戦後を生きる人々の、活力の象徴でもあった闇市。闇市で栄えた街の戦後70年を経た「今の姿」を切り取るシリーズ第2回は、上野の「アメ横」レポート後編をお届けします。
前編はこちら
「アメ横にしかないもの」を届け続けたい
‐「アメ横」は商売方法も独特なのだと聞いたことがあります。
二木:例えば、歳末になると、食べ物を売るお店では、品物が1000円単位なんだよ。
これは1000円、あれは2000円っておつり小銭は忙しいので、ない。貰いっぱなし。
3500円分買って5000円出したら、おつりじゃなくて3000円分の品物をつけるのもアメ横のやり方だよね。
‐戦後から受け繋がれているアメ横らしさは何だと思いますか?
二木:何よりも、物品販売、対面販売がアメ横の基本だよね。
アメ横の中でも、表通りの方ではなく、中通りの細い小さいお店がひしめき合っているのは、PXからの舶来品を売っていた時の名残だしね。
ずっとジーパン一筋、ベルト一筋、サングラスだけ売っているのだとかね。掘り出し物や珍品がコンセプトの一つだったから。
(革製品一筋24年、千葉さんは「アルバカーキ」のご主人でもある。)
もう一つのコンセプトは、魚などの生鮮品。数年前まで、かまぼこ屋さんがあったけど、おやじさんが亡くなってから跡継ぎがやっていたが、もう限界だと言ってやめた。
そしたらね、そこにペット屋さんが入りました。アメ横本通りには必要の無いタイプのお店だから、何でもあり、どんな業種でもと言えども、これからどうなるのかなって心配になります。
それから、私の前の会長だったジーパンの「マルセル」の店主さんが、今はもうジーパンを売るのをやめて、貸しちゃって、跡継ぎが繋がらないと、貸しちゃう。
アメ横連合会からすると老舗に頑張って継承してほしい!という思いがある。
‐その熱い思いはどこから来るのでしょうか?
二木:働きながら、肌身でお客様のありがたみを感じられることでしょうか。
学生時代はどちらかというと新宿や渋谷で遊んでいた私でしたが、アメ横連合会で活動への参加を始めてから、「アメ横のブランド維持」や「アメ横の歴史」をしっかり継承して、後生や跡継ぎに正しく伝えること、お客様にも伝えていくことに、責任を感じました。
我々が守るべきもの・推進すべきものは、「アメ横」ブランドの維持、信用、そしてお客様のこと。物品販売中心にやっている賑やかなところ、掘り出し物や珍品があるというのが上野のアメ横だと思っています。
ここにしかないもの!を売っているのが本来のアメ横なんです。
「アメ横ブランド」という強みと歴史があるからこそ、全国の商店街でナンバー1なのだと自負をしています。
そのためにも、持ち味を維持していかないといけない。歳末は東京の台所みたいな賑わいで、魚の生鮮品をまとめ買いすると安い。
普段は、掘り出し物や珍品がパンドラの箱を開けるみたいに出てくる路地・迷路。それであり続けたいと思うのだけれどもね・・・。
上野という街が持つ「歴史とブランド」の重さ
‐二木さんは他にも上野観光連盟にも所属されていたり、名刺には多くの組織名が書かれています。上野を舞台に多くの組織が活動していることに驚きました。
二木:例えば、「上野駅周辺全地区整備推進協議会」はJRとの交渉を担う組織。
上野東京ライン開通の交渉も、この組織を通して多くの要望をJRに言いました。
実は西洋美術館の世界遺産登録を目指していて、その推進委員長はアメ横の蟹屋さんなんですよ。(笑)
それぞれ持ち場があって地域が面でかみ合っている。飲食店は、中心の「のれん会」や上野地区町会連合会も観光連盟と繋がっています。
上野とアメ横は、戦後から競争と協力が混在している街なのだと思います。
競争と協力が上手くかみ合っている。そして、歴史、伝統を重んじてブランドを守っていく意識が高いのかな。
‐それは責任も重くなりますね。
二木:上野は歴史が重い。地域としての重さがあるから、もちろん重圧にも感じます。
歴史が重いから、新しいものを取り入れようとしても、理由がちゃんとないと、上野地域の大先輩に「何言っている」と言われちゃう。歴史を知っているのか、と怒られます。
(アメ横連合会が入るアメ横センタービル)
‐これからのアメ横についての想いや意気込みを聞かせてください。
二木:アメ横は上野の一部。他にも上野をフィールドに多くの組織に所属して会長をやらせてもらっているからこそ、全年代の方々が上野に来てほしい。おじいちゃんは孫を連れて動物園へ。若い人たちはアメ横へ。
上野を、全世代が楽しめる場所にしたいです。ルコルビジェの西洋美術館を世界遺産にしたいだけでなく、上野を、世界遺産にしたいですね。
蟹屋さんが西洋美術館の世界遺産登録を目指す。驚きながらも、この発言に、上野で働く人たちの上野への愛を感じました。
戦後の闇市からスタートしたアメ横がいまなお多くの人に愛されているのは、上野ごと盛り上げようと地域の人たちが努力をしてきた結果なのでしょう。
場所に根を下ろしていく生き方も素敵だと感じた、今回のインタビューでした。