「平和」という言葉に、みなさんはどんなイメージを抱くだろう。そのイメージは、万人にとって同じだろうか。

「『戦争がない状態=平和』と考える人も多いかもしれません。でも社会で起きている差別やいじめ、一人ひとりが生きづらさを感じている状態は、果たして本当に『平和』と言えるのでしょうか……」

平和の捉え方に疑問を投げかけるのは、これまでに紛争解決や平和構築の最前線で活躍してきた小山淑子さん。

価値観や状況が目まぐるしく変わる今の時代、「平和」という概念も変化しているのかもしれない。それでは、これからの時代を担う私たちは平和を実現するために何をしたらいいのだろう?

その答えを探して、国連機関に在籍した経験を活かし東洋大学の国際学部で教鞭を執る小山淑子さんにお話を伺った。

松本 麻美
1988年生まれ関東育ちのフリーエディター。彫刻家を目指して美術大学に入学するも、卒業後は編集者の道へ。世界中の人間一人ひとりがお互いに尊重しながら自由に生きていけるようになればいいのにと思いながら日々仕事をしている。好物はスイカ。本、映画、美術、社会課題などさまざまな分野の間を興味が行ったり来たりしています。

「平和」とはいったい何?

小山淑子さんは軍縮目的とする国連の機関(国連軍縮研究所)でキャリアをスタートさせた。その背景には、「小型武器をなくしたい」という強い思いがあったからだという。

「恩師を銃撃で亡くした経験があるんです。学部での恩師にあたるゼミの先生でした。タジキスタンのPKOミッションに赴任されていたんですが、1ヶ月後には帰国というタイミングで」

「当時の私は将来をぼんやりとしか描けていなくて。3年くらい日本で働いてから大学院へ行き、考えますと言っていたんです。でも先生の訃報を聞いて、『今すぐ、武力紛争を解決するための勉強をしたい!』と、強く思いました。そこからイギリスの大学院に進学し平和研究学部で学ぶことに。具体的にアクションできそうな分野だと感じ、飛び込みました」

恩師を撃ったのは、カラシニコフ自動小銃の「AK-47」だった。旧ソ連で1947年に開発されたこの小型武器は、安価で壊れにくいために世界中の紛争地で使われ、問題になっていた。

大学院を卒業後は、国連軍縮研究所へと入所。そこで小型武器分野の仕事に携わり、以降は2〜3年の任期で国連機関をまわった。コンゴ民主共和国でのPKOミッション(平和維持活動)ではゲリラ兵の帰還、反政府ゲリラとの停戦直後のスリランカでは収容された人々の社会復帰、またタイやパキスタンで自然災害対応に携わるなど、世界中を飛び回った。

そんな小山さんが日本に帰ってきたきっかけは、2011年の東日本大震災だ。

「東日本大震災で支援活動しながら見たのは、前例や慣例などは関係なしにその場でできることをどんどんやっている民間団体や個人の姿でした。この機動力は国連でも敵わないな、と思ったんです」

戦争や紛争とは無縁と思われがちな国、日本。そんな母国を飛び出し紛争地域の最前線で活動する小山さんの目に、戦争のない、いわゆる平和な国はどのように映っていたのだろうか。

「コンゴ民主共和国でゲリラ兵の武装解除の仕事をしていたときは、日本やヨーロッパにいる友達や家族の近況に、『なんて幸せでラッキーなんだろう』と思っていました。恋愛でもめたり、子育てで大変だと言っていても、彼らのいる場所では戦争で日常的に人が殺されてはいない。いわゆる普通の暮らしがある」

「これは全然やっかみではなくて、むしろ希望でした。『この国でもいつかあんな生活ができたらいいな』という目標が見えて、希望が持てる気がしたんですよね」

周りで紛争が起きていたり、紛争に巻き込まれたりしている国・地域では、「こうだったらいいのに」という具体的な願望が自然と出てくる。「怖い思いをせずに学校へ行きたい」「明日はレイプされず一日無事に過ごしたい」「来年も生きてこの湖を見ていたい」……。

「だから平和は、『平和をつくる』といった表現でひとくくりにされる概念的ものではなくて、『生活環境がこうなったらいいのに』という具体的な目標でもあるんですよね」

「戦争がない=平和」って本当?

ところが日本では、平和への思いは抽象的になりがちだという。日本では「平和」という言葉をよく耳にするわりに、平和という状態についてはなかなか議論されていないのが現状だ。

筆者も、平和教育の甲斐あってか、「平和であることは大事」とは考えていたものの、平和であるということが「どんな状態」なのか、平和であるために「何をすべき」なのか、という話になるとよくわからない。反対に「戦争はダメ」とは言えるが、自分自身が「戦争のある状態」をどう考えるべきなのかはわからないし、戦争には含まれない暴力や貧富の差、差別などの存在が許せるかというと、まったくそうではない。

日本は「平和大国だ」と言われているが、「帰ってきて5年もすると、日本は平和ではないと思い始めてきた」と小山さん。

「暴力と一言で言っても多様ですよね。身体・言葉の暴力や、貧富の差、偏見。文化的、構造的、直接的な暴力もあります」

それは一体、どういうことだろうか。

「例えば、女々しいって「女」の漢字を重ねて書きネガティブな意味合いで使われます。こうした私たちが普段、何気なく使っている言葉でも暴力を持ってしまうんです」

教鞭を執る東洋大学の学生にも、「平和ってなんだろう?」と小山さんは問いかける。

「学生たちも最初は、戦争がない状態=平和と、みんな同じような答えを言うのですが、『暴力』にはさまざまな形があることを話すと、身近にある暴力をどんどん話してくれます」

子どもの頃から経験してきたいじめやシカトも、暴力のひとつ。平和だと思っていても、日常には暴力が散りばめられている。話していくうちに、『日本は平和じゃないじゃん』と考え始める学生がたくさんいるそうだ。

平和をつくり続ける手段としての対話

日本は戦争がないという意味で平和と言われているけれど暴力はある。私たちの日常は、戦争・暴力と平和な状態がマーブル模様のようになっている。この2つは、両極端の存在ではないのだ。

例えば男女の不平等が根強く残る社会構造も、一つの暴力と言える。昔から女性は男性をサポートし家を守るものとされ、時代を経て昭和、平成になっても、女性の上司は疎まれ、会社での仕事はもっぱらコピーやお茶くみといった状況が続いた。令和になった現在も、30人以上の企業で課長以上の管理職についている女性の割合は、わずか9.5%にとどまっている(令和元年度雇用均等基本調査より)。

この暴力は徐々に解消されながらも根強く残り、時代をまたいで繰り返されている。

「以前は女性に求められた社会的役割からはみ出てはいけないという雰囲気があり、その雰囲気に抗えなかった事情があったことも十分にわかります。でも抗わなかったことで、次の世代に宿題が積み残されてしまうことに、自覚的であるべきだと思うんですよね」

社会の宿題をなくし、できるだけ平和である状態にするために、私たちはどうしたらいいのだろうか?

それは「対話をする」ことだ。

「ある人にとっての平和は、別の人にとっては地獄だったりするかもしれません。私たちがお互いに感じていることや、抱いている平和像を話し合い、それぞれが求める暮らしや世界についてのビジョンを共有していく。これを止めずに日々積み上げていくことが、平和をつくるということだと思います」

「例えば、いま社会で起こっている女性やLGBTQ+に関わる差別をなくそうとする動きは、平和をつくる具体的なアクションですよ。女性が置かれてきた立場がなぜ政治の場でなかなか取り上げられてこなかったのか。なぜ性別が男女二元論になっていて、それ以外の議論がおざなりになってしまっているのか。そこに違和感を感じて声をあげている、言おうとしている若い人たちはとても勇気があると思います」

「日本人はみんな同じ考えを持っている」という思い込みもあるんじゃないかなと続ける小山さん。少し前の日本では、「単一民族国家」や「1億総中流社会」といった意識が持たれてきた影響もあるのかもしれない。

しかし実のところ、日本列島には地方ごとに多様な文化や言葉・表現が息づいていたし、時代を経るごとに社会的立場やルーツ、思想などは多様さを増している。社会が速さを増しながら変化していくなかで、世代間での感じ方や考え方の違いも目立ってきた。

にも関わらず、現代でも一人ひとりの考えの違いを受け入れることが少ない。対話の場ももたずに一部の人間の判断だけで物事が進んでいく場面も多い。違う意見があっても言えない雰囲気があるからだろうか。小山さんは、「いまの日本には現場感がある」と言う。

これから社会がやっていくべきことは、地域や社会的立場、世代など、異なる価値観を持つ人々が「対話」をすること。違和感を覚えたことに声をあげやすい社会の雰囲気や、声をあげた人が守られる仕組みも大切だ。そしてその社会はわたしたち自身がつくるものだ。

自分と違う考え方や感性、価値観を持つ人と対話をするのは、正直なところ、とてもしんどい。でもそれこそが、平和をつくるための方法で、わたしたちが起こして行くべきアクションなのだ。

今回のインタビューを通して、「平和=戦争がないこと」ではなく、「平和=あらゆる暴力がないこと」なのだと知った。いまこそ対話の場を大きく開き、私たち一人ひとりが感じる違和感や苦しみを共有することで、誰にとっても心地よい社会を作ることが大切だ。これからの毎日は、地道に自分自身や人が感じる違和感と向き合い、それらを解消する方法を探っていくことにしよう。