のヘドロの匂いと物が腐っている匂い、アニメやゲームでしか見たことがない「戦争の跡」みたいな景色が広がっていました。

こんなに悲しい景色があっていいのだろうかと感じました。忘れられないです。

‐お話を聞いているだけでも、大槌の光景が伝わってきます。

でも、その場で思いとどまってはいけないなとも思ったんです。

変わってしまった大槌の景色を見ながら、その場で考えていたんですけど、「自分が何かできることはないだろうか」ってことを考えた時に、それまで避けていた地元に対して、貢献したいって思いが湧いてきたんですよね。

‐かつては地元を避けていた、と?

はい。なぜかというと、私が歌ってる「ゲーソン・アニソン」といった文化は、田舎では知っている人がほぼいない状態なんですよね。

だから、私の名前を言ったところで、誰も知らないという状況でしたから、故郷に貢献するといった意識も薄かったんだと思います。

‐確かに「ゲーソン・アニソン」の文化は都会中心のものとして広まっていますよね。

でも、よくよく考えると自分が歌を歌ったり、作曲をする時の感受性って、美しい自然のある大槌で育ったからこそ、養えたものだときづいたんですよね。

大槌の優しい人たちから受けた愛情があったからこそ、私はこういう感受性で育ち、私は歌でご飯を食べることができ、東京で成功することができたのに、いつ地元に恩返しをするんだって気持ちになりました。そして、私がやらなければ誰がやるんだと自分に言い聞かせたんです。

 

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