日本の蒸気機関車は「SL」と呼ばれ、戦時中から戦後にかけて、日本の鉄道輸送には、欠かせない存在となっていました。



戦時中には貨物輸送、そして戦後は旅客輸送の要として、全国各地で活躍していたSL。平成になった現代でも、昭和の日本を象徴する存在として全国各地でSLが走っている姿を見ることができます。



多くのSLが、地方で運行されているなか、首都圏でもSLの走る姿を見ることができます。



今回は埼玉県の秩父において、都心から一番近い場所で乗れるSL「パレオエクスプレス」を運行している秩父鉄道の方々に、お話を伺ってきました。(写真提供:秩父鉄道株式会社)

伊藤 大成
1990年、神奈川生まれ。島とメディアをこよなく愛する25歳.

戦時中には海外を走った「C58」

‐秩父鉄道はSLの運行を開始して今年で28年目になります。

SL「C58-363号機」で牽引する「パレオエクスプレス」を1988年より、熊谷〜三峰口間で運行しております。

-「パレオエクスプレス」の顔である「C58-363」号機は、戦時中に誕生した機関車ですね。

「363号機」の製造は1944年ですが、C58シリーズは戦前の1938年から戦後の1947年にかけて製造されていました。

‐戦争が終結した後も「C58」の生産は続いたのですね。

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写真:石北本線 C58 33号機 photo by Toshimasa TANABE

 

戦後にも45両の「C58」が作られています。これは「C58」が貨客両用に設計された万能機だったからです。

例えば、「デゴイチ」で有名な「D51」は、貨物専用に作られていますから、貨物の需要があった戦時中に大量に作られていました。

しかし、戦争が終わると貨物輸送の需要が少なくなり、生産が打ち切られます。

一方、「C58」の生産は1944年に一旦打ちきられるのですが、戦後になって旅客輸送の需要が高まり、再開されることになりました。

-「C58」はどれくらいの数が生産されたのでしょうか。

「C58」として作られたのは413台になります。

戦時中までに作られたのは1号機から368号機までで、戦後に作られたのは383号機から427号機までになります。

‐つまり「C58」には欠番が存在すると?

そうです。「369号機」から「382号機」までは、戦時中の樺太で運行されていたものです。

これらの機関車は、樺太の省営鉄道に編入されました。戦争が終結した後も、一度も日本走ったことがありません。

‐なるほど。かつては海外で日本のSLが走っていたのですね。

戦時中は海外に向けて日本のSLが供出されていました。他社のお話になりますが、現在静岡県の大井川鉄道で走っているSLは戦時中タイで走行していて、奇跡的に帰国できたというものですし、

 

 

戦後「予備の機関車」だった「C58-363」が「SLパレオエクスプレス」になるまで。

-「363号機」は、どのような経緯を経て秩父鉄道にやってきたのでしょうか。

「363号機」は1944年に製造された後、最初は宮城県の釜石に配備されました。

その後、東北各地の機関区を転々として、入換用や予備用の機関車として使われていた時期もありましたが、1965年から本線運用に復帰し、石巻線、陸羽西線、陸羽東線、磐越西線などで活躍しました。

‐東北で活躍がメインだったのですね。

他の蒸気機関車に比べ、本線を走行していた時期も短かったのですが、往年は東北を中心に100万キロ近く走行し、1972年の12月に山形県の新庄で現役を終え、機関車としての役目を一旦終えました。

‐東北の地で引退した「363号機」が埼玉の地に来る事になったきっかけは何だったのでしょうか。

70年代になると、日本各地でSLが姿を消していく中で、SLを保存していく動きが目立つようになりました。

「363号機」もそういった動きの中で、埼玉県の吹上小学校に無償で貸し出される事になりました。

‐1988年に「363号機」は「パレオエクスプレス」として秩父鉄道で走ることになります。

実は「363号機」の復活に関して、当初我々の会社は深く関わっていませんでした。

SLの復活にあたっては、埼玉県北部観光振興財団という沿線の自治体が行っていた団体と国鉄が中心となって復元を進め、我々はSL列車を受けいれて、運行を開始しました。

‐自分達から進んでSLを導入したわけではなかったのですか? 559a4402

秩父鉄道は元々旅客と貨物、両方の運行を想定して作られた鉄道になります。

しかし、1922年には電気機関車を導入していて、蒸気機関車を走らせるための設備は残っていない状態でした。

SLを走らせるためには、検修の設備や機関車の向きを変える転車台を新たに導入しなくてはならず、資金も必要になる為、簡単にSLを導入できるわけではなかったのです。

‐SLを運行させるのが簡単ではない、というのは頷ける話ですね。

SLを動かすためには、専用の設備、運転をする人や検修をする人など多くの物や人の力を必要としますからね。

‐なぜ秩父鉄道を走る機関車が「363号機」になったのでしょうか。

SLの選定は財団や国鉄が行いましたから、我々は秩父鉄道でSLが運行できる条件を提示しました。

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秩父鉄道は昔から貨物の電気機関車を走らせている実績があるものの、貨物用の重い蒸気機関車は入線することができません。

提示した条件に対し、C58のような中型の機関車は、非常に相性の良い機関車だったのです。

‐その後もSL運行は財団が行っているのですか?

いえ、2003年に「363号機」は財団から秩父鉄道に譲渡されました。

というのは、運行開始から15年が経過し、財団がコストのかかる「SL」運行を続けることが困難となり、2003年からは完全に自社で運行している形になります。

‐なるほど、つまりその年から秩父鉄道による自主運行が始まったのですね。

譲渡される前までは、SLの運行に関わる殆どの事を財団に任せてありました。

運転や検修なども、機関車を走らせる実績のあったJR東日本の高崎車両センターの方々にお任せしていたのですが、譲渡されてからすべて任せっきりという訳にはいかず、我々としては本気を出さないとSLの運行を続けられない状態でした。

しかし、実際にSLを譲渡されてからは社内の運行継続に向けた意識が上がり、様々な取り組みが始まりました。

‐具体的にどのような取り組みを行われていますか?

SLを走らせるための機関士の自社養成が昨年ようやく成功しました。

それまでは、高崎のSL運行に関わっていたOBの方が出向してくださっていたのですが、譲渡される前までは社内には機関士を養成できる仕組みがありませんでしたので、社内で後継者の養成が可能となって、一安心といった所です。

 

 

「鉄道の価値は沿線の価値で決まる」


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‐1988年に「パレオエクスプレス」の運行が始まって今年で28年目になります。

様々な出来事がありましたが、おかげさまで運行開始から28年運行を続けることができました。

‐運行するにあたって、沿線住人の方々の反応はどうなのでしょうか?

SLを走らせるきっかけを作った財団自体に、沿線住人の方々の声が反映されていました。

ですから、SL導入の時も特に反対の声は聞かれませんでしたし、今も苦情は殆どありません。

また、SLを運転する時には、とても丁寧に運転しています。秩父鉄道の沿線は住宅なども多いので、非常に煙を抑えて運行しています。

我々は、秩父のSLは「日本一煙の出ない機関車」ではないかと思っています。

‐沿線に対して非常に配慮されているのですね。

鉄道の価値は沿線の価値で決まる、と我々は考えています。鉄道会社にとって沿線にいる人々や物と共存していかなければ、運行を続けていく事は難しいのです。

‐なるほど。沿線の価値は重要なのですね。

特に我々のような私鉄は、沿線にとても密着して運行に取り組んでいます。

例えば、JRさんで運行されている各所のSLは、新幹線とSLをパッケージにした商品で人を呼び込むこともできます。

しかし、我々のような私鉄にはそのような取り組みは難しく、SL単体の運賃で継続していかなくてはならないので、より多くの人に来て頂く事が重要になります。

その分、秩父という場所は非常に恵まれていると思います。都心部から沿線までのアクセスも非常によく、非常に注目されやすい環境です。

沿線には、長瀞ライン下りをはじめとした観光の名所もありますので。

‐都心に近いというのは、非常に強いアドバンテージですね。

気軽に来て頂き、気軽に乗れるのが我々の運行するSLの魅力です。

より多くの方々に伝統のある「363号機」へ触れて頂く機会を作るために、我々も頑張って運行を続けていこうと思っています。


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今後はただSLを運行するだけでなく、地元の企業などとも共同で何かをやっていこうという動きになっています。

昨年から夏季に運行している「ガリガリ君エクスプレス」もその取り組みの一環で、今後は沿線や地域のみなさんと一緒に取り組み機会を増やし、魅力ある沿線作りに取り組んでいこうと思っています。