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いち早く「日本」になった島 「近くて遠い亜熱帯」奄美大島の戦後史 

鹿児島県、南西諸島に浮かぶ奄美大島。沖縄と鹿児島の間に浮かんでいるこの島の歴史を紐解いていくと、日本と沖縄の板挟みになりながらも独自の文化を発展させた島の姿が見えてきます。「琉球」ではなく「日本」となることを選んだ、「近くて遠い亜熱帯」の島の歴史を紹介します。

 

奄美大島ってこんなところ

 

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Kinsakubaru virgin forest photo by tsuda

 

奄美大島は鹿児島の中心地から南へ約380キロ、地図上で見ると九州と沖縄のちょうど中間あたりに位置しています。マングローブの群生や、「ニモ」で有名なカクレクマノミを始めとした多くの熱帯生物の北限生存地である「亜熱帯の島」です。

 

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古仁屋の眺望 photo by tomomi yoshioka

 

実際に島へ行ってみると、とても興味深い光景が広がっています。島の植物など自然の風景は、「亜熱帯の島」そのものですが、南国ながらも、沖縄とは違ったどこか日本の田舎らしさを感じさせる建物を沢山見かけます。

「日本」と「琉球」が入り混じった島になった背景には、奄美大島が歩んできた歴史が深く関係していました。

 

大和・江戸と琉球の板挟みになった奄美大島

 

奄美大島の歴史は、平安時代まで遡ります。平安時代末期にあった「壇ノ浦の戦い」で敗れた平家の「平有盛」が、奄美大島に流れ付き、奄美大島や近隣の島に城を建てたと言い伝えられていて、島内には彼を祀った「平有盛神社」が存在します。

 

しかし、その後平家に変わって「琉球王国」が奄美大島を支配することになります。「琉球王国」は武力を行使して、沖縄の島々を支配していったと言われており、奄美大島や周辺の離島に関しても、幾度の反乱を経て「奄美大島」は「琉球王国」の一部になりました。

 

そんな琉球王国の支配も長くは続きません。江戸時代になると薩摩藩(現在の鹿児島県)が奄美大島へ侵略し、支配を始めます。

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the last samurai by j3ssl33 

薩摩藩は当初、差別的な支配で島の人を苦しめたと言われています。しかし、江戸幕府がなくなり、西郷隆盛が奄美大島にやってきたことで状況は変わります。西郷は当時の薩摩藩が行っていた黒糖の取り立てに苦しむ島民側のために運動を起こし改革を促したり、島の少年たちに勉学を教えたりして、当時島にはなかった数多くの文化を持ち込ました。彼の存在が、奄美大島の人々が自分たちの島を「鹿児島」として意識するようになったきっかけだったとも言われています。

 

Northan Ryukyuと称された「奄美大島」

 

 

太平洋戦争中、奄美の隣にある沖縄本島には米軍が上陸、地上戦が展開され、焦土と化してしまいます。一方、奄美大島や周辺の離島には空爆があったものの、最後まで米軍が上陸する事はなく、戦争が終結します。

 

戦後米軍は沖縄だけでなく北緯30度以下にある島々(小笠原諸島や奄美の島々)を統治します。この時、武装解除の為に奄美大島へ渡された文書には、奄美大島が「Northan Ryukyu(北部琉球)」と記されており、琉球の一部として扱われていました。つまりこの時の米軍には、南部琉球と北部琉球を日本から完全に独立させる狙いがあったのです。しかし、奄美大島側はこの書面への署名を拒否。あくまで琉球ではなく「鹿児島県」の「奄美大島」として扱われる事を望みました。

 

島の人達の強い思いがあり、最終的に米軍は「鹿児島県奄美群島」として奄美の島を扱い、島を統治することになります。

 

次々と挙がる祖国復帰への声

 

沖縄戦で焦土となってしまった沖縄本島は基地建設や街の復興などが積極的に行われ、活気を取り戻していきます。一方で奄美大島はというと、米軍によって本土出身者はすべて本州に送還され、奄美の出身者だけで構成された「奄美大島支庁」という行政が開かれます。

 

しかし、実態は米軍が行政を掌握しているものでした。そして、奄美大島の人々は、本州へ渡る為にはパスポートを沖縄まで発行しに行かなくてはならない。食糧を突然3倍に値上げさせられる。政府によって徹底された言論統制など、自由を奪われることに不満を持ち始めます。

 

こうした経緯もあって、島の人々の間では「祖国復帰」、日本の鹿児島県へ戻る為の活動が活発化していきます。

 

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▲南方新社発行 奄美戦後史 P.54より引用

 

そんな動きがある中で、沖縄と奄美では「南部琉球」と「北部琉球」が一丸となって日本への復帰を目指そう、という声も上がってきます。しかし最終的に奄美と沖縄は一緒に祖国復帰を目指すのは不可能、という意見に達します。奄美大島ではほぼ全ての人々が祖国への復帰を望んでいたのに対し、沖縄では「祖国への復帰を目指す人々」「一定の期間はアメリカによる統治をやむを得ないと考える人々」「沖縄県の日本からの独立を目指す」人々の3つに分かれていたことが原因だと言われています。

 

この結果、復帰への意志が統一されていない沖縄と一緒に祖国復帰への活動をすることを難しいと判断した人々は、奄美諸島だけで復帰を目指すことになります。

 

バラバラだった島々を統一させた「二島分離報道」

 

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 ▲南方新社発行 奄美戦後史 P.47より引用

 

祖国復帰に対する認識は、奄美諸島の中でも様々な意見がありました。奄美諸島の中でもより沖縄に近く、琉球文化色が強い「与論島」や「沖永良部島」と奄美大島では祖国復帰に対する意思も統一できているとは言えない状況でした。特に沖永良部島には戦後に米軍の基地が建設されたという背景もあり、他の島々と違って、基地との共存関係が生まれていたのです。

 

こういった状況の中、1952年の9月に当時の外務大臣と米大使の会談に関する記事が掲載されます。この記事内には、北度27度以北の島だけを返還すると書かれており、米軍基地のあった沖永良部島や沖縄にほど近い与論島は返還できない、と書かれていました。

 

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 ▲南方新社発行 奄美戦後史 P.56より引用

 

この報道は奄美諸島の人々に衝撃を与えました。特に、与論島や沖永良部島の人々はこの報道をきっかけに、祖国復帰に対する運動をより活発化させました。

 

以前にもまして一つになった奄美諸島の人々の努力があり、1953年8月8日、米国のダレス国務長官によって「奄美群島に関して有する権利を放棄する」と声名が発表されます。この声明によって、奄美諸島は1953年12月25日に念願の日本への復帰を果たし、現在に至っているのです。

 

近年はLCCの就航などで注目を浴びるようになった奄美大島。戦前、そして戦後の歩みを知ると、「沖縄」の近くにありながらも、いち早く「日本」となって歴史を刻んできた「奄美大島」の一面が見えてきます。

 

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【関連情報】

51BBQAQAC2L._SX341_BO1,204,203,200_ 奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相

 2,000円(税込2,160円)

 鹿児島県地方自治研究所編/著

 出版社: 南方新社

 http://www.nanpou.com