戦後70年を迎えた今年、世界の様々な国で太平洋戦争当時のことが思い返される出来事や取り組みが行われました。その中にはもちろん、当時日本が統治していた地域も含まれます。
そんな場所の1つであり、70seedsでも何度か取り上げた「マーシャル諸島」と日本の間に起きた、戦後のとあるエピソードについて、在マーシャル日本国大使を務めた安細和彦氏による寄稿記事を掲載します。
(写真:マーシャル諸島の少女 Raycrew ©Hiroaki Ueda)
『私のラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人…』(文末注)
この一風変わった歌詞と陽気なリズムを持つ歌と、私が何時頃、如何にして出会ったのかははっきりと覚えていない。親類の祝いの席で、興に乗った大人たちが口ずさんでいたのを子供ながらに耳にしたのか、あるいは家にあったラジオから流れていたのを聴いていたのかもしれない。
当時、私は歌詞の意味すら判らず、ラバさんとは愛しい人(英語のlover)から来ていることも知らなかった。いずれにしても、当時の経済白書が「もはや戦後ではない」とした昭和31~32年頃のことであったと記憶する。
「ラバさん」との再会
さて、時は流れ私は紆余曲折の末に役所勤めの身となった。そして、業務上2~3年単位で世界各地(と言っても、主に「大字田舎」的な辺境の地であったが)を転々とする暮らしを四半世紀に亘り続ける中で、『酋長の娘』は私の記憶から完全に消え去ったかに思えた。
ところが、2012年の暮れに、当時フィリピンのダバオ市にある小さな駐在官事務所に勤務していた私にマーシャル諸島共和国への転勤の知らせが届いたのを機に、この歌と半世紀ぶりに向き合うことになった。その時、私は恥ずかしながらマーシャル諸島共和国の正確な位置すら知らなかったものの、「マーシャル」という名前に聴き覚えがあることに気づき、程なくしてそれがあの『酋長の娘』の2番の歌詞に出てくることを思い出した。
(写真:マジュロ環礁の内海 Raycrew ©Hiroaki Ueda)
『赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る…』
「群島」と「諸島」という言い回しの違いこそあれ、なんと『酋長の娘』は、これから赴任する国を舞台にしていたのだ。「テクテク踊るとはどんな踊り方なのか?」という関心も湧いてきていた。
それから更に半年ほどが経過し、私は既にマーシャル諸島に赴任して、仕事もひと段落した頃、グアム経由で東京に用務出張することになった。
(写真:マジュロ環礁上空 ©Kazuhiko Anzai)
マジュロ空港にてグアム行き“各駅停車”の「アイランド・ホッピング便」に搭乗すると、偶々マーシャルの大統領補佐大臣であったデブルム大臣(Hon. Tony deBrum, Minister in Assistance to the President。その後あった内閣改造により現在は外務大臣)が隣席に居合わせ、彼が次の寄港地で降機するまでの小一時間に亘り、日本とマーシャルとの交流史に関する「講義」を拝聴することとなった。
「講義」も終わりに近づいた時、機内サービスのシャンパンにかなり饒舌になった大臣は、「私は自分の父親や、戦後に出会った日本人商社マンから教えてもらった例の日本の歌をこれから歌うので、歌詞が違っていたら直してくれ」と言うなり(当然ながらアカペラで、)『ワタシ~ノ ラバサ~ン シュウチョ-ノムスメ~ イ~ロハ クロイ~ガ ナンヨウジャビジン~』と歌い始めたのだ。
デブルム大臣は、この歌の歌詞の1番は完璧に、2番もほぼ完璧に、そして3番と4番はかなりアドリブとハミング混じりで歌い終えた。そして搭乗機が次の寄港地に到着すると、「マジュロに戻られたら是非また一緒に歌おう」と私の肩をポンと叩いて降機して行った。
「好ましくない表現」とはなんなのか
この独唱会から遡ること三ヶ月余り、私は首都マジュロの大統領執務室にロヤック大統領(H.E. Christopher J. Loeak, President of the Republic of the Marshall Islands)を表敬訪問したが、席上、大統領から『酋長の娘』の歌との関連で以下の様な逸話を聞いていた。
「…子供の頃、亡くなった祖父から聞いたところでは、祖父がまだ若かった頃で、マーシャルがまだ日本の委任統治下だった頃、自分の郷里であるアイリンラプラプ環礁にひとりの日本の王子が訪ねて来て、同環礁の大酋長であった祖父の家で数日を過ごした。王子はマーシャルの歴史や風俗習慣について祖父が語るところを記録していたが、そうした取材を基に自らひとつの歌詞を書きあげ、『日本に戻ったら、これに曲をつけるのだ』と語ったそうであるが、自分はこれこそが『酋長の娘』の歌の誕生であったと信じている」
(著者注:大統領は王子を英語で“prince”と称していた。しかし、戦前期に日本の皇室関係者がマーシャルを訪問したという記録はない。)
ロヤック大統領によれば、彼はこの話に登場する日本の王子は誰だったのか興味を持ち、祖父や父に尋ねてみたが、残念ながら特定できなかったそうである。そして、この逸話を披露した後でロヤック大統領は私に対し、「日本の国祭日(National Day=天皇誕生日)の祝賀レセプションの席で一緒に『酋長の娘』を歌いたいがどうか?」と提案したのだ。
そこで私から大統領に対し、興味深い逸話と日本の国祭日へのご配慮に感謝するとした上で、「実はこの歌の歌詞には一部好ましくない表現があり、日本国内では放送禁止となっているのです」と恐る恐る説明した。すると大統領と、その場に同席していたデブルム大統領補佐大臣の二人ともびっくりした様子で、「一部好ましくない表現とは何か?」と質問してきた。
私は(後で誤解を生じないように明確に説明した方がいいと判断し)、歌の題名は『酋長の娘』であり「酋長」という表現が適当かどうか問われたのだと説明した。
これに対し大統領は「別に悪いことはないと思う。自分は長男ではないので酋長職(マーシャル語ではIroji)を継いでいないが、長兄は今もアイリンラプラプ環礁の大酋長であるし、マーシャルでは全ての環礁に大酋長や酋長が存在していることは貴官もご存じだろう。更に、次兄はこの国の国会(the Parliament)の諮問機関である『酋長評議会』(Council of Iroji)の議長を務めている。そうした意味でも『酋長』の存在は否定できない」と述べた。
そこで私はダメを押すべく、(極めて申し上げ難いことであるがと断った上で)、「更に申せば、遺憾ながらこの歌の1番の歌詞には『色は黒いが南洋じゃ美人…』という部分がある。これは外見上の差別表現とも言えるので相応しくないと考える」と述べた。
これに対し、大統領及び大統領補佐大臣の二人は口を合わせて「何故に『色は黒いが…』が遺憾なのか?我々マーシャル人はご覧のとおり確かに浅黒い肌をしている。この歌は事実を述べており、差別とは思っていないが…」と言われた。デブルム大臣は「黒くても美人ならいいではないか?」と言って片目をつぶったりした。私は返す言葉が見つからなかった。
(写真:マーシャル諸島の少女)
その三ヶ月後に、グアム行き便の機内で遭遇したデブルム大臣がシャンパン片手に『イ~ロハ クロイガ ナンヨウジャビジン~』の部分に力を込めて歌った背景には私と大統領や大臣とのこんなやり取りもあったのである。
因みに、この年の日本の国祭日祝賀レセプションではマーシャルの民謡を歌った。
日本とマーシャルのつながりを物語に
日本とマーシャルとの百年に及ぶ交流の歴史は、大正後期から昭和初期に及ぶ委任統治領時代の関係と、戦後、国際社会に復帰した日本と新生独立国家となったマーシャル諸島共和国との対等な二国間関係との間に、太平洋戦争中の日本によって多大な苦しみと悲嘆を招いた時期があったことを忘れてはならない。
(写真:マーシャル諸島の伝統手工芸品「アミモノ」 ©Asami Kinoshita)
しかし、そうした曲折があったにも拘わらず、マーシャルの指導層が今も日本に親しみを抱き、また、高齢者を中心に我々日本人に対して知っている日本の歌を聞かせようとしてくれる親愛の情に対し、我々としても応える必要があるのではないかと思っている。
長くなったので、私の『酋長の娘』にまつわる話はこの辺で終わりにしたい。
最後に蛇足ながら、私はマーシャル勤務中に、在留日本人の有志の方の協力を得て、マーシャル諸島と日本との百年に及ぶ歴史的繋がりを縦軸に、今日のマーシャルで活躍する日本人の若者の姿を横軸に、豊かな自然と色濃く残る日本文化の影響や、同国と向き合う各世代の日本人のマーシャルとの出会い、そしてマーシャル人高齢者が今も口ずさむ『酋長の娘』に秘められたエピソードなどを一つの「物語」として書き下ろしてみた。
無論、これはフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係の無いものであるが、機会があれば、ご笑覧いただけると嬉しく思う。
(写真:マジュロ環礁内 夕焼け Raycrew ©Hiroaki Ueda)
(著者注:『酋長の娘』の歌は、昭和5年(1930年)に浪曲師の石田一松(彼は戦後に衆議院議員にもなっている)が作詞したもの。この歌が世に出た背景は明らかではないが、日本は、大正8年(1919年)から委任統治領として引き継いだミクロネシア地域の旧ドイツ植民地(日本は「南洋群島」と命名)の開発を進めてきており、国民に対し北の「満州」と同様に南の「南洋群島」への入植を啓発していた。そうした当時の国策も影響していたのではないかと思われる。『酋長の娘』は戦後も歌詞の一部を代えて歌い継がれていた。)
安細氏が書き下ろした小説「私のラバさん 酋長の娘」が、月刊『北方ジャーナル』誌(札幌市所在のRe Studio社発行)にて掲載されています。