今回の編集部ブログでは、60年代、70年代のカウンターカルチャー、サブカルチャーへの熱い思いを語っている『「抜け落ちた1970年代」のクリエーション ―安保・ヒッピー・ビックリハウス―』の裏話として、「パフォーマ70 HONMOKU」の監修を務める榎本了壱さんと、プロビューサーの岡崎松恵さんのお二人の出会いに迫ります。

 

「舞踊」が二人を引き合わせた

‐お二人の出会いを伺えますか?

岡崎:横浜に、「STスポット」というパフォーマンススペースがあって、私はそこで16年間ディレクターをしていました。

ちょうど、1990年代の中頃から、コンテンポラリー・ダンスのムーブメントが誕生して、そのなかで開催する若手の公募プログラムに、コンテンポラリー・ダンスの理解者に来ていただきたくて、それで、榎本さんに審査員として来てもらったんです。

‐コンテンポラリー・ダンスの理解者として?

岡崎:そうですね、だからわたしにとって、榎本さんは、ダンスの人なんです(笑)。

若い人達をすごく応援して下さっていて、みんな有名になっていますね。

矢内原美邦、山田うん、伊藤郁女とか。随分榎本さんが押し上げてくださいました。

‐アートディレクターやクリエイティブディレクターとしての榎本さんしか知らなかったので驚きました。

榎本:実は、私の兄が日本舞踊家なんですよ。

11歳が違うから、僕は5才の頃からずっと踊りを見るようになって、10才ぐらいのときには家にお稽古場も出来て、踊っているわけですよ。毎日、みんなが(笑)。

そういう環境だったから、踊り歴は長いんです。

岡崎:でもコンテンポラリー・ダンスに目を向け始めたきっかけは、天井棧敷に参加したかときぐらいから?

榎本:その前にね、うちの兄の踊りの先生は、花柳徳兵衛(1908-1968、4度の芸術祭賞を受賞)なんです。日本舞踊の世界ではいち早く創作舞踊にチャレンジした人。

古典の日本舞踊と同時に、創作舞踊や民俗舞踊を、ものすごく一生懸命やっていた先生で、私の兄も創作舞踊をやっていくので、天井桟敷に参加する前からですね。

コンテンポラリー・ダンスではなくて、その前のモダンダンスの人たちと、兄は一緒に作品を作っていましたから。

天井棧敷にかかわる前ということになりますね。

‐「舞踊」が二人を引き合わせていたんですね。

岡崎:その後も、劇場で一ヶ月ごとに会っていましたね。

でも企画で仕事するのは今回が初めてです(笑)。

「70年代」のカウンターカルチャー、サブカルチャーといえば、榎本さんなので、監修をお願いしたんです。

 

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二人の出会いになった「舞踊」

はたまたそれは、ダンスとは違うのか?

二人が出会ったその後は『「抜け落ちた1970年代」のクリエーション ―安保・ヒッピー・ビックリハウス―』へどうぞ。

 

編集部・ゆう