戦後を生きる人々の、活力の象徴でもあった闇市。闇市で栄えた街の戦後70年を経た「今の姿」を切り取るシリーズ第1回は、上野の「アメ横」にて、アメ横商店街連合会の名誉会長・二木忠男さんと広報担当の千葉速人さんにお話を伺いました。
(左:名誉会長・二木忠男さん、右:広報担当・千葉速人さん)
— 二木忠男さんプロフィール1953年生まれ。アメ横の老舗「二木の菓子」や「二木ゴルフ」「二木ベーカリー」等を経営する二木グループの2代目、先代もアメ横商店街連合会の会長を務めた。 —
満洲やシベリアからの引き揚げ者が作り上げた上野闇市
‐「アメ横」は、戦後の闇市が始まりだと聞きましたが、どのように成立していったのでしょうか。
二木:他の闇市はチンピラ風なテキヤが多かった一方、上野の闇市は満洲からの復員兵が集まって出来たものなんです。
私の父も、満洲から引き揚げてすぐに野菜やタイヤを売る行商をしていて上野に辿り着きました。
当時の上野には、引き揚げ者だけでも400人ぐらいが集まっていたんじゃないかな。
‐復員兵や引き揚げ者を中心として成り立った上野の闇市には、どんな特徴があったのでしょうか?
二木:満洲からの復員兵やシベリアからの引き揚げ者が中心となって、協同組合がすぐにできたのがひとつですね。
この組合はアメ横商店街連合会の前身にあたりますが、当時から組合があったくらいだから、結束の強さが特徴だったと言えるのではないでしょうか。
‐当時の上野闇市では何が売られていたのでしょうか?
二木:昭和22年~昭和24年(1949年)までは食糧難の時代でした。砂糖の統制時代で砂糖が規制されていたので、甘い「芋飴」が中心でした。
甘いものを手に入れるために、上海からの船便で入ってきたサッカリン(人工甘味料)を横流ししてもらい、千葉の飯岡のでんぷん工場で加工してアメ横で売っていたそうです。
また、同時代に、錦糸町にもアメ屋さんの工場がいっぱい出来ていたから、そこでつくった飴玉もアメ横に持ってきました。
アメ屋さんが100軒、200軒、300軒とどんどんと増えていきました。
‐甘いモノが求められていたんですね。
二木:はい。他は露天商みたいなもので、ガード下のところに戸板一枚でイカを売ったり、残飯シチューといった残り物、バナナのたたき売りとかね。それが戦後の、アメ横の闇市でした。
「アメヤ横丁」と「アメ横」 2つの看板の裏話
‐芋飴を売るアメ屋が多かったことで「アメ横」と呼ばれるようになったことは聞いたことがあります。
さらに、アメ横にはアメリカ軍から横流ししてもらった物資も売っていたそうですね。
二木:1950年になって朝鮮戦争があったでしょ?朝鮮戦争で特需があって、当時はPXというアメリカ軍相手の配給場がありました。
今の、銀座の松屋や和光にあったのだけれど、そこから米軍の払い下げ品を流してもらい、米軍の払い下げ品をアメ横で売った、これが舶来品のスタートです。
ハーシーズのチョコレート、ZIPPOのライター、レイバンのサングラス、革製品からジーパンや石鹸、カミソリ、化粧品だとか。そういった舶来品が、アメ横にどんどんと入ってきたんですね。
(初めてジーパンを売ったお店「マルセル」)
1946年からアメや食料品が売り出され、朝鮮戦争がはじまった1950年からはPX(アメリカ軍への配給品)の流れ品を売るようになった。
以前は、飴を売るアメ横丁、50年以降はアメリカ製品を売るアメリカ横丁。アメヤ横丁とアメリカ横丁が合体して、「アメ横」という総称になったんです。
‐なるほど、「アメ横」には2つの由来があったのですね。
今でもね、飴とか食べ物を売るお店は上野寄りに多いのだけれど、化粧品店などのアメリカ軍からの流れ品を扱うお店は御徒町寄りに多い。
(上野駅すぐ傍の看板には、「アメヤ横丁」)
(御徒町へ歩いてくと「アメヤ横丁」ではなく、「アメ横」の看板が。飴屋さんが多かった上野寄りと、PXからの流れ品を売っていた御徒町寄りの違いが看板でもわかります。)
個々のお店による競争がアメ横の魅力に
‐戦後間もない闇市の場所は、今のアメ横と同じ場所になるのでしょうか?
二木:もともと、今のアメ横プラザには変電所があったのだけれど、1945年ぐらいに、空襲でやられるといけないから場所を移動したんです。
変電所があった場所は空き地になってしまって、またその場所は上野と御徒町の真ん中で、上野と御徒町の真ん中は少し曲がっていて窪地になっており、それが最適でした。
毎日朝の4時から警官が見回りにくるまでの7時まで、開かれていたんです。
つまり闇のうちに取引きするから、闇市。舶来品が入ってからは表で売れるようになったけれど。
‐闇の中で売っていた、ということですね。
二木:そうそう。あと飴屋さんが多かった頃のアメ横の歴史といえば、一斗缶を背負った行商のおばあちゃんが東北から上野に出てきて、野菜等をなじみのお店で売って、売った代金で飴を空になった一斗缶に詰め込めるだけ買って、東北に帰って3、4倍の値段でその飴を売っていたそうです。
東北本線の行商、素晴らしいアメ屋横丁としてのアメ横の歴史だと思います。
‐アメリカ軍からの払い下げ品を売ったのは、他の都市の闇市と比べても、特色あることだったのでしょうか?
二木:それをしたのはアメ横だけじゃないかな。新宿は飲食店街で、物品販売はしていないところが多かったんだけど、アメ横は飴屋もそうだし、モノを売ることが主体。
アメリカ軍からの払い下げを貰って売ったのは、アメ横の人たちがこぞってしたことで、他の人たちはやらなかったのだと思います。
当時、生きるために出来ることと言えば、食べ物や目新しいものを持ってきて売ってお金を稼ぐことしかない、必死だったろうし、みんなで競争する意識があったと思います。
‐みんなで競争する意識とは?
二木:例えば、今でもPXからの流れ品を売っていた名残で、化粧品店が何軒も並んでいるのだけれど、それぞれカルテル(価格協定)は結んでいないから。値段が違います。
ディオールの口紅、ランコムのマスカラ、すべてが個人輸入。
連合会では結束、なおかつ個々の商売においては競争をしている。
裏で貸し借りはするけれども、個別にお客様をもっており、一軒一軒が並んで商売をしているのは、戦後の舶来品を売っていたときからの流れです。
それぞれにお客様がいて、特色も違って、おまけをよくつけるお店もあれば、値段を安くしてくれるお店もある。
ともに競争するライバルでありながらも、成り立つことが強みなんじゃないかな。
(今も多くのお店がひしめき合う中通り。)
戦後の闇市から始まった商店街は数多くあります。
どれも個性的な魅力をもっていますが、戦後の闇市の風情を多分に残す上野・「アメ横」には、今でもぎらぎらとした「活力」とちょっとやそっとじゃ倒れないたくましさを感じました。第二部では、今のアメ横についての課題と展望を伺います。