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下北沢の守護神が経験した戦争・戦後―「北澤八幡神社」物語

下北沢といえば、若者の街、サブカルチャーの街、演劇の街、音楽の街などなど、数多くの異名の通り、多くの人々を惹き付ける「夢追い人のオアシス」として知られる街です。そんな多様な色を持つこの街にも、ジャンルの垣根を超えて熱く燃え上がる日があります。それは、街中が一丸となってお神輿を担ぐ「北澤八幡神社」のお祭りの日。

 

街の守護神でもある「北澤八幡神社」が見続けてきた下北沢の知られざるストーリー、そしてご自身の人生について、宮司の矢島嗣久さんに伺いました。

 


矢島 嗣久 1934年生まれ。28年前から北澤八幡神社で宮司を務める。


 
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 ▲お話を伺った、矢島さん。

 

 

 

「住職兼神主」がいた時代

 
‐昭和2年(1927年)に小田急線、昭和8年(1933年)に井の頭線が開通したことが、「村」だった下北沢の転機だと聞いていますが、当時はどのような変化があったのでしょうか。

 

まず、大正12年(1923年)に関東大震災が起こり、下町に住んでいた人たちが焼け出されてしまってこっちの方へ移住してきました。さらに、小田急線と井の頭線が開通すると住む人も増えてきました。昭和10年(1935年)には田んぼも少なくなってきて、商店も出来て賑やかになったと聞いています。喫茶店もありました。

 

‐1935年に喫茶店があったとは!そのような変化の中で、北澤八幡神社にも変化はあったのでしょうか?

 

実は、昭和5年(1930年)までここには専属の神主さんが居なくて、江戸時代は、お隣の森巖寺の住職さんが神主の役割をしていました。

 

‐ええっ!そんなことがあっていいんですか?

 

そう。だから明治の初めに神仏分離で、神職が神社を管理しなきゃいけない、ということになってからは「代々木八幡宮」の宮司さんが兼務していたんです。でも、小田急線が通り、家がどんどんと建ってくると、いちいち地鎮祭の申し込みで代々木八幡まで行かないといけないのは大変不便なので、ここに専属の神主を寄越してくれと、総代が代々木八幡の宮司にお願いに行きまして、その宮司が私の叔父なんです(笑)。

 

‐そんなつながりがあったんですね。

 

そうです。そしたら「弟(矢島さんの父)が國學院を卒業したら派遣します」ということで。私の父が昭和5年(1930年)にここへ赴任してきました。父が初代で、私が二代目になります。

 

‐当時の下北沢はどんな街だったのでしょうか。

 

下町から人が移住したこともあり、戦前にはお神輿を担ぐ人たちの会(睦会)ができまして、下北沢は祭りが盛んなところでした。お神輿を担ぐ風習は、下町の人達が移られてからだと聞いています。

 

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「お米」を率先して出す叔父を、誇りに思う。

 
‐村から発展すると同時に、ここにも専任の神主が置かれたんですね。しかし、戦時中は、お神輿を担ぐといったことは難しいですよね?

 

昭和16年12月8日(1941年12月8日、真珠湾攻撃の日)の前年にものすごく大きなお神輿を作ったんですよ。重さが750キロ。でも翌年戦争になると、若い人たちはみな戦場に行っちゃうので出せなかった。戦後もなかなか準備が整わず、出せませんでした。

 

‐真珠湾攻撃のとき、矢島さんは何歳だったのでしょうか?

 

昭和16年(1941年)、僕は小学校1年生でした。でも当時は小学校と言わない、「国民学校」と言いました。今でも覚えているのが、朝礼が始まる前に校庭で遊んでいたら「大本営発表、アメリカ、イギリス、オランダ等々と戦闘状態に入る」と言うんです。

 

‐まさに太平洋戦争開戦の思い出ですね。

 

僕の家には世界地図がありまして、日本は日のもとだと言うので赤く塗ってあったんです。そして、その地図を見ると、アメリカは何十倍も大きい。こんな大きいところと戦争をするんだ、大変なことになったなと思いました。

 

‐では、疎開も経験されているのでしょうか?

 

はい。昭和19年(1944年)に集団疎開で、長野県の浅間温泉に行きました。8月に疎開して、10月ぐらいに母が面会に来ました。子どもたちが食糧不足で青瓢箪みたいになっているのを見て、「これはいかん!」と思ったんでしょう。その足で、石川県の実家に行って、いわしを大量に買いにつけて子どもたちに食べさせたんです。

 

それから、母が父に「青瓢箪になっていて大変だ、連れ戻したい」と言ったんでしょう。学校の校医さんに栄養失調症と書かせてね、疎開先から帰って来れました。

 

‐かっこいい母親ですね!一方、北澤八幡神社としては戦時中どのような役割を果たしていたのでしょうか?

 

そうですね。出征の出発の日、まずみんなこの境内に集まるんですよ。無事に帰って来られますように、とのお参りをして出発をするという風習がありましたね。もしかしたら強制的にお参りをしていた、ということもあったのでしょう。あと、子どものときは毎月1日、朝礼が終わると校長先生以下全員で、八幡神社でお参りをしていました。だから、校長先生とも親しかったんです。栄養失調と書いてもらうことが出来たのも、そういった背景があったのでしょう。戦後は、お参りは少し無くなりましたね。

 

‐終戦をどちらで迎えられましたか?

 

縁故疎開(知り合いを頼っての疎開)先で終戦を迎えました。

叔父の家だったんですがね、村長や、農業組合長をやっていたんです。

私たちは、石川県は米所だし行けば米をたらふく食べられると思っていたんですけれど、出てくるのが大根の葉っぱが入ったおかゆなんですよ。毎日毎日大根の葉っぱのおかゆなんですよ。

 

‐毎日毎日大根の葉っぱのおかゆだったんですね・・・。

 

それでお袋にわたし手紙書いたんですよ、「せっかく田舎に来たのにお米を食べられない」と。でも出す前に叔父が見てしまって、「悪いけれどな、組合長やっているから率先して米を出さないといけないんだ。俺は自分がみんなよりも多く出すから、みんなに出してくれって言えるんだ」と。

 

そのおじを私は誇りに思っていますね。

 

 

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「神様を敬うどころじゃない」戦時中よりも辛かった戦後の生活

 
‐戦後になり、下北沢と北澤八幡神社にはどのような変化があったのでしょうか?

 

下北沢は、幸い戦災にあっていませんから、大きな変化はありません。ただ、下北沢には駅前に広場があったんですが、戦後はそこに屋台のお店が出るようになりましたね。下北沢は焼けなかったから普通のお菓子屋さんもあるんです。でも広場にどこからともなく人が集まってきて、ハーシーのチョコレートやチューインガムを売っていました。闇市ですね。

 

北澤八幡神社に関しては、戦後お参りをする人もぐっと減ったし、奉納についても、お米で奉納していたのが、配給制になってばったりとなくなりました。お賽銭もなくなりました。学校行くときは朝飯がないんですよ、お米が無いから。学校行ってお昼のときにご飯にありつけた、という。これじゃいかんといって、母親が勤めに出ましたね。

 

それは戦後で物が不足し、神仏にまで気が回らなくなってしまったということなのでしょうか?

 

自分たちが生きるのが精いっぱい、神様を敬うどころじゃないですね、だから神社は寂れていました。

 

‐戦時中も物資が不足していたかと思いますが、その際は生活に困らなかったのですか?

 

戦時中は、奉納はありました。とにかく神様を第一に、と考えていたのでしょう。

変な話だけど、お正月になるとお餅があがる、それを全部下ろして食べなきゃいけない、そうすると3月頃までお餅が残っていました。

 

‐では、戦後に入り、厳しかった生活が楽になったなと思う転機は何だったのでしょうか?

 

神武景気(1954年~1957年)だったのでしょうね。やっぱり終戦からおよそ10年経ち、ようやくいつもの神社の姿になりつつありました。だけど、生活が楽になったきっかけは各神社で異なると思います。

 

‐下北沢は早い方だったのですか?

 

北澤八幡神社の場合は、昭和53年(1978年)に、社殿を木造から鉄筋に建て替えたんです、その頃からお参りや奉納が増えました。やっぱり、人の心が落ち着いた頃から、段々と神社に人の姿が見られました。世間が荒廃しているときはとってもそんな気持ちにならないのでしょうね。まさに、「衣食足りて礼節を知る」ですね。

 

 

宮司が語る、神社の信仰とは?

 
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‐矢島様が北澤八幡神社を継いだのは、いつでしょうか?

 

僕は、48歳のときに跡を継ぎました。それは、戦後の親の生活状況を見て、神主は食えないなぁと思ったからでした。大学も早稲田の法学部に進学しました。母親がやっぱりそれを支持してくれました。ただ、48歳で跡を継いで良い面と悪い面がありますね。神社は伝統的なところですから。ただ変り種と言われていますが、井の中の蛙にならずに済みました(笑)。

 

‐今、多くの若い女性が神社に興味をもたれていますよね?

 

はい、興味を持ってくださった人達が信仰を持つようになってくれれば、と思います。

 

‐時代とともに神様への考え方も変わってきたと思いますが、本来の神社への信仰とは何でしょうか。

 

もともとは村を守ってくださる氏神様への信仰です。例えば、源氏は一族を守ってくれる守護神の八幡様を大事にしました。(※北澤八幡神社は元々源氏の流れを汲んでいるといいます。

 

それから、神様に守ってもらう以上、その前に神様に誓いを立てるものでした。

「八幡太郎義家」というのは、源頼朝の祖先となりますけれど、この辺で活躍して、奥州に行って蝦夷を征伐したと言われている武将です。「八幡太郎義家」は、源義家なんですが、彼は、八幡様の力を頂いて、その中で一番強い「八幡太郎義家」と名乗る代わりに、自分は誰よりも強い男になりますと神様に誓った。それで「八幡太郎」と言った。神様に守ってもらう以上、自分たちが一生懸命やることを神様に誓うことが本当の信仰です。

 

「テストで良い点がとれますように」というのは本当の祈願じゃないんですね。自分は一生懸命勉強をした、だからそういう自分を守ってください、というのが祈願です。

 

‐なるほど。神社へのイメージが変わりました。最後に、矢島さんが今後取り組みたいことは何でしょうか?

 

境内をバリアフリーにしたいですね、そして多くの人に来てもらう。そして、神道じゃなくても、キリスト教でも、仏教でも、何でも良いです。正しい信仰を持って欲しいです。

 


 

※矢島さんに語ってもらった下北沢の民話はこちら