最近、裁判の傍聴に行くようになった。
傍聴席では、ニュースを見るだけではわからない加害者たちの背景を知ることができる。

「もし彼らを取り巻く環境が違っていて、適切な支援を受けられていたら犯罪は起きなかったんじゃないかな」

裁判を見てそんな気持ちになることもあった。だが、一緒に行った知人の意見は違っていた。

「同じ環境にいても、すべての人が罪を犯すわけではないよね」

なるほど。
自分を取り巻く世界が、がらっと変わった気分になった。自分は主観に頼りすぎている。無意識のうちに加害者のことをわかった気になっている。
たとえ生い立ちや環境が劣悪でも、犯罪に手を染めず、一生懸命生きている人がほとんどだ。その事実は、どの犯罪にも前提として横たわっている。

社会のせい、周りのせい、環境のせい。

自分ではないもののせいにするのは楽だ。だがそれ以前の問題として「自分がしたことには責任が伴う。犯罪行為をすれば被害者が傷つく。被害者側にとっては、加害者の背景よりも、加害者が罪を犯したという事実のほうが大きい」と考えることが必要なのではないだろうか。加害者の思いがそこまで至らずに起きている犯罪もあるはずだ。

子供の頃、私を連れ去ろうとした男には、どんな背景があったのだろう。

そう考えるようになったのは最近だ。
被害者だった私は、事件当時はただただ苦しかった。
そして今、ようやく男の背景に思いを馳せることができるようになった。しかし動機が何だったとしても、他人に危害を加えていいはずはない。

犯罪を考えるコラム、最終回。

すべての犯罪は防げない。だが未来に起きる犯罪をちょっとでも減らしたいと思ったとき、できることは何なのか、私は自分なりの答えを導き出した。

若林 理央
読書が好きなフリーライター。大阪に生まれ育ち2010年に上京。幼少期からマジョリティ・マイノリティ両方の側面を持つ自分という存在を不思議に思っていた。2013年からライターとして活動開始。取材記事やコラムの執筆を通し「生き方の多様性」について考えるようになる。現在は文筆業のかたわら都内の日本語学校で外国人に日本語を教えている。

生い立ちや環境は犯罪を起こす理由になる?

ある日、性犯罪の裁判を傍聴した。

法廷で被告人は体を小さくして座っていた。彼はSNSで知り合った15歳の少女と付き合っていると思っていた。服を脱いだ写真を送ってもらい保存し、少女が家出したときは家に泊めた。少女も、周囲に「自分の彼氏だ」と被告人のことを言っていたらしい。二人の間に性的な行為はあったが、性交渉はなかったという。

しかし少女を泊めた翌日、彼女の両親の依頼によって警察が少女の居所をつきとめ、被告人は逮捕された。

検察は問う。

「自分のしたことが児童ポルノや未成年誘拐といった犯罪だとわかっていたのですか」

法廷に沈黙が落ちた。被告人は細々とした声で答えた。

「犯罪だとはわかっていましたが、罪名まではわかっていませんでした…」

怯えているのが、傍聴席からもはっきりとわかる。被告人は震える声で謝罪を繰り返す。

彼の場合、事件後に務めていた会社をクビにされ、被害者の両親に刑事告訴されたことでようやく自分のしたことを自覚したようだ。

少女にSNSで出会うまで、被告人は孤独な生活を送っていた。「彼女」と思っていた少女の存在だけが、彼の生活に光を照らしていたそうだ。

しかし相手は未成年である。

事件の前まで自分の彼氏だと周囲にも言っていたという少女は「彼氏だなんて思っていない」と意見を覆したそうだ。それだけ18歳未満は精神的に成熟しているとは言い難い年齢だと検察は述べる。彼女にとって、被告人との「恋愛」はフィクションのような感覚だったのかもしれない。

判決は執行猶予4年、懲役3年だった。

冒頭での知人とのやりとりがあったのは、この裁判が終わった後だ。

「彼がもっと恵まれた環境で生きていたら、罪を犯さなかったのかも」

しかしそれを聞いた知人は、そういった考え方は危険だと言った。

「同じように孤独で、辛い環境にいても、ほとんどの人は罪を犯さずに生きてる」

はっとした。たしかにそうだ。生い立ちや身を置いている環境が過酷な人は、私の知人にもたくさんいる。しかし誰も犯罪に手を染めていない。

「環境」と「個人」を安易に結びつけるのは、危険なことだ。

罪を犯したことを人や環境のせいにはできない

他の性犯罪の裁判では、被害者の20代女性が、他の人からは見えないように配慮されたうえで意見陳述をした。彼女は事件後、怖くて仕事に行けなくなり退職を余儀なくされた。精神的な苦痛は続いていて今も病院に通い続けている。被告人からの賠償はまだない。

「あなたは他人の人生を壊しました。どんな性癖があろうと私にはどうでもいい。他人を傷つけないでください。通り魔に遭うのといっしょです」

性犯罪の刑期は短い。強姦などでない限り、実刑判決が下っても数年で出てこれることがほとんどだ。更生して人生をやり直せる加害者。通り魔のように傷つけられ人生が壊されたままの被害者。被害者の人生は、決して事件が起きる前に戻らない。

ひどい親に育てられたからとか、劣悪な環境だったからとか。多くの犯罪者はいろいろな背景を背負っている。だが、彼らに事件を起こしたのは紛れもなく自分で、他の人に責任転嫁はできないという認識はあるのだろうか。

被害者は陳述中に涙が止まらなくなり、言葉が途切れることもあった。

それでも懸命に訴えていることがあった。

「被告人に厳罰を。でないと、また被害者が増えます。今度はもっとひどい性犯罪をしでかすかもしれない」

どのような背景があっても

自分がされていやなことは、相手もいやだ。

自分が痛いと感じることは、相手も痛い。

保育園や小学校で、そういった教育を多くの人が受けている。知識として知っているはずなのに罪を犯す人がいる。そういった場合の対処について考えたとき、頭に浮かぶ解決策は「加害者自身が、罪を犯せばどのようなことが起こるのか」を充分に知るということだ。

個人的には少年法の撤廃や、性犯罪の厳罰化も必要だと思っている。とても悲しいことだが、「どうせすぐ釈放される」と思って犯行に及ぶ加害者もいるからだ。

私の腕をつかんだ男も、「自分のしたことで相手の人生が壊れても、自分の人生はまたやり直せる」と考えていたのかもしれない。私の想像にすぎないが、もしそうならと思うだけで、嫌悪感でいっぱいになる。もし厳罰が課されるのであれば、果たしてあんなことをしただろうか。

「自己責任」という言葉は忌避されている。しかし犯罪を考える際は、大切な要素なのではないかと思う。

私が小学生の頃、神戸連続殺傷事件が起きた。その後、こんな言葉を耳にした。

「親はどんな育て方をしたんだ」

加害者家族は反論できないことがほとんどだ。自分たちが罪を犯したからではない。「自分の家族から犯罪者を出した」という意識があるからだ。時に命を絶つ加害者家族もいる。

「罪を犯したのは、まぎれもなく加害者」

周囲や、何よりも加害者本人がそう思っていたなら、防げた事件もあるはずだ。

 

犯罪における責任の所在

もちろん機能不全家庭で育った人たちへのケアは必要である。しかし「家庭環境が犯罪を起こす要因になった」と言い切るのは、同じような状況で育ちながらも犯罪に手を染めなかった多数の人の存在を無視している。

一人の人間が、「自分がしたことに責任を持つ」こと。

家族でも学びの場でも、地域のコミュニティでもいい。何か一つの事件を取り上げて、大人と子供で「どうすれば防げたのか」を一緒に考えることはできないだろうか。

「加害者は、自分がしたことの責任を負わなければならない」と大人がわかりやすく説明することも大切だ。

そうすれば「自分のしたことは誰のせいにもできない。自分で責任を負わなければならない」という意識につながり、未来で起きる犯罪が少しでも減るのではないだろうか。

もちろんすべての犯罪は防げないと思う。しかし犯罪における責任の所在を明らかにすることは、大きな意味があるはずだ。

 

傷つく人を少しでも減らすために

私は法律家でも犯罪学者でもない。だが個々が犯罪の防ぎ方を考えることの重要性を、この連載を通して実感した。

考え方はさまざまだと思う。ただこのコラムが読者ひとりひとりの考えるきっかけになれば、とても嬉しい。

被害者を減らしたい。罪のない人が傷つくことなどあってはならない。

私の心にあるのはそれだけだ。今からでも遅くはない。未来は変えられるし、傷つく人をきっと減らせるはずだ。