11歳のとき、知らない男に連れ去られそうになった。
大声で泣き、腕を振り払って逃げたおかげで、今、私は生きているのかもしれない。
反対にあのとき逃げなかったら、どうなっていただろう。
得体のしれない恐怖は、20年経った今も胸の中にくすぶったままだ。

性犯罪や少年犯罪の判決がくだるたびに、悔しく感じていた。
被害者やその家族は一生苦しむかもしれないのに、どうして加害者は何年かしたら刑期を終えて刑務所から出てこられるのだろう、と。

そして考えを深めていくうちに、「犯罪を食い止めるために、少しでも個人ができることはないのか」という気持ちに繋がった。

きっかけをくれたのは『塀の中の少年たち』というアメリカのドキュメンタリー映像作品である。

アメリカでは、未成年のときに犯した罪で終身刑に服している受刑者は、2000人以上いるそうだ。ところが2012年、最高裁は少年犯罪の終身刑判決を違憲として、彼らが再審請求をすることが可能になった。再審で認められれば、仮釈放の機会が訪れる。『塀の中の少年たち』は、再審請求を希望する受刑者9人(うち2人は同じ犯罪の受刑者)にスポットをあて、被害者側・加害者側両方の思いを追っていく。

ピックアップされる8つの犯罪の多くで、被害者やその家族は「絶対に判決を覆してほしくない。どうして再審でまた苦しまなければならないのか」と憤る。

一方、加害者は「反省している」とそろって口にし、加害者の家族は「戻ってきてほしい」と願う。彼らが事件を起こした理由も当時の背景もさまざまだ。

映像を見ていると、外国の事件なのに自分の身に起きたことのように感じられる。それはなぜなのだろうか。『塀の中の少年たち』から3つのエピソードをピックアップして考えたい。

若林 理央
読書が好きなフリーライター。大阪に生まれ育ち2010年に上京。幼少期からマジョリティ・マイノリティ両方の側面を持つ自分という存在を不思議に思っていた。2013年からライターとして活動開始。取材記事やコラムの執筆を通し「生き方の多様性」について考えるようになる。現在は文筆業のかたわら都内の日本語学校で外国人に日本語を教えている。

被害者だけではなく加害者も受けた性被害

2001年、15歳のブランドンが強盗をした後、21歳の大学生をレイプした。本作で描かれる8つの事件のうち7つは殺人が絡むが、この事件のみ性犯罪である。ブランドンは未成年でありながら141年の量刑、つまり終身刑が下った。加害者がアフリカ系アメリカ人、被害者が白人であったことから人種差別も判決に影響したのではないかという説もある。

レイプは被害者の人生を壊す行為で「魂の殺人」とも呼ばれる。国を問わず、加害者の再犯率は他の犯罪と比べても高い。判決が妥当だったか以前に、まずはそこに目を向けたい。

事件の直後、被害者が経緯をしっかりとした口調で話す映像が残っている。だが口調とは裏腹に彼女が受けた傷は深い。被害を受けたときの感触を今でも覚えていると言う彼女は、事件後、将来の夢や子供を持つことを諦めた。

一方、「事件が起こる前」に焦点をあてると、加害者もまた性犯罪の被害者だったという事実が浮かび上がる。彼は7~8歳で近所の女性から性的な行為を強いられ、10歳、13歳、15歳でセックスをした。すべて相手は成人女性である。明らかな児童虐待だ。また、9歳からマリファナを始めコカインを売っていたという記録もあり、事件の2年前には父親が射殺されている。

彼の善悪に対する価値観は10歳前後で麻痺したも同然で、それが他者の人生をも狂わせる事態になった。

この事件は加害者のインタビューがない。被害者は時に涙を浮かべながら質問に答える。見終えた後、「殺人事件でなくても未成年に終身刑が下るなんて」という驚きと、被害者に寄り添いたい気持ちが同時に生まれた。

残虐な事件と再犯の可能性の高さ

本作はドキュメンタリーなので事実が描写される。再審の結果、後味の悪い結末を迎えるエピソードもある。中でも強い印象を残したのが、16歳の少年オーティスが母子家庭に侵入し母親を殺害、娘(次女)の顔を撃ち後遺症を残すほどの危害を加えた1998年の事件である。

再審で彼女は法廷に立てなかった。15歳のときに愛する母を目の前で殺され、自身も撃たれたあげく、事件後、32回の苦しい手術を受けた。約20年経った今も、毎日多くの薬を服用しなければならない。体の傷だけではなくPTSDにも苛まれているからだ。

「釈放したら、加害者は絶対に私を見つける」

彼女は悪夢が蘇ることを本気で恐れている。再審請求を受けた被害者本人が、裁判で証言をしたほうが被害者側にとって有利だとわかっている。しかしトラウマと恐怖から、どうしても行けないのだ。

事件当日、家にいなかった長女は何年も「自分がその場にいれば母と妹のために戦いたかった」と自問自答し続けた。彼女は可愛い妹をこれ以上苦しませたくない、法の限界まで戦ってやると決意し、ひとり法廷で証言する。

このエピソードは加害者側のインタビューもある。判決がくだった後からずっと刑務所にいるオーティスは、所内では受刑者同士の争いが絶えないと語る。自分の身を守るために必死だったと述べる彼に、更生の機会があったか疑わしい。「このまま釈放してもまた同じような罪を犯すのでは」と被害者だけではなく視聴者である私も感じてしまう。

オーティスが育ったのは暴力がはびこる地域だった。11歳のとき、父にコカインをもらったのをきっかけに麻薬中毒になり、12歳で強盗罪で捕まった。オーティスの母は、近い将来息子が大事件を起こすことを恐れ、少年院に入れることを判事に頼む。刑法上も最短の刑期で少年院に入ることが妥当だった。

しかし母親の意に反してオーティスは少年院に入れられず、20年の保護観察処分となってしまった。そのせいで事件は起きてしまったと被害者やオーティスの母、弁護士は話す。数年後、コカインを吸ってハイになったオーティスは、女性だけの家庭を選んで侵入、母子を撃った。

「あのとき拘留されていれば事件は起きなかった」という意見のみ、被害者側とオーティスの母親や弁護士で一致している。

しかしインタビュー背景の刑務所を見ていると、少年院もまた劣悪な環境だったのではないかと感じられる。当時まだ成長著しい12歳という年齢のオーティスだっただが、未成年とはいえ短期間少年院に入るだけで人は変わるだろうか。

だからこそ視聴者である私は、被害者により感情移入をしてしまう。

 

被害者と加害者、どちらに感情移入をするか

一方、視聴者が「加害者に感情移入をしてしまう」珍しい事件もある。主観はなぜ変わってしまったのだろうか。

ガールフレンドの両親を撃ち、彼女の母を死に至らせた15歳のボビーの事件がそうである。事件後、ボビーのガールフレンドだったクリーシーが彼に「両親から酷い虐待を受けている」と嘘をつき殺害を頼んでいたことが判明し、二人ともに終身刑が下った。『塀の中の少年たち』の撮影のとき、ボビーは41歳である。今も服役中で、再審が叶わなければ死ぬまで刑務所から出られない。

このエピソードの他との大きな違いが、被害者側のインタビューがないことだ。妻を殺され自らも撃たれたクリーシーの父親は、事件後に怒りをこめて、自分の娘であるクリーシーと実行犯のボビーに厳罰を望むと話していたそうだ。しかし時を経て、加害者を許そうと思うようになる。

それが紹介され、他の場面はボビーとその家族など加害者側のインタビューが大半を占める。オーティスと同様にボビーが収監された刑務所も暴力がはびこっており、服役してからは自分の身を守るのに精一杯だったようだ。

ボビーの生育環境は良好だった。クリーシーの依頼に最初はためらっていたが、「父から凄惨な性的虐待をも受けている」と嘘をつかれ殺害に踏み切ったことが明かされる。

『塀の中の少年たち』で紹介された多くの事件を見ていると、加害者に対して嫌悪感でいっぱいになる。だがこのエピソードでは、加害者のボビーに感情移入してしまう。クリーシーを救おうと怖がりながら夫婦を撃ったものの、彼女に騙されていたことがわかり、終身刑が課された。それから25年以上経って法律が変わっても、再審の目処がたたない。自分の手で罪のない人を死なせたという事実と向き合い、苦しみ続けている。それを思うと、この事件はボビーを主人公にした悲劇のような印象を受ける。

だが視聴した後、自分が被害者(亡くなったクリーシーの母と銃撃されたクリーシーの父)の失われた人生についてあまりにも無頓着なのではないかと気づいた。

善と悪。その区切りをはっきりつけようとしながらも、目に映る映像によって感情移入する人が変化することに気づいたのだ。

 

事件を自分ごとにするために

加害者の生い立ちや事件当時の状況に問題があったとしても、「加害者は悪だ」と言い切ることはできる。間違いではない。

だが、そこで思考停止をすると、「今後起きそうな事件をどうすれば防げるのか?」というところまで考えが行き着かなくなる。

映像作品は、制作者の意図に影響を受ける。そう思いながら再び『塀の中の少年たち』を見ると、自分が「なぜ当事者に感情移入するのか」を客観的に考えることができた。犯罪を自分ごとにして考えるためにはひとつの事件を知ったときに、自分の内側に芽生えた感情を客観視することが大切なのではないだろうか。事件が起きた国や時代は関係ない。

客観視することを通じて、知らず知らずのうちに自分が物事を「善」と「悪」に分けようとしていることを気づくかもしれないし、あらためて事件の背景に目を向けられるかもしれない。私の場合、ドキュメンタリー映像を見た後、浮かび上がってきたさまざまな感情の整理を経て、初めて「今後起きる犯罪を少しでも減らし、傷つく被害者をなくすためには何をすればいいのか?」と考えられるようになった。

自分や身近な人の身に起きた出来事は、主観でとらえざるをえない。しかしドキュメンタリーは異なる。距離感を持って犯罪というものを見つめることができる。

自分の体験と『塀の中の少年たち』で得た気づきを踏まえ、次回のコラムではより深く事件を未然に防ぐ方法を模索したい。