土からはじまり、土へと還る。すべての工程を手作業で行い、素材は無駄なく循環していくものづくりの場所がある。

季節の巡りにあわせ、畑から育てた植物の繊維を取り出し、糸をつなぎ、布を織る。ここではなぜ、そのようないとなみが途切れることなく続いているのか?

数年間、村に通い取材を続けた筆者の経験をもとに、この土地に伝わる植物の糸「からむし」とそのいとなみの一部をお伝えしたいと思う。

高橋 美咲
長野県出身。「紡ぎ、継ぐ。見えないものをみつめてみよう」という指針のもと、競争ではなく協奏できる生き方を模索してスロウに活動中。これまで手仕事やものづくりの現場取材を中心に重ねてきた。布やうつわなど、懐の深い生活道具(文化)の世界をこよなく愛す。

からむし(苧麻)、昭和村との出会い

名前は昭和村。福島県会津地方のなかでもとりわけ山深い 「奥会津」と呼ばれるエリアに位置し、国内有数の豪雪地帯に指定されている。天然のブナ林が広がる一帯には、湿原や渓谷が点在し、只見川の支流に沿うように10の集落からなる村には、1,200人ほどが暮らしている。

私が奥会津昭和村で栽培される「からむし」を知ったのは2015年のこと。10年来にわたり、昭和村と親交を持つKさんが語って聞かせてくれたことがきっかけだった。

「その村では5月、二十四節気の小満(しょうまん)のころに『からむし』という植物の芽を焼きそろえ、畑に火入れをする『からむし焼き』という作業が行なわれるんだ」

「からむし」という糸になる植物の存在も「火入れ」や、のちに記す「糸績(う)み」という言葉も、耳にしたのはこのときが初めてだった。

からむしは衣服の原料として、古くは縄文・弥生時代から用いられ、奈良時代に成立した「日本書紀」には栽培を奨励する記録が残るほど、日本人にとって馴染みの深い植物だったそう。

今でこそ木綿(コットン)の布地が主流となっているけれど、産業革命以前の日本では、からむし以外にも大麻や葛布、紙布、芭蕉布など、山野に自生する草や木の皮から糸をつむぎ、布を織り出した「自然布」がさまざまな地域で活用されていた。

なかでも薄くしなやかでハリのあるからむしは、「上布」といわれる上質な布地の原料として用いられ、とりわけ昭和村で採れる繊維は品質が高く重宝された。農作物の栽培に適さない冷涼な気候の村にとって、当時はお米に変わる換金作物であり「からむしだけは、失くすなよ」と、代々途切れさせることなく守り継がれてきたのだった。

必要がなくなってからも、手放さなかった

以前、村に暮らす80代のおばあさんから聞いた言葉が印象に残っている。

「昔は暮らしのすべてに機織りが欠かせなかったのや。田んぼさ入るにも、山さ入るにも、みんな自分のうちで麻を織って、それを着ていたの」

からむしは当時、どこまでも「ハレ」のものであり簡単に手にすることはできない貴重なものだったため、自家用の衣類の多くは大麻の繊維で織られていた。

昭和村でからむしの繊維を使い糸や布をつくるようになったのは戦後間もなく、麻の栽培が途絶えてからのこと。やがて衣服を自給する必要がなくなってからも、村の女性たちは糸づくりと機織りの習慣を手放さなかった。

爪先で細く裂いたからむしの繊維は湿らせて、結ばずに撚り合わせながらつないでいく。この工程を「糸績み」*1といい、雪に閉ざされる冬のあいだに延々と糸を績み、遅い春の訪れのころ、容器がいっぱいの糸で満たされるとようやく糸に撚りをかけ、布を織った。

「昭和村のからむしのいとなみは、そのすべての作業をひとの手、とりわけ女性たちの手で行なっているんだよ」

*1)糸績み:木綿(2〜3cm)などの短繊維をつなぐことを「紡ぐ」といい、からむしや麻(約1.5m)など長繊維をつなぐことを「績む」と使い分ける

からむしの原初的ないとなみに惹かれて、村外から多くの女性が村に定住しているという話にも興味が湧いた。「からむし織体験生『織姫・彦星』」という名称で、からむし織の一連の工程と山村生活を体験する取り組みで、28年前から続いている。

村の後継者が先細りしていくなか、事業を通して現在までに120名以上の女性(村人たちは親しみを込めて「織姫さん」と呼ぶ)が来村し、そのうち3割ほどの織姫さんが村や近隣の地域に定住し、からむしと村の文化に光を差し込んでいる。

こうして記した事柄の多くは、Kさんや村に暮らす元織姫さんと交流を重ねていくなかで少しずつ学んでいったことである。昭和村とからむしの存在を知った当時の私は、植物からどのような過程をたどり糸となるのか想像すらできないまま、純粋にこの村へ行ってみたいと思ったのだ。

それから数ヶ月後、からむしの一連のいとなみについて教えてくれたKさんの計らいにより、私は夏の昭和村を訪れる機会を得た。

すべてはサイクル。そこにひとが住んでいる

東京から車で向かうと、片道おおよそ4時間。鉄道の場合も最寄り駅から車かバスで40分。道中の寄り道をふくめ、今となっては旅における多少の不便さすら恋しく思うけれど、そもそもアクセスしやすい場所とは言いがたい。

この村を初めて訪れたとき、「原風景」という言葉と「懐かしい」という感覚が重なったことをよく覚えている。

峠を越えていよいよ村に差しかかると、もとは茅葺き屋根に赤や青のトタンをかぶせた民家がちらほらと姿をあらわした。私は車の窓を開け放ち、この土地の空気を身体中に吸いこみながら、幾重にも重なり風に揺らめく深緑の草木の美しさに、心を奪われた。

昭和村の夏は短い。夏だけじゃなく、春も秋も。「ようやく」と思ったら束の間、駆け足で過ぎていく。この村は、とりわけ冬が長いのだ。

訪れたのは8月上旬。生育したからむしの茎の刈り取りと「からむし引き」といわれる大仕事にあわせての訪問だった。夏の土用入りをして間もなく始まり、お盆明けのころに終える「からむし引き」は、年に一度の心が高鳴るイベントである。

生育したからむしの茎は、ひとの背丈を超えてスラリと伸びていた。畑で刈り取り作業をしていたのは、まあるくなった腰に蚊取り線香を提げたおじいさん。聞くところによると、長年、からむし栽培を続けている達人だそう。

根を踏み固めないように、刈り取りを行なうひと以外が畑に入ることはできない。そうして刈り取られた茎は、先端を切り落とした状態で美しく束ねられ、山から引いている清水に数時間ほど浸け置かれる。

昭和村でからむしの栽培が途切れずに続いてきた理由のひとつは、この清水にあるように思う。真夏でもヒヤリと冷たく、つねに循環している水のおかげで刈り取り後も繊維の鮮度を保つことができるのだ。

一帯に自生するブナ林はスポンジ状の根に雪解け水をたっぷりと蓄え、自然のダムの働きをするため、大地の奥で濾過された水は巡り、やがて人びとの暮らしに恵みをもたらす。こうしたサイクルを維持していくために、村人たちは「結い」という相互扶助の精神によって、少ない人手ながらも定期的に川浚いや水源の整備などを協働で続けている。

山や川が荒れることは、生活に大きな影響を及ぼす。自然の摂理を肌で知っているひとが持つ、豊かな知恵といったらいいだろうか。経済活動やグローバルといった視点では、こぼれ落ちてしまいそうないとなみでありながら、もっと根源的なところで理にかなっている。

からむしをはじめ、村の暮らしのいたるところに自然と共生していく知恵が散りばめられていることを折にふれ、私自身も学んでいった。

心を平らにして、腰を据えて

パキッ、 シュッ シュッ シュッ シュッ シュッー

こぎみの良い音とともに、フレッシュで青々しい植物の匂いに感覚がひらかれる。つい数時間前まで畑に悠然と背を伸ばしていた植物から、糸となる繊維が生まれる瞬間。それが、からむし引きだ。

年季の入った栗の長板を使いリボン状の表皮に平らな刃を当てて、シュッ シュッ シュッと表層をこそぎ落とすことで、青く透けるような繊維が内側から次々と姿をあらわす。「キラ」とよばれる光沢を纏い、素材がそのままに美しい。

からむしを引く女性たちは、時にはおしゃべりを交えながらも手を止めることなく、淡々と働き続ける。その集中力には凄みを感じるばかりで、身体の持てる限りの力を使い果たすとはきっとこういうことなのだと、深いため息がもれそうになった。

それぞれの工程はいたってシンプルな反復である。からむし引きも、先に続く糸績みや機織りも。シンプルではあるけれど、ひとつとして簡単なことはない。先達の仕事をみて覚え、どの工程もチャレンジできるのは年に一度きり。ここではそれを積み重ねていくしかない。

「てぇらな心で、じねんとな」

村のおじいさんやおばあさんは、ひたむきにからむしを引く彼女たちに、こうしてよく声かけをしてくれる。からむしに向き合うときは、心を平らにして、腰を据えて取り組むのである。どんなときも。

手を動かしながらつないでいく

ここまでにお伝えしたのは、からむしのいとなみのほんの一部分。糸への道のりも、布への道のりも、季節の移り変わりとともにこの先へ続いていく。

さまざまな場面で立ち止まって考えてしまう自分がいた。これほど美しいキラを引き出せるようになるまでに、苧桶(おぼけ)がつないだ糸で満たされるまでに、一枚の布が織り上がるまでに、満足のいく仕事ができるようになるまでに、一体、どのくらい時間がかかるのだろう、と。

少ないながらも村に生きるひとたちと接するなかで、彼らの持つ時間の捉えかたについて感じることがあった。とても細やかでありながら雄大な川の流れのようでもあり、いつでも僅かな余地がある。駆け足で過ぎていく鮮やかな季節と、待てど暮せど降り止まない雪の重みの両方を知っているからだろうか。

この村に流れる時間は、時計の針のように一定ではないし、自分ひとりでコントロールできることはあまりにも少ない。長い年月をかけて、そうしたことを身体に記憶したおじいさんおばあさんは、織姫たちを見守りながら「あんまり先を急ぐなよ」と、最小限の声がけをしてくれるのかもしれない。

肝心なことは言葉にせずに、手を動かしながらつないでいくのだ。時間を細かく刻むのでもなく、どのくらいの時間と立ち尽くすでもなく。手仕事の確かさと、世話をし育て、生みだすことの喜びを知っているから。昭和村の植物の糸「からむし」は、村のひとたちとからむしを愛する女性たちの手によって、これからも続いていくのだと思う。